第六章 竹林の風
七月。
梅雨が明ける少し前の朝。
蝉が鳴き始めていた。
まだ本格的な夏ではない。
けれど、朝の空気には、もう夏の匂いが混じっている。
麦人は玄関を開けると、大きく伸びをした。
「暑い!」
「まだ朝だよ。」
恵子が笑う。
「朝から暑いもん。」
「じゃあ、山に行く?」
「行く!」
麦人は即答した。
「でも、今日は竹林のほう。」
「竹林?」
「うん。」
「狐いるかな。」
「さあ。」
「恵子さん、最近そればっかり。」
「便利な言葉だからね。」
恵子は帽子をかぶった。
「さあ、行こう。」
◇
団地の裏手から山道へ入る。
夏の森は、春とはまるで違っていた。
葉は濃く、木々の間から差し込む光も強い。
蝉の声が遠くで響いている。
麦人は歩きながら、何度も周りを見た。
「狐、探してる?」
恵子が笑う。
「探してない。」
「ほんと?」
「……ちょっとだけ。」
「正直でよろしい。」
しばらく歩くと、竹林が見えてきた。
細い竹が何本も空へ向かって伸びている。
風が吹くたびに、葉が擦れ合う。
サラサラ。
カサカサ。
まるで誰かが小さな声で話しているようだった。
「ここ、涼しい。」
「竹は水をたくさん持ってるからね。」
「竹ってすごい。」
「昔の人は竹でいろんなものを作ったんだよ。」
「かぐや姫も?」
「もちろん。」
麦人が笑う。
「じゃあ狐も出てきそう。」
「かぐや姫と狐は関係ないけどね。」
◇
竹林の奥に、小さな古い祠があった。
屋根には苔が生え、周りには笹が茂っている。
「ここ、何?」
「昔からある祠。」
恵子が静かに手を合わせる。
麦人も真似をした。
「何をお願いしたの?」
「お願いじゃないよ。」
「じゃあ何?」
「ご挨拶。」
「誰に?」
「ここにいるもの全部。」
麦人は少し考えてから、
「こんにちは。」
と、小さく頭を下げた。
その瞬間。
竹林を風が通り抜けた。
サアァァァ……。
竹の葉が一斉に揺れる。
「返事?」
「かもしれないね。」
恵子は笑った。
◇
その時だった。
竹林の奥から――。
チリン。
鈴の音。
麦人はすぐに振り返った。
「いた!」
今度は恵子も止めなかった。
「行ってみようか。」
「いいの?」
「ゆっくりね。」
二人は音のした方へ歩いた。
竹の間を抜ける。
また、
チリン。
チリン。
音がする。
そして――。
竹林の向こうに、子狐がいた。
あの金色の子狐。
こちらを見ている。
「こんにちは。」
麦人が言う。
子狐は逃げない。
むしろ、一歩だけ近づいてきた。
麦人も一歩近づく。
子狐も一歩。
また一歩。
いつの間にか、二人の距離はほんの数メートルになっていた。
「かわいい……。」
麦人はしゃがんだ。
子狐は首をかしげる。
「名前、つけていい?」
恵子が笑う。
「名前は本人に聞かないと。」
「聞いても答えてくれないよ。」
「それなら、まだ決めなくていい。」
麦人は少し考えた。
「じゃあ、金ちゃん。」
「安直だねぇ。」
「いいじゃん!」
子狐は二人を見つめている。
その尻尾が、ゆっくり左右に揺れた。
◇
麦人が手を伸ばそうとした、その時。
子狐が突然、竹林の奥を振り返った。
耳がぴんと立つ。
何かを聞いている。
「どうしたの?」
麦人も振り返る。
何もない。
しかし恵子の表情が変わった。
「……誰か来る。」
「誰?」
「分からない。」
恵子は麦人の肩に手を置いた。
「むーさん。ここから動かないで。」
「うん。」
竹林の奥から風が吹いてきた。
それは不思議な風だった。
冷たい。
夏の暑さを忘れるほどに。
風の中に、かすかに花の匂いが混じっている。
白い花。
それから――。
鈴。
チリン。
チリン。
チリン。
今まで聞いたことのないほど、たくさんの鈴が鳴っている。
「恵子さん……。」
「大丈夫。」
恵子は麦人の前に立った。
「怖くないよ。」
◇
竹林の奥。
一瞬だけ、白いものが見えた。
人の背丈ほどの白い影。
けれど、すぐに竹の間へ消える。
麦人は目をこすった。
「今の、何?」
恵子は答えない。
子狐も、じっとその方向を見つめている。
やがて風が止んだ。
鈴の音も消える。
子狐は麦人を振り返った。
そして、ゆっくりと歩き出す。
「待って。」
麦人が声をかける。
子狐は立ち止まった。
一度だけ振り返る。
その目は、何かを伝えようとしているようだった。
そして森の奥へ消えていった。
◇
団地へ戻ると、賢蔵が玄関先に座っていた。
「遅かったな。」
「じいちゃん。」
麦人は竹林で見たことを話した。
鈴の音。
白い影。
子狐。
賢蔵は黙って聞いている。
「じいちゃん。」
「ん?」
「狐の祝言って、いつなの?」
賢蔵は空を見上げた。
「雨の多い年は、早い。」
「今年は?」
「どうかな。」
そこへ恵子が戻ってきた。
「今年は、もう近いよ。」
賢蔵が恵子を見る。
「そう思うか。」
「うん。」
恵子は麦人を見る。
「むーさんが呼ばれてる。」
「ぼくが?」
「たぶんね。」
麦人は目を丸くした。
「狐の祝言に?」
「まだ分からないよ。」
「またそれ。」
三人で笑った。
◇
その夜。
恵子はベランダに出て、夜空を見上げた。
遠くで雷が鳴っている。
夏の雨が近づいていた。
賢蔵が隣に立つ。
「もうすぐだな。」
「うん。」
「昔と同じだ。」
「……同じじゃないよ。」
恵子は静かに答えた。
「昔とは違う夏。」
「そうか。」
「だって、今年は麦人がいる。」
賢蔵は黙った。
やがて小さく笑う。
「そうだな。」
夜風が吹く。
その風に混じって――。
遠くの山から、鈴の音が聞こえた。
チリン。
チリン。
そして最後に、一度だけ。
チリン。
恵子は目を閉じた。
「さあ。」
小さくつぶやく。
「夏が来るよ。」
その声に応えるように、空から最初の雨粒が落ちた。
――第六章 竹林の風・終――




