めぐる季節は麦の道 二 狐の祝言
最終エピソード掲載日:2026/08/29
季節は春。
桜が散り、新しい緑が芽吹き始めた頃、恵子は風の匂いを感じながら、ぽつりとつぶやく。
「……今年は、あの子たちに会える気がする。」
麦人には、その言葉の意味が分からなかった。
やがて初夏を迎えたある日。
晴れ渡った空から、不思議な雨が降り始める。
「恵子さん! 晴れてるのに雨!」
「ふふっ……今日は、狐の祝言かもしれないね。」
その日を境に、麦人の周りでは小さな不思議が続き始める。
森へと続く獣道に残る小さな足あと。
風もないのに響く鈴の音。
誰もいない竹林を渡る、やわらかな風。
そして、木漏れ日の中からこちらを見つめる、一匹の金色の子狐。
麦人は夢中で追いかけるが、その姿はいつも森の奥へ消えてしまう。
「追いかけてもいい。でもね、追いつこうとしなくていい。」
恵子は、そう微笑むだけだった。
一方、賢蔵は珍しく昔話を始める。
まだ若かった頃、山仕事の帰り道に一度だけ見たという、晴れた日の雨。
白無垢のように輝く光。
風に揺れる無数の鈴の音。
そして、人ではない誰かの祝言。
「あれが夢だったのか、本当に見たのか……今でも分からん。」
それ以上、賢蔵は語らない。
夏祭りの日。
突然降り出したお天気雨の中で、麦人はついに見る。
木々の間を静かに進む、美しい狐たちの祝言の行列を──。
誰も言葉を交わさず、ただ鈴の音だけが森に響く。
その光景は一瞬で消え、あとには雨上がりの虹だけが残っていた。
「あれ、本当にいたのかな。」
麦人が尋ねると、恵子は空を見上げて笑う。
「どう思う?」
「……いたと思う。」
「だったら、それが答えだよ。」
見えないものを信じること。
自然を敬うこと。
そして、誰にも説明できない出来事を、そのまま心にしまっておくこと。
恵子との一年を通して、麦人は少しずつ大人への一歩を踏み出していく。
やがて季節は巡り、再び春が訪れる。
晴れた空から、一粒の雨が落ちる。
麦人はもう狐を追いかけない。
ただ空を見上げて、そっと微笑む。
「また会えたね。」
その声に応えるように、風がやさしく吹き抜け、どこからともなく鈴の音が聞こえた気がした。
これは、自然の中にひっそりと息づく不思議な世界と、一人の少年が少しだけ心を大人へ近づけた、もうひとつの「麦の道」の物語。
第一章 春を渡る風 前編
2026/08/21 23:32
第二章 春を渡る風 中編
2026/08/23 18:43
第三章 春を渡る風 後編
2026/08/25 00:03
第四章 雨を待つ森
2026/08/25 00:04
(改)
第五章 狐の記憶
2026/08/25 18:42
(改)
第六章 竹林の風
2026/08/25 18:43
第七章 陽射し雨
2026/08/26 00:28
第八章 白無垢
2026/08/26 17:58
第九章 祝言
2026/08/27 08:45
第十章 夏の風鈴
2026/08/28 11:27
第十一章 山からの贈りもの
2026/08/29 01:37
第十二章 めぐる夏、麦の道
2026/08/29 01:38
あとがき
2026/08/29 01:39