第五章 狐の記憶
六月の終わり。
雨の季節が始まった。
朝から空は灰色で、団地の屋根を細かな雨が静かに濡らしている。
麦人は窓ガラスに顔を近づけ、外を眺めていた。
「今日はずっと雨かな。」
「たぶんね。」
恵子は台所で昼ご飯の支度をしながら答える。
「雨って、つまんない。」
「そう?」
「外で遊べないし。」
「雨の日にしかできない遊びもあるよ。」
「例えば?」
「雨の音を聞く。」
「それ、遊びなの?」
恵子は笑った。
「やってみれば分かるよ。」
麦人は少し不満そうな顔をしながらも、窓辺の椅子に座った。
ザーッ。
雨が屋根を叩く。
ぽた、ぽた。
ベランダの手すりから水が落ちる。
遠くでは車が水たまりを踏んで走っていく。
しばらく聞いていると、不思議なことに、雨にもいろいろな音があることに気づく。
「……ほんとだ。」
「でしょ?」
恵子が振り返る。
「雨も、ちゃんとしゃべってるんだよ。」
◇
昼食のあと。
麦人は居間の棚に、一冊の古いアルバムがあるのを見つけた。
「恵子さん、これ何?」
「ああ、それ?」
恵子が近づいてくる。
「昔の写真。」
「見ていい?」
「いいよ。」
麦人はアルバムを開いた。
若い頃の恵子。
今より髪が短く、笑顔が今とほとんど変わらない。
「恵子さん、若い!」
「失礼だねぇ。」
「だって、今よりずっと若いじゃん。」
「当たり前でしょ。」
二人で笑う。
ページをめくると、若い頃の賢蔵の写真が出てきた。
「じいちゃんも若い。」
「そりゃそうだよ。」
「今と顔が違う。」
「中身はそんなに変わってないけどね。」
その時、麦人の手が止まった。
一枚の写真。
若い賢蔵が、山の中で一人立っている。
その後ろには、深い森。
「これ、どこ?」
「山。」
「どこの?」
「この近くだよ。」
麦人は写真をじっと見た。
「ここに何かいる。」
恵子が驚いたように麦人を見る。
「どうして?」
「なんとなく。」
写真の端。
木の陰に、小さな金色のものが写っている。
「これ……狐?」
恵子は答えなかった。
◇
その夜。
麦人が眠ったあと。
恵子と賢蔵は居間で向かい合っていた。
「見つけたか。」
賢蔵が言う。
「うん。」
「やっぱり、似てるな。」
「麦人に?」
「いや。」
賢蔵は窓の外を見る。
「昔のあの子に。」
恵子は少しだけ目を細めた。
「覚えてる?」
「ああ。」
賢蔵は静かに話し始めた。
「わしが二十歳そこそこの頃だった。」
あの日も、今日のような雨だった。
山仕事を終えた帰り道。
突然、空が晴れた。
なのに雨が降り始めた。
お天気雨。
「その時、鈴の音がした。」
チリン。
チリン。
音を追って森へ入ると、そこには細い山道があった。
「そこで見たんだ。」
白い狐。
赤い紐をつけた狐。
その後ろに、何匹もの狐が続いていた。
まるで人間の花嫁行列のように。
「白い布が風に揺れていてな。」
賢蔵の声が少し遠くなる。
「誰もしゃべらん。ただ、鈴の音だけがしていた。」
「それが……狐の祝言?」
恵子が尋ねる。
「ああ。」
賢蔵はうなずいた。
「そう思った。」
「思った?」
「誰かに聞いたわけじゃないからな。」
賢蔵は笑う。
「わしが勝手にそう思っただけだ。」
◇
翌朝。
麦人は起きると、すぐに恵子を探した。
「恵子さん!」
「はいはい。」
「昨日の写真!」
「ああ。」
「もっと聞きたい。」
恵子は少し考えた。
「じゃあ、今日は山じゃなくて川へ行こうか。」
「川?」
「うん。」
麦人は首をかしげた。
「狐と川って関係あるの?」
「さあ。」
「恵子さん、知らないの?」
「知ってるかもしれないし、知らないかもしれない。」
「またそれだ。」
二人は笑った。
◇
川沿いの道を歩く。
梅雨の雨で水量が増え、いつもより少し速く流れている。
川辺にはアジサイが咲いていた。
紫。
青。
白。
「きれい。」
麦人が立ち止まる。
「アジサイって、土で色が変わるんだよ。」
「じゃあ、花が自分で色を決めてるんじゃないんだ。」
「そう。」
「面白い。」
恵子は笑った。
「人も似てるよ。」
「人も?」
「育った場所や、出会った人で少しずつ変わる。」
「じゃあ、ぼくが今こうなのも?」
「いろんな人のおかげ。」
麦人は少し照れくさそうに川を見た。
◇
その時。
川の向こう岸に、小さな影が現れた。
麦人が目を凝らす。
「あ。」
金色。
小さな狐。
子狐は川の向こうから、じっと二人を見ている。
「恵子さん。」
「うん。」
「またいる。」
恵子は驚かなかった。
「こんにちは。」
恵子が狐へ向かって声をかける。
子狐は耳を立てる。
麦人も小さく手を振った。
「こんにちは。」
すると子狐は、ゆっくり川上へ歩き始めた。
何度か振り返る。
まるで、ついてきてほしいようにも見えた。
「行ってみる?」
麦人が聞く。
恵子は少し考えた。
「今日は、ここまで。」
「どうして?」
「向こうが来てほしい時は、もっと分かりやすく教えてくれるよ。」
「狐って、そんなことするの?」
「するかもしれないね。」
麦人は笑った。
「やっぱり恵子さん、何か知ってるでしょ。」
「さあね。」
◇
子狐が消えたあと。
川面に雨粒が一つ落ちた。
そしてまた一つ。
空を見上げる。
青空。
「また狐雨?」
麦人が言う。
「そうみたい。」
恵子は笑った。
雨はほんの少しだけ降り、すぐに止んだ。
川の向こうの木々が、雨粒をまとってきらきら光っている。
その奥から――。
チリン。
鈴の音。
今度は二回。
チリン。
チリン。
麦人は音のした方を見る。
けれど、そこには誰もいない。
「恵子さん。」
「ん?」
「夏になったら、何か起きる?」
恵子は空を見上げた。
「うん。」
「やっぱり?」
「きっとね。」
「怖い?」
恵子は麦人を見る。
「怖くないよ。」
そして、いつもの柔らかな笑顔を見せた。
「ただ、ちょっとだけ不思議な夏になるかもね。」
◇
帰り道。
麦人は川沿いを歩きながら、ふと足を止めた。
「恵子さん。」
「なに?」
「ぼく、狐に会いたい。」
「うん。」
「でも、追いかけない。」
「それが一番。」
恵子は笑った。
「会うっていうのはね、自分から捕まえに行くことじゃないんだよ。」
「じゃあ?」
「お互いに会いたいと思った時に、ちゃんと会える。」
麦人はその言葉を胸の中で繰り返した。
川の水は、夏へ向かって流れている。
季節もまた、静かに進んでいく。
そして山の奥では、誰にも知られないところで、ひとつの祝言の準備が始まっていた。
――第五章 狐の記憶 中編・終――




