第八章 白無垢
八月。
夏は、一番暑い季節になっていた。
朝から蝉が鳴き、空には大きな入道雲が浮かんでいる。
団地の掲示板には、夏祭りの案内が貼られていた。
「恵子さん、今日お祭り?」
「そうだよ。」
「行こう!」
「もちろん。」
麦人は朝からそわそわしていた。
団地の広場には、昼過ぎから少しずつ人が集まり始めている。
焼きそば。
かき氷。
ヨーヨー釣り。
子どもたちの笑い声。
風に揺れる提灯。
麦人は目を輝かせた。
「全部食べたい!」
「全部は無理。」
「じゃあ、半分。」
「もっと無理。」
「じゃあ……三分の一。」
恵子が吹き出す。
「そういうところ、誰に似たんだろうね。」
「父さん?」
「どうかな。」
恵子は笑いながら、麦人の頭を撫でた。
◇
夕方。
祭りが始まる。
太鼓の音が響き、子どもたちが走り回る。
麦人は金魚すくいに挑戦した。
「恵子さん、見て!」
「おお、上手。」
「二匹!」
「すごいじゃん。」
「三匹目!」
しかし、ポイが破れた。
「あ……。」
「そう簡単にはいかないね。」
恵子が笑う。
「金魚にも逃げる権利があるからね。」
「そんなのある?」
「あるよ。」
麦人は笑った。
その時だった。
祭りの音の向こうから、かすかな鈴の音が聞こえた。
チリン。
麦人の笑顔が消える。
「……鈴。」
「聞こえた?」
恵子も耳を澄ませる。
けれど、すぐに太鼓の音にかき消された。
「山の方。」
麦人が言う。
「うん。」
「行ってみたい。」
恵子はしばらく考えた。
「今夜は、やめておこう。」
「どうして?」
「人の世界が、まだ賑やかすぎるから。」
麦人は不思議そうな顔をした。
「人の世界?」
恵子は笑ってごまかした。
「祭りを楽しもう。」
◇
夜。
祭りが終わった。
提灯の明かりが一つずつ消えていく。
人々が帰っていく。
団地は、少しずつ静かになった。
麦人は部屋の窓から山を見ていた。
月明かりに照らされた山は、昼間とはまるで違って見える。
「まだ起きてるの?」
恵子が声をかける。
「うん。」
「どうして?」
「狐、今夜何かする気がする。」
恵子は麦人の隣に座った。
「そう思う?」
「なんとなく。」
「そっか。」
二人で山を見る。
すると――。
山の向こうが、ほんの少し明るくなった。
「月?」
「違う。」
恵子が立ち上がる。
「行こう。」
「え?」
「今度は、むーさんが呼ばれたんだと思う。」
◇
二人は静かな山道へ入った。
賢蔵は家に残っている。
「じいちゃんは?」
「今日は来ない。」
「どうして?」
「賢蔵さんには、賢蔵さんの役目があるから。」
麦人には意味が分からなかった。
けれど、何も聞かなかった。
山は静かだった。
蝉も鳴かない。
風もない。
ただ、遠くから鈴の音が聞こえてくる。
チリン。
チリン。
チリン。
音は少しずつ近づいている。
◇
竹林を抜ける。
すると、前方に小さな明かりが見えた。
提灯のような光。
でも、火ではない。
淡い金色の光が、いくつも浮かんでいる。
「何これ……。」
麦人がつぶやく。
「きれい。」
恵子も小さく笑った。
光の向こうから、狐が一匹現れた。
金色の子狐。
麦人が知っている、あの子狐だった。
「来てくれた。」
麦人がしゃがむ。
子狐は近づいてくる。
そして、麦人の足元で立ち止まった。
その首には、小さな赤い紐が結ばれていた。
先には鈴。
チリン。
「これ……。」
麦人は息をのんだ。
「前に見つけた鈴と同じ。」
「そうだね。」
恵子は静かに答えた。
◇
やがて。
森の奥から、たくさんの狐たちが現れた。
一匹。
二匹。
三匹。
さらにその後ろから、次々と姿を現す。
誰も鳴かない。
ただ静かに歩いている。
先頭には、ひときわ大きな白狐。
その後ろに――。
一匹の白い狐がいた。
白無垢をまとっているように見える。
頭には小さな花。
尻尾は雪のように白い。
「花嫁……。」
麦人が小さくつぶやく。
恵子は何も言わない。
ただ、麦人の肩にそっと手を置いた。
◇
狐たちは、二人の前を通り過ぎていく。
不思議なことに、麦人たちを誰も気に留めない。
まるで最初から、そこにいることを知っているようだった。
白い花嫁狐が近づいてくる。
麦人は息を止めた。
花嫁狐は一瞬だけ麦人を見る。
その目は、とても静かだった。
そして、麦人の足元に何かを落とした。
小さな白い花。
「これ……。」
麦人が拾おうとする。
恵子が止めた。
「まだ。」
「え?」
「祝言が終わるまで。」
麦人は手を引っ込めた。
「分かった。」
花嫁狐はそのまま歩いていった。
◇
森の奥から、また鈴の音が響く。
チリン。
チリン。
チリン。
次第に音が重なり、森全体が鈴の音で満たされていく。
その時。
風が吹いた。
木々が一斉に揺れる。
花びらが舞い上がる。
どこからともなく白い花が降ってくる。
「雨……?」
麦人が空を見上げる。
雨ではない。
花びらだった。
月明かりの中で、白い花びらがゆっくり舞い落ちる。
その中心で、狐たちが静かに向かい合った。
誰も言葉を発しない。
なのに――。
麦人には、なぜか「おめでとう」という言葉が聞こえたような気がした。
◇
恵子が麦人の耳元で囁く。
「むーさん。」
「うん。」
「覚えておいて。」
「何を?」
「こういうものは、見た人が勝手に答えを決めちゃいけない。」
「じゃあ、どうするの?」
「自分の心に置いておく。」
麦人は頷いた。
そして、もう何も言わずに狐たちを見つめた。
その瞬間。
白い花嫁狐が、もう一度だけ麦人を振り返った。
そして――。
ほんの少しだけ、頭を下げた。
麦人も頭を下げた。
それだけだった。
けれど、その瞬間。
麦人には、はっきり分かった。
これは夢ではない。
少なくとも、自分にとっては。
◇
遠くで、雷が鳴った。
狐たちが一斉に空を見上げる。
恵子も空を見る。
「そろそろ帰ろう。」
「もう?」
「うん。」
「まだ見たい。」
「また会えるよ。」
「本当に?」
「約束する。」
恵子は麦人の手を握った。
二人はゆっくり山道を戻り始める。
背後から鈴の音が聞こえる。
チリン。
チリン。
チリン。
麦人は振り返らなかった。
ただ、恵子の手を握りながら歩いた。
その夜。
山の奥では、狐たちの祝言が静かに続いていた。
そして麦人はまだ知らなかった。
この祝言には、もう一つだけ、人間には見えない秘密が隠されていることを。
――第八章 白無垢 終――




