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めぐる季節は麦の道 二 狐の祝言  作者: まーサンタ


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第三章 春を渡る風 後編


 五月の終わり。


 団地の桜はすっかり葉桜になり、青々とした葉が風に揺れていた。


 麦人が恵子の家へ来ると、玄関先に小さな鉢植えが並んでいた。


「恵子さん、これ何?」


「朝顔。」


「もう植えるの?」


「夏になってからじゃ遅いでしょ。」


「そっか。」


 麦人は鉢植えを一つ持ち上げた。


「これ、ぼくが育ててもいい?」


「もちろん。」


「毎日水やる!」


「毎日じゃなくてもいいよ。」


「え?」


「植物だって、喉が渇いてない時はあるから。」


 麦人は少し考えた。


「……植物の気持ちも考えるの?」


「考えるよ。」


 恵子は笑った。


「生きてるんだから。」


 麦人は朝顔の小さな芽をじっと見つめた。


「じゃあ、話しかけてもいい?」


「いいよ。」


「おはよう、とか?」


「それが一番いい。」


     ◇


 午後。


 麦人と恵子は、裏山の入り口まで散歩に出た。


 賢蔵は家で庭の手入れをしている。


「今日は二人だけ?」


「うん。」


 麦人は少し得意そうだった。


「ぼく、もう三年生だからね。」


「そうだったね。」


「だから、山も平気。」


「じゃあ、山に入る時の挨拶は?」


「こんにちは!」


 麦人が元気よく言う。


 恵子は笑った。


「合格。」


 二人はゆっくりと山道を歩いた。


 新緑の葉が頭上を覆い、木漏れ日が道に小さな水玉模様を作っている。


 鳥の声。


 風の音。


 遠くから聞こえる車の音。


 いつもの山だった。


 けれど――。


 少し歩いたところで、恵子が足を止めた。


「むーさん。」


「なに?」


「ちょっと静かに。」


 麦人も口を閉じる。


 山の音が消えた。


 風もない。


 鳥も鳴かない。


 しばらくすると、


 チリン。


 鈴の音がした。


 今度は一度ではない。


 チリン……。


 チリン……。


 少しずつ、こちらへ近づいてくる。


「恵子さん。」


「うん。」


「来てる?」


「そうかもしれないね。」


 麦人の胸が高鳴った。


     ◇


 道の先。


 木漏れ日の中に、小さな影が現れた。


 四本の足。


 尖った耳。


 ふさりとした尻尾。


 麦人は息をのんだ。


「……狐。」


 金色の毛並みをした、小さな子狐だった。


 子狐は二人を見ると、その場で立ち止まった。


 逃げない。


 ただ、じっと麦人を見ている。


「かわいい……。」


 麦人が一歩前へ出る。


 子狐は少しだけ首をかしげた。


「こんにちは。」


 麦人が言った。


 すると子狐の耳がぴくりと動く。


「聞いてるよ。」


 恵子が小さな声で言った。


「分かるの?」


「分かるっていうより……。」


 恵子は笑った。


「ちゃんと聞こうとしてるんだと思う。」


 麦人はしゃがんだ。


「ぼく、麦人。」


 子狐はじっと見つめている。


「むぎと。」


 もう一度、自分の名前を伝える。


 すると――。


 子狐が一歩、近づいた。


「来た!」


 麦人がうれしそうに笑う。


 けれど、その瞬間。


 子狐はくるりと向きを変えた。


 そして山道の奥へ歩き出す。


「待って!」


 麦人が立ち上がる。


「むーさん。」


 恵子の声がした。


 麦人は振り返る。


「追いかけないの?」


「……うん。」


 少し迷ってから答えた。


「恵子さんが、追いかけなくていいって言ったから。」


 恵子はうれしそうに笑った。


「そう。」


 子狐は少し先で振り返った。


 まるで麦人が来ないことを確かめているようだった。


 そして、森の奥へ消えていった。


 最後に尻尾だけが、木漏れ日の中でふわりと揺れた。


     ◇


「ねえ、恵子さん。」


「ん?」


「あの子、また来るかな。」


「きっとね。」


「どうして分かるの?」


 恵子は山道を見つめた。


「むーさんが、追いかけなかったから。」


「それだけ?」


「それが大事なんだよ。」


 麦人には、まだよく分からなかった。


 けれど、胸の奥には不思議な満足感があった。


 追いかけなくても、ちゃんと出会えた。


 それだけで十分だった。


     ◇


 山を下りる途中、空から小さな雨粒が落ちてきた。


「雨?」


 麦人が空を見る。


 青空が広がっている。


「変なの。」


 恵子も空を見上げた。


 雨粒は二つ、三つ。


 そしてすぐに止んだ。


「恵子さん。」


「ん?」


「これって……。」


「うん。」


 恵子は少しだけ笑った。


「狐雨だね。」


「狐雨?」


「晴れてるのに降る雨。」


「狐の仕業?」


「どうかな。」


 恵子は肩をすくめる。


「そう思ったほうが、面白いかもね。」


 麦人は空を見上げた。


 その時、雲の切れ間から太陽の光が差し込んだ。


 雨粒が光を受け、空気の中で小さくきらめく。


 その光の向こうに――。


 白いものが見えた気がした。


 花嫁のような白い布。


 けれど、瞬きをすると消えていた。


「……今、何か見えた。」


 麦人がつぶやく。


 恵子は何も答えなかった。


 ただ、少し遠くを見るような目をしていた。


     ◇


 団地へ戻ると、賢蔵が玄関先で待っていた。


「遅かったな。」


「じいちゃん!」


 麦人は今日あったことを全部話した。


 子狐のこと。


 鈴の音。


 狐雨のこと。


 そして、白いものを見たこと。


 賢蔵は黙って聞いていた。


「じいちゃん、狐の祝言って本当にあるの?」


 賢蔵はすぐには答えなかった。


 しばらく空を見上げてから、


「……あるかもしれん。」


 とだけ言った。


「見たことあるの?」


 麦人が尋ねる。


 賢蔵は恵子を見る。


 恵子も賢蔵を見る。


 二人の間に、短い沈黙が流れた。


「昔、一度だけな。」


「本当に?」


「ああ。」


「どんなだった?」


 賢蔵は少し笑った。


「雨が降っておった。」


「それだけ?」


「それだけじゃ。」


 恵子が横から口を挟む。


「むーさん。」


「なに?」


「続きは、夏になってから。」


「また秘密?」


「そう。」


 恵子はいたずらっぽく笑った。


「楽しみは、とっておくものだからね。」


     ◇


 その夜。


 麦人が帰ったあと、恵子と賢蔵はベランダに並んで立っていた。


 夜風が、若葉を揺らしている。


「今年は早いな。」


 賢蔵が言う。


「うん。」


「もう来ている。」


「みたいね。」


 恵子は遠くの山を見つめた。


「でも、まだ祝言じゃない。」


「ああ。」


「夏を待ってる。」


 その時、山の向こうから風が吹いてきた。


 ふわりと恵子の髪が揺れる。


 その風に混じって――。


 チリン。


 小さな鈴の音。


 恵子は目を細めた。


「今年も、きれいな雨になるといいね。」


 賢蔵は何も言わず、山を見つめていた。


 春は終わろうとしていた。


 そして季節は、少しずつ夏へ向かって歩き始める。


 麦人の知らないところで、山の奥でも何かが静かに動き始めていた。


 狐の祝言まで、あと少し。


            ――第三章 春を渡る風 後編・終――

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