第七章 陽射し雨
七月の終わり。
長かった梅雨がようやく明けた。
朝から蝉が鳴き、空には雲ひとつない。
団地のベランダでは、麦人が育てていた朝顔が、青や紫の花をいくつも咲かせていた。
「咲いた!」
麦人の声が響く。
「おお、きれい。」
恵子がベランダへ出てくる。
「昨日までつぼみだったのに。」
「朝顔は朝に咲くからね。」
「じゃあ、寝てる間に準備してるんだ。」
「そうかもしれない。」
麦人は花を覗き込む。
「毎日違う花が咲くの、面白い。」
「そういうの、ちゃんと見ておくといいよ。」
「なんで?」
「同じ夏は二度と来ないから。」
麦人は少し考えた。
「今年の夏も、一回だけ?」
「うん。」
「じゃあ、いっぱい遊ばないと。」
「遊ぶだけじゃなくて、ちゃんと覚えておきなよ。」
「写真撮る?」
「写真もいいけど、目で見て、心でも覚える。」
「難しいなあ。」
恵子は笑った。
「そのうち分かるよ。」
◇
昼前。
麦人は恵子と一緒に買い物へ出た。
空は真っ青。
照りつける日差しがアスファルトを白く輝かせている。
「暑い……。」
「麦茶あるよ。」
「ありがとう。」
麦人は水筒を一口飲んだ。
団地の坂道を下っていると、恵子がふと足を止めた。
「どうしたの?」
「……風が変わった。」
麦人も顔を上げる。
さっきまで熱かった風が、ほんの少し冷たくなっていた。
木々が一斉に揺れる。
「雨の匂い。」
恵子がつぶやく。
「でも晴れてるよ。」
「うん。」
恵子は空を見た。
「だから、ちょっと気になる。」
◇
帰り道。
山の向こうに、大きな入道雲が立ち上がっていた。
白くて、もくもくとしている。
「夕立来るかな。」
麦人が言う。
「来るかもしれないね。」
「じゃあ、急ごう。」
「そうだね。」
二人が団地へ向かって歩いていると――。
ぽつ。
麦人の腕に雨粒が落ちた。
「雨!」
空を見上げる。
青空。
太陽も出ている。
なのに、雨。
「恵子さん!」
「うん。」
恵子は立ち止まり、雨を手のひらで受けた。
「狐雨だね。」
「まただ!」
雨は少しずつ強くなっていく。
けれど、雲は二人のいる場所にはない。
太陽の光を受けた雨粒が、きらきらと輝いている。
まるで空から銀色の糸が降ってくるようだった。
◇
その時。
麦人の耳に、聞き慣れた音が届いた。
チリン。
「……鈴。」
恵子も聞こえたようだった。
けれど、今回は何も言わない。
麦人は山の方を見る。
雨の向こう。
木々の間に、何かがいる。
「恵子さん。」
「うん。」
「行ってみてもいい?」
恵子はしばらく麦人を見つめた。
「どうして行きたいの?」
「狐が呼んでる気がする。」
恵子は少し笑った。
「じゃあ、行ってみようか。」
「いいの?」
「今日はね。」
◇
二人は山道へ入った。
雨は降っているのに、道は不思議なくらい明るい。
木々の葉が雨粒を受けて輝き、足元には小さな虹がいくつもできている。
麦人は走り出しそうになった。
けれど、すぐに歩く速さを落とした。
「急がなくてもいいよね。」
恵子が笑う。
「そう。」
少し歩くと、道の真ん中に子狐が立っていた。
あの金色の子狐。
麦人を見ると、ゆっくり歩き始める。
「待って。」
麦人が声をかける。
子狐は止まらない。
でも、何度も振り返る。
「ついてきてってことかな。」
「そうかもしれないね。」
恵子が答える。
二人は子狐の後を追った。
◇
やがて、いつもの山道から外れた。
細い獣道。
木々の間を抜けると、小さな広場に出た。
そこには古い石が並んでいた。
「ここ、知らない。」
麦人が言う。
「私も久しぶり。」
「来たことあるの?」
「昔、一度ね。」
恵子は石の前に立った。
そこには小さな赤い布が結ばれている。
風が吹く。
チリン。
鈴の音。
麦人は振り返った。
木の枝に、あの赤い紐が結ばれていた。
小さな鈴が揺れている。
「この前の鈴?」
「似てるね。」
恵子は答えを濁した。
◇
すると突然。
雨が止んだ。
太陽の光が一気に差し込む。
広場いっぱいに光が広がった。
そして――。
遠くで、ひとつ。
鈴が鳴る。
チリン。
続いて二つ。
チリン。
チリン。
さらに遠くから。
チリン……。
チリン……。
まるで誰かが、こちらへ向かって歩いてくるようだった。
麦人は息をのむ。
「恵子さん。」
「うん。」
「これ……。」
「静かに。」
恵子は麦人の肩に手を置いた。
二人は黙って、その音を聞いた。
森の奥。
木漏れ日の向こう。
一瞬だけ、白い影が見えた。
人のような形。
けれど、頭の上には――。
狐の耳。
麦人の目が大きくなる。
「……狐。」
白い影は、こちらを向いた。
そして、ほんの一瞬だけ微笑んだように見えた。
次の瞬間。
風が吹いた。
木の葉が舞い上がる。
白い影は消えていた。
◇
「今の、見た?」
麦人が振り返る。
恵子はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「うん。」
「人だった?」
「どうだろうね。」
「狐だった?」
「そうかもしれない。」
「恵子さん、絶対知ってる。」
麦人が少し笑う。
「でも、教えてくれない。」
「うん。」
「なんで?」
恵子は麦人の頭を軽く撫でた。
「むーさんが、自分で見つけたほうが楽しいから。」
◇
帰り道。
空には大きな虹がかかっていた。
麦人は何度も振り返る。
けれど、そこにはもう誰もいない。
「ねえ、恵子さん。」
「なに?」
「狐の祝言って、いつ?」
恵子は虹を見上げた。
「もうすぐ。」
「どれくらい?」
「夏の夜。」
「何日?」
恵子は笑う。
「それは、狐に聞いてみないと。」
「狐に聞けないよ。」
「じゃあ、待つしかないね。」
麦人は少し考えてから、うなずいた。
「うん。」
その時、風が吹いた。
遠くの山から、鈴の音が一度だけ聞こえた。
チリン。
麦人はもう走らなかった。
ただ、笑って空を見上げた。
狐の祝言は、確かに近づいていた。
――第七章 陽射し雨・終――




