第九章 祝言
夜の山道を、恵子と麦人はゆっくり歩いていた。
さっきまで聞こえていた鈴の音は、まだ遠くで続いている。
チリン。
チリン。
その音は、二人を追いかけてくるのではなく、山の奥へ戻っていくようだった。
「恵子さん。」
「ん?」
「狐の祝言って、結婚式なの?」
「人間の結婚式とは、ちょっと違うかもね。」
「じゃあ何?」
「約束をする日。」
「何の約束?」
恵子は少し考えた。
「これからも、この山で生きていきますっていう約束。」
「狐同士で?」
「狐だけじゃないかもしれない。」
麦人は首をかしげた。
「どういうこと?」
「山と、森と、川と、生きものと。」
恵子は足元を見ながら歩く。
「みんなが一緒に生きていくための約束。」
麦人は黙った。
なんとなく、その言葉が胸に残った。
◇
団地へ戻ると、賢蔵が玄関の明かりをつけて待っていた。
「遅かったな。」
「じいちゃん。」
麦人は駆け寄った。
「見たよ。」
「何を?」
「狐の祝言!」
賢蔵の表情が、ほんの少し変わった。
「そうか。」
「白い狐がいた。」
「そうか。」
「鈴もいっぱい鳴ってた。」
「そうか。」
「じいちゃんが昔見たのと同じ?」
賢蔵はすぐには答えなかった。
恵子が横から言う。
「少し違うよ。」
「え?」
「昔と同じものなんて、きっと一つもない。」
賢蔵も頷いた。
「そうだな。」
◇
三人は居間に入った。
恵子がお茶を淹れる。
麦人は興奮が冷めず、身振り手振りを交えながら話している。
「白い狐がいてね、こうやって歩いて……。」
恵子は笑いながら聞いている。
賢蔵は黙って麦人を見ていた。
「じいちゃん。」
「ん?」
「昔の祝言では、何があったの?」
賢蔵は湯飲みを両手で包んだ。
「……わしが見たのは、もっと昔のことだ。」
若い頃。
山仕事をしていた時。
あの日も、お天気雨だった。
晴れているのに、山の中だけ雨が降っていた。
「わしは若かったからな。」
賢蔵は笑った。
「珍しいものを見つけたと思って、雨の中を歩いていった。」
そこで狐の行列を見た。
白い狐。
金色の狐。
小さな狐。
大きな狐。
そして、その先に一匹の花嫁狐。
「わしは、ただ見ていただけだった。」
「怖くなかった?」
麦人が尋ねる。
「怖くなかった。」
賢蔵は少し考えてから続けた。
「不思議だった。」
それから、もう一つ。
「ありがたいと思った。」
「何が?」
「自分が、その場にいられたことが。」
◇
麦人は考え込んだ。
「狐って、人間に見せるものなの?」
「いつもじゃない。」
恵子が答える。
「じゃあ、どうしてぼくに見せてくれたの?」
恵子は麦人を見た。
「さあ。」
「恵子さんにも分からない?」
「分からないよ。」
「ほんと?」
「ほんと。」
麦人は少し笑った。
「じゃあ、ぼくと同じだ。」
「そうだね。」
◇
その夜。
麦人は布団に入った。
なかなか眠れない。
窓の外を見る。
夏の夜。
遠くで蝉が鳴いている。
山は真っ暗だった。
麦人は昼間見た白い花を思い出した。
花嫁狐が落としていった、小さな白い花。
恵子に言われた通り、持って帰らなかった。
あの花は、今も山にある。
そう思うと、少しだけ安心した。
◇
翌朝。
麦人が目を覚ますと、枕元に何かが置いてあった。
「……?」
小さな白い花。
麦人は驚いた。
「これ……。」
昨日の花と同じ。
いや。
少し違う。
花びらの形も、匂いも。
それでも、なぜか昨日の花だと思った。
「恵子さん!」
麦人は飛び起きた。
◇
台所へ行くと、恵子が朝ご飯を作っていた。
「どうしたの、朝からそんなに慌てて。」
「これ!」
麦人が花を見せる。
恵子の手が止まった。
「……どこにあったの?」
「枕元。」
「そう。」
恵子は花をじっと見つめる。
「持って帰っちゃった。」
「うん。」
「むーさん。」
「なに?」
「それは、持って帰ったんじゃないよ。」
「え?」
恵子は微笑んだ。
「向こうから来たんだよ。」
麦人は花を見つめた。
「どういうこと?」
「分からない。」
「また?」
「また。」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
その日の午後。
恵子は花を小さな紙に包んだ。
「山に返そう。」
「うん。」
麦人は花を大事に持った。
二人で山へ向かう。
昨日の広場へ着くと、そこには何も残っていなかった。
狐もいない。
白い花もない。
鈴もない。
ただ、朝露のような水滴が葉の上で光っている。
「ここでいい?」
「うん。」
麦人は花を地面に置いた。
「ありがとう。」
小さな声で言う。
恵子は何も言わなかった。
しばらくすると、風が吹いた。
花は風に押され、少しだけ土の上を転がった。
そのまま草むらの中へ入っていく。
「行っちゃった。」
「うん。」
◇
帰ろうとした時。
麦人がふと振り返った。
木々の向こう。
白い狐が立っていた。
昨日の花嫁狐ではない。
もっと大きな狐。
白い毛並み。
静かな目。
麦人と目が合う。
「……こんにちは。」
麦人が言った。
狐は動かない。
恵子も振り返る。
けれど、何も言わない。
麦人はもう一度、頭を下げた。
「ありがとう。」
狐はゆっくりと頭を下げた。
そして、森の奥へ消えていった。
◇
帰り道。
麦人は恵子に尋ねた。
「ねえ。」
「ん?」
「狐の祝言って、毎年あるの?」
「どうかな。」
「恵子さん。」
「なに?」
「知ってるんでしょ。」
恵子は笑った。
「昔はね。」
「昔は?」
「私も、全部知りたかった。」
「今は?」
「今は、知らないことが楽しみ。」
麦人はその言葉を聞いて、笑った。
「ぼくも、ちょっと分かる。」
「そう?」
「うん。」
山道の先に、夏の青空が広がっている。
蝉の声。
草の匂い。
遠くの川の音。
どれも昨日までと同じなのに、少しだけ違って聞こえた。
麦人は思った。
狐の祝言を見たことで、自分が何か特別な人間になったわけではない。
ただ、知らない世界が、この世界のどこかにある。
それを知っただけ。
そして、それで十分なのだ。
◇
団地へ戻る途中。
空から、ぽつりと雨が落ちてきた。
「また狐雨。」
麦人が笑う。
恵子も空を見上げる。
「そうだね。」
「今日は追いかけないよ。」
「うん。」
「もう、会えたから。」
恵子は麦人を見て、うれしそうに笑った。
「むーさん。」
「なに?」
「少し大きくなったね。」
「背?」
「心。」
「……それ、よく分からない。」
「今は分からなくていいよ。」
雨はすぐに止んだ。
太陽が顔を出す。
山の向こうには、薄い虹。
その虹の下で、どこか遠く――。
チリン。
小さな鈴が鳴った。
麦人は空を見上げた。
そして、笑った。
――第九章 祝言 ・終――




