第一章 春を渡る風 前編
四月。
桜は花びらを風に預け、新しい若葉が山を淡い緑色に染め始めていた。
団地の花壇にはチューリップが咲き、ツバメが忙しそうに空を行き交う。
ベランダでは、恵子がプランターの土をふかふかに耕していた。
「今年もよろしくね。」
小さく声をかけながら、トマトの苗を植える。
すると、ふわりと風が吹いた。
春らしい風。
だけど、その中にほんの少しだけ、雨上がりのような匂いが混じっていた。
恵子は手を止め、空を見上げる。
「……まだ早いよ。」
誰に話しかけるでもなく、そうつぶやく。
その様子を見ていた賢蔵が、新聞から目を上げた。
「どうした。」
「なんでもない。」
恵子は笑った。
「今年は、少し賑やかになりそうな気がして。」
賢蔵は黙って空を見た。
そして、小さくうなずく。
「ああ。」
それ以上、二人は何も話さなかった。
◇
その週末。
団地の階段を駆け上がる元気な足音が響く。
「恵子さーん!」
勢いよく玄関が開いた。
「むーさん!」
恵子は両手を広げる。
麦人は背が少し伸び、ランドセルも去年より小さく見える。
「三年生、おめでとう。」
「ありがとう!」
麦人は胸を張る。
「先生も変わったし、教室も三階になった!」
「それは大人になったねぇ。」
「まだ子どもだけどね。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「じいちゃん!」
「おう。」
賢蔵は縁側から手を挙げる。
「勉強は難しくなったか。」
「ちょっとね。」
「分からん時は考えろ。」
「考えても分からなかったら?」
「その時は聞け。」
麦人は吹き出した。
「じいちゃんらしい!」
◇
昼ご飯は、恵子特製のたけのこご飯だった。
「今年初めて掘れたんよ。」
「やった!」
麦人はおかわりを二杯もし、賢蔵に笑われる。
「育ち盛りじゃな。」
「三杯いけるよ!」
「じゃあ、夜ご飯が入らんな。」
「……それは困る。」
食卓は笑い声でいっぱいになった。
◇
午後。
三人は団地の裏山へ散歩に出かけた。
春の山は、鳥の声であふれている。
ウグイス。
シジュウカラ。
遠くではキジの鳴き声も聞こえた。
「今日は鳥が多いね。」
麦人が空を見上げる。
「みんな新しい季節がうれしいんだね。」
恵子も木漏れ日の中を歩きながら微笑んだ。
「むーさん。」
「なに?」
「山へ入る時はね。」
「うん。」
「こんにちはって言うといいよ。」
「誰に?」
「山に。」
麦人は少し笑う。
「山って返事するの?」
「するよ。」
「聞こえないけど。」
「聞こえない返事もあるからね。」
麦人は少し照れながら、山へ向かって頭を下げた。
「こんにちは。」
その瞬間だった。
ふわり。
一陣の風が吹き抜け、木々の葉が一斉に揺れた。
サワサワサワ……。
「ほら。」
恵子が笑う。
「返事してくれた。」
「偶然だよ。」
そう言いながらも、麦人は少しだけうれしくなった。
◇
山道を歩いていると、恵子が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「しっ。」
恵子は耳を澄ませる。
風は止み、鳥の声も遠ざかった。
静かな山。
その奥から――
チリン。
小さな鈴の音が聞こえた。
ほんの一度だけ。
「聞こえた?」
麦人が目を丸くする。
「うん。」
恵子は静かにうなずいた。
賢蔵も、ゆっくり山の奥を見つめている。
「……今年もか。」
その声は、独り言のようだった。
「じいちゃん?」
麦人が聞き返す。
しかし賢蔵は首を横に振るだけだった。
「いや、なんでもない。」
山に風が戻る。
鳥たちが、何事もなかったように鳴き始める。
けれど恵子だけは、木漏れ日の奥をじっと見つめていた。
その表情は、どこか懐かしい人を待っているようにも見えた。
そして、小さく微笑む。
「今年も会えるといいね。」
「誰に?」
麦人が尋ねる。
恵子はいたずらっぽく笑って、人差し指を唇に添えた。
「まだ、秘密。」
春の風は三人の間をすり抜け、山の奥へと静かに消えていった。
その風が運んできた小さな鈴の音を、麦人はまだ知らない。
それが、この一年の不思議な物語の始まりになることを。
――第一章 春を渡る風 前編・終――章 春を渡る風 前編
四月。
桜は花びらを風に預け、新しい若葉が山を淡い緑色に染め始めていた。
団地の花壇にはチューリップが咲き、ツバメが忙しそうに空を行き交う。
ベランダでは、恵子がプランターの土をふかふかに耕していた。
「今年もよろしくね。」
小さく声をかけながら、トマトの苗を植える。
すると、ふわりと風が吹いた。
春らしい風。
だけど、その中にほんの少しだけ、雨上がりのような匂いが混じっていた。
恵子は手を止め、空を見上げる。
「……まだ早いよ。」
誰に話しかけるでもなく、そうつぶやく。
その様子を見ていた賢蔵が、新聞から目を上げた。
「どうした。」
「なんでもない。」
恵子は笑った。
「今年は、少し賑やかになりそうな気がして。」
賢蔵は黙って空を見た。
そして、小さくうなずく。
「ああ。」
それ以上、二人は何も話さなかった。
◇
その週末。
団地の階段を駆け上がる元気な足音が響く。
「恵子さーん!」
勢いよく玄関が開いた。
「むーさん!」
恵子は両手を広げる。
麦人は背が少し伸び、ランドセルも去年より小さく見える。
「三年生、おめでとう。」
「ありがとう!」
麦人は胸を張る。
「先生も変わったし、教室も三階になった!」
「それは大人になったねぇ。」
「まだ子どもだけどね。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「じいちゃん!」
「おう。」
賢蔵は縁側から手を挙げる。
「勉強は難しくなったか。」
「ちょっとね。」
「分からん時は考えろ。」
「考えても分からなかったら?」
「その時は聞け。」
麦人は吹き出した。
「じいちゃんらしい!」
◇
昼ご飯は、恵子特製のたけのこご飯だった。
「今年初めて掘れたんよ。」
「やった!」
麦人はおかわりを二杯もし、賢蔵に笑われる。
「育ち盛りじゃな。」
「三杯いけるよ!」
「じゃあ、夜ご飯が入らんな。」
「……それは困る。」
食卓は笑い声でいっぱいになった。
◇
午後。
三人は団地の裏山へ散歩に出かけた。
春の山は、鳥の声であふれている。
ウグイス。
シジュウカラ。
遠くではキジの鳴き声も聞こえた。
「今日は鳥が多いね。」
麦人が空を見上げる。
「みんな新しい季節がうれしいんだね。」
恵子も木漏れ日の中を歩きながら微笑んだ。
「むーさん。」
「なに?」
「山へ入る時はね。」
「うん。」
「こんにちはって言うといいよ。」
「誰に?」
「山に。」
麦人は少し笑う。
「山って返事するの?」
「するよ。」
「聞こえないけど。」
「聞こえない返事もあるからね。」
麦人は少し照れながら、山へ向かって頭を下げた。
「こんにちは。」
その瞬間だった。
ふわり。
一陣の風が吹き抜け、木々の葉が一斉に揺れた。
サワサワサワ……。
「ほら。」
恵子が笑う。
「返事してくれた。」
「偶然だよ。」
そう言いながらも、麦人は少しだけうれしくなった。
◇
山道を歩いていると、恵子が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「しっ。」
恵子は耳を澄ませる。
風は止み、鳥の声も遠ざかった。
静かな山。
その奥から――
チリン。
小さな鈴の音が聞こえた。
ほんの一度だけ。
「聞こえた?」
麦人が目を丸くする。
「うん。」
恵子は静かにうなずいた。
賢蔵も、ゆっくり山の奥を見つめている。
「……今年もか。」
その声は、独り言のようだった。
「じいちゃん?」
麦人が聞き返す。
しかし賢蔵は首を横に振るだけだった。
「いや、なんでもない。」
山に風が戻る。
鳥たちが、何事もなかったように鳴き始める。
けれど恵子だけは、木漏れ日の奥をじっと見つめていた。
その表情は、どこか懐かしい人を待っているようにも見えた。
そして、小さく微笑む。
「今年も会えるといいね。」
「誰に?」
麦人が尋ねる。
恵子はいたずらっぽく笑って、人差し指を唇に添えた。
「まだ、秘密。」
春の風は三人の間をすり抜け、山の奥へと静かに消えていった。
その風が運んできた小さな鈴の音を、麦人はまだ知らない。
それが、この一年の不思議な物語の始まりになることを。
――第一章 春を渡る風 前編・終――




