第四章 雨を待つ森
六月に入ると、団地の空気はすっかり夏めいてきた。
朝顔の葉は日に日に大きくなり、麦人が植えた鉢からは、小さなつるが伸び始めている。
「恵子さん!」
休日の朝。
麦人は玄関を開けるなり、鉢植えへ駆け寄った。
「見て!」
「おお。」
恵子もしゃがみ込む。
「つる、伸びたね。」
「昨日より伸びてる!」
「植物って、見てないところでもちゃんと育つんだよ。」
麦人はつるを指先でそっと触った。
「なんか、不思議。」
「そういうもんだよ。」
恵子は笑った。
「見えないところで頑張ってるものは、いっぱいある。」
◇
その日の昼過ぎ。
空には薄い雲が広がっていた。
雨が降るかもしれない。
けれど、天気予報では「晴れ」だった。
「今日は山、行ける?」
麦人が尋ねる。
「行けるよ。」
恵子は帽子をかぶった。
「ただし、雨具は持っていこう。」
「晴れなのに?」
「山の天気は気まぐれだから。」
麦人は少し考えた。
「狐も気まぐれ?」
「狐も山も、人間の予定通りには動かないね。」
「じゃあ、ぼくも予定を変えよう。」
「何に?」
「今日は、狐を探さない。」
恵子は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。
「それがいい。」
◇
二人は裏山へ向かった。
梅雨前の森は、濃い緑に包まれていた。
地面には小さな花。
木の幹には苔。
湿った土からは、独特の匂いが立ち上っている。
「森って、季節ごとに匂いが違うね。」
麦人が言う。
「分かるようになってきた?」
「ちょっとだけ。」
「それは大したもんだ。」
恵子はうれしそうだった。
しばらく歩くと、古い石橋が見えてきた。
その下を細い沢が流れている。
「ここ、前に来た時あった?」
「うん。」
「覚えてない。」
「去年のむーさんとは、もう違うからね。」
「ぼく、そんなに変わった?」
「背も伸びたし、考え方も変わった。」
麦人は水面を見ながら言った。
「恵子さんは?」
「私?」
「変わった?」
恵子は少し考えた。
「変わったよ。」
「どこが?」
「昔より、待つのが上手になった。」
「待つ?」
「うん。」
恵子は沢の流れを見つめる。
「昔の私は、何でも早く知りたかった。」
「今は?」
「今は、知らないままでもいいことがあるって分かった。」
麦人は黙って聞いていた。
◇
その時だった。
ぽつ。
麦人の頬に雨粒が落ちた。
「あ。」
続いて、
ぽつ。
ぽつ。
木々の葉に雨が当たり始める。
「恵子さん、降ってきた!」
「雨具、出そう。」
二人が木陰へ移動した瞬間――。
森の向こうは、明るいままだった。
太陽が出ている。
それなのに、二人のいる場所だけ雨が降っている。
「これ……。」
麦人は目を丸くした。
「狐雨。」
恵子が静かに言った。
雨粒が木漏れ日を受けて、銀色に光っている。
まるで森そのものが、細かな宝石を降らせているようだった。
◇
恵子は雨の向こうを見つめていた。
すると、森の奥から小さな足音が聞こえてきた。
カサ。
カサカサ。
麦人が振り返る。
「狐?」
「まだ見なくていいよ。」
「え?」
「音だけ聞いてみよう。」
二人は黙った。
雨。
葉っぱ。
沢の流れ。
そして――。
チリン。
鈴の音。
麦人の胸が高鳴る。
けれど、今度は走らなかった。
ただ、その音を聞いていた。
しばらくすると、足音は遠ざかっていった。
「行っちゃった。」
「うん。」
「でも……。」
「ん?」
「今日は、追いかけなくても平気だった。」
恵子は麦人の頭を軽くなでた。
「それでいい。」
◇
雨が止む。
太陽の光が森へ戻ってきた。
その時、麦人は地面に小さなものを見つけた。
「恵子さん。」
「どうした?」
麦人が拾い上げたのは、細い赤い紐だった。
その先には、小さな鈴が一つついている。
「これ……。」
恵子の表情が変わった。
「触らないで。」
いつもの柔らかな声とは違う。
麦人はすぐに手を止めた。
「ごめん。」
「ううん。むーさんが悪いんじゃないよ。」
恵子は鈴をじっと見つめた。
「これは、山に返そう。」
「なんで?」
「持って帰るものじゃないから。」
恵子は鈴のついた紐を拾い、沢のそばの古い木の枝にそっと掛けた。
「ここでいい。」
風が吹く。
チリン。
鈴が鳴った。
麦人はその音を聞きながら、なぜか胸が少し温かくなった。
◇
帰宅すると、賢蔵が縁側でお茶を飲んでいた。
「雨に降られたか。」
「うん。」
麦人は今日あったことを話した。
狐雨。
鈴。
そして赤い紐。
賢蔵は黙って聞いていた。
「じいちゃん。」
「ん?」
「その鈴、知ってる?」
賢蔵は少し遠くを見る。
「……昔、見たことがある。」
「狐の祝言で?」
「ああ。」
麦人の目が輝いた。
「やっぱり!」
しかし賢蔵は、そこで話を止めた。
「ただな。」
「うん。」
「昔のものと、今のものが同じとは限らん。」
「どういうこと?」
「山も、人も、変わる。」
賢蔵は湯飲みを置いた。
「だから、昔話だけで今を決めつけちゃいかん。」
麦人は少し考えた。
「じゃあ、今年の狐の祝言は、今年の祝言なんだ。」
賢蔵は笑った。
「そういうことだ。」
◇
夕方。
恵子はベランダで洗濯物を取り込んでいた。
空の端に、薄い虹が出ている。
賢蔵が隣に立つ。
「鈴を見つけたらしいな。」
「うん。」
「今年は近い。」
「そうね。」
恵子は虹を見ながら、小さく息を吐いた。
「でも、麦人にはまだ全部を見せなくていい。」
「なぜだ。」
「子どもだから、じゃないよ。」
「じゃあ?」
「自分で気づく時を待ちたいの。」
賢蔵は黙ってうなずいた。
恵子は空を見上げる。
虹の向こう。
山の向こう。
そこにいる誰かへ語りかけるように、静かに笑った。
「今年のむーさんは、ちゃんと待てるみたい。」
風が吹く。
どこからともなく――。
チリン。
小さな鈴の音が響いた。
恵子は目を細めた。
夏は、もうすぐそこまで来ていた。
――第四章 雨を待つ森 前編・終――




