第二章 春を渡る風 中編
ゴールデンウィーク。
若葉は日に日に色を濃くし、団地の周りは柔らかな緑に包まれていた。
麦人はまた、車に乗って恵子たちの団地へやって来た。
「恵子さーん!」
玄関を開けると、台所からいい匂いが漂ってくる。
「いらっしゃい、むーさん。」
恵子はエプロン姿で振り返った。
「今日は何?」
「よもぎ団子。」
「やった!」
麦人の目が輝く。
「昨日、賢蔵さんと摘んできたんよ。」
その言葉に、賢蔵が新聞をたたみながら笑う。
「わしより、恵子のほうがたくさん見つける。」
「鼻が利くからね。」
「鼻?」
麦人が首をかしげる。
恵子は少し笑って、自分の胸に手を当てた。
「鼻じゃなくて、ここかな。」
「心?」
「そうかも。」
◇
昼食を済ませると、三人は裏山へ向かった。
今日は山菜を探しながら歩く。
「これは食べられる?」
麦人が葉っぱを指差す。
「それはダメ。」
「これは?」
「それも違う。」
「難しいなあ。」
恵子はしゃがみ込み、一枚の葉を見せた。
「これがよもぎ。」
麦人は匂いをかぐ。
「いい匂い。」
「春の匂いだね。」
恵子はそう言って、やさしく葉を摘んだ。
◇
山道を歩いていると、突然風が止んだ。
さっきまで鳴いていた鳥たちも静かになる。
「まただ。」
麦人が小声で言う。
前に来た時と同じ、不思議な静けさ。
恵子は立ち止まり、山の奥へ目を向けた。
「むーさん。」
「うん。」
「山が静かな時はね。」
「何?」
「山がお話を聞いてる時。」
「誰の?」
恵子は少し考えるように笑った。
「風かな。」
その時だった。
チリン……。
前より少しだけ近くで、鈴の音が響いた。
麦人は思わず振り返る。
「また!」
木々の間。
何かが動いた気がした。
金色の光。
いや、木漏れ日だったのかもしれない。
「いた!」
麦人は駆け出そうとする。
すると恵子が、そっと肩に手を置いた。
「待って。」
「でも!」
「追いかけなくていい。」
「どうして?」
「向こうが会いたかったら、また来てくれるから。」
麦人は納得できない顔をした。
「ぼくだったら、会いたい人には走って行くよ。」
恵子は笑う。
「人はね。」
「え?」
「でも、自然は違う。」
麦人は木々の奥を見つめた。
もう何も見えなかった。
◇
山を下りる途中、小さなお地蔵さんが立っていた。
赤い前掛けは少し色あせている。
誰かが供えた小さな花が風に揺れていた。
恵子は足を止め、軽く手を合わせる。
賢蔵も静かに頭を下げる。
麦人もまねをした。
「恵子さん。」
「ん?」
「お地蔵さんって、何してるの?」
恵子は優しい声で答えた。
「見守ってくれてる。」
「誰を?」
「ここを通る人も、山も、生きものも。」
「狐も?」
その言葉に、恵子は少し驚いたように麦人を見た。
「そうだね。」
ふっと笑う。
「狐もかもしれない。」
賢蔵はその会話を聞きながら、静かに目を閉じた。
◇
夕方。
団地へ戻ると、空が少し曇り始めていた。
風が変わる。
恵子は洗濯物を取り込みながら、小さく空を見上げた。
「まだかな。」
「何が?」
麦人が聞く。
「もう少し先。」
「だから何が?」
恵子はいたずらっぽく笑う。
「秘密は、早く開けるとつまらないでしょ。」
「また秘密かぁ。」
「楽しみは、とっておくもの。」
麦人は頬をふくらませながらも笑ってしまう。
◇
帰る時間。
車が団地を離れると、麦人は窓から裏山を見つめていた。
夕日に照らされた木々が、金色に輝いている。
その一瞬。
山の入り口に、小さな金色の影が立っているように見えた。
細い耳。
ふさふさの尻尾。
こちらを見ているような瞳。
「あっ!」
思わず声を上げた。
しかし車がカーブを曲がると、その姿は木々に隠れて見えなくなった。
家へ帰ってからも、そのことが頭から離れない。
夢だったのか。
見間違いだったのか。
それとも、本当にそこにいたのか。
団地では恵子がベランダに立ち、遠ざかる車を見送っていた。
その横で賢蔵がぽつりと言う。
「むぎとには見え始めたようじゃな。」
恵子は小さくうなずいた。
「うん。」
「でも、まだ早い。」
風が若葉を揺らす。
その音に混じって、遠い山の奥から、また一度だけ鈴の音が聞こえた気がした。
恵子はその音に向かって、静かにほほえんだ。
「焦らなくていいよ。」
「ちゃんと、その時は来るからね。」
その言葉は、山の誰かに向けたものだったのか。
それとも、麦人に向けたものだったのか。
答えは、まだ春風だけが知っていた。
――第二章 春を渡る風 中編・終――




