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めぐる季節は麦の道 二 狐の祝言  作者: まーサンタ


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第十章 夏の風鈴 



 狐の祝言から、三日が過ぎた。


 何事もなかったように、夏の日々は続いている。


 朝は蝉。


 昼は強い日差し。


 夕方には、山の向こうに入道雲。


 夜になると、団地のベランダから生ぬるい風が入ってくる。


 麦人は朝顔に水をやりながら、ふと思った。


「普通だ。」


「何が?」


 恵子が洗濯物を干しながら尋ねる。


「夏。」


「夏は普通でしょ。」


「でも、狐の祝言を見たあとだから、もっと何か変わると思ってた。」


 恵子は笑った。


「そんな簡単に世界は変わらないよ。」


「そうなの?」


「うん。」


 そして、朝顔の葉を一枚、そっと起こす。


「世界が変わるんじゃなくて、自分の見え方が変わることはあるけどね。」


 麦人は朝顔を見た。


 昨日と同じ花。


 昨日と同じ葉。


 なのに――。


 なんとなく、少し違って見えた。


     ◇


 その日の午後。


 恵子は押し入れの整理をしていた。


「麦人、これ運んで。」


「はーい。」


 麦人が箱を持ち上げる。


「重い!」


「気をつけて。」


「何が入ってるの?」


「昔のもの。」


「また昔?」


「昔は、捨てられないものがいっぱいあるの。」


 箱を開けると、古い写真や手紙が入っていた。


 その中から、一つの風鈴が出てきた。


 青いガラス。


 少し欠けている。


「これ、きれい。」


「懐かしいな。」


 恵子は風鈴を手に取った。


「若い頃に買ったの。」


「いつ?」


「ずっと昔。」


「ぼくが生まれる前?」


「もちろん。」


「じゃあ、じいちゃんと?」


 恵子は少し笑った。


「そう。」


 麦人は風鈴を見つめた。


「これ、今つけようよ。」


「いいね。」


     ◇


 ベランダに風鈴を吊るした。


 風が吹く。


 チリン。


 澄んだ音が響く。


「いい音。」


「でしょ。」


「狐の鈴とは違う。」


「うん。」


「でも、ちょっと似てる。」


 恵子は空を見上げた。


「鈴って、不思議だね。」


「何が?」


「音だけで、そこに何かがいるような気がする。」


「風鈴なら風がいる。」


「そうだね。」


 恵子は笑った。


「狐の鈴なら、狐がいる。」


 麦人も笑った。


「じゃあ、今は風がいる。」


「うん。」


 風鈴が揺れる。


 チリン。


 チリン。


     ◇


 夕方。


 賢蔵が買い物から戻ってきた。


「おや。」


 ベランダの風鈴を見て、足を止める。


「まだあったのか。」


「知ってるの?」


 麦人が聞く。


「昔からな。」


「これ、じいちゃんと恵子さんが買ったんだって。」


「ああ。」


 賢蔵は風鈴を見上げる。


「新婚の頃だった。」


「新婚?」


 麦人の目が輝く。


「じいちゃんと恵子さんも、最初は二人だけだったの?」


「当たり前だ。」


「どんな感じ?」


 賢蔵は恵子を見る。


「なあ。」


「何?」


「話していいのか?」


「変なこと言わなきゃね。」


「じゃあやめとく。」


「なんでよ。」


 三人で笑った。


     ◇


 夕食のあと。


 麦人は風鈴の音を聞きながら、今日のことを考えていた。


 狐。


 祝言。


 白い花。


 そして、風鈴。


 全部がどこかでつながっているような気がする。


「恵子さん。」


「ん?」


「狐って、昔からこの山にいたの?」


「いたと思うよ。」


「ずっと?」


「ずっと。」


「じゃあ、ぼくが大人になってもいる?」


 恵子は少し考えた。


「山が残っていれば。」


「じゃあ、山を残さないと。」


「そうだね。」


 恵子は麦人を見た。


「それ、大事なことだよ。」


     ◇


 夜。


 麦人が眠ったあと。


 恵子は一人でベランダに出た。


 風鈴が鳴っている。


 チリン。


 チリン。


 月がきれいだった。


「……静かだね。」


 恵子は独り言を言った。


 その時。


 風鈴とは違う音が聞こえた。


 チリン。


 恵子が顔を上げる。


 山の方。


 遠くからだった。


「また……。」


 恵子は目を細める。


 鈴の音は一度だけ。


 それきり聞こえなくなった。


「祝言は終わったはずなのに。」


 恵子はそうつぶやいた。


 すると、背後から賢蔵の声がした。


「恵子。」


「起きてたの?」


「今の、聞こえた。」


「うん。」


 二人は山を見る。


「どう思う?」


 賢蔵が尋ねる。


「分からない。」


 恵子は少し笑った。


「でも、嫌な感じはしない。」


「ならいいが。」


「ただ……。」


「ただ?」


 恵子は空を見上げた。


「何かを知らせに来た気がする。」


     ◇


 翌朝。


 麦人は朝顔の前で立ち止まった。


「……あれ?」


 昨日まで咲いていた花が、一輪だけなくなっている。


「恵子さん!」


「どうしたの?」


「花がない。」


「しぼんだんじゃない?」


「違う。」


 麦人は鉢の土を指差した。


 そこに小さな足跡があった。


 犬より小さい。


 猫より細い。


 そして――。


 狐の足跡にそっくりだった。


「……。」


 恵子は黙った。


 麦人も黙った。


 風が吹く。


 朝顔の葉が揺れる。


 チリン。


 ベランダの風鈴が鳴った。


 恵子はしゃがみ込み、足跡をじっと見た。


「むーさん。」


「うん。」


「今日は、山に行かない。」


「え?」


「今日はね。」


 恵子は立ち上がった。


「向こうから来るのを待とう。」


「狐が?」


「うん。」


 麦人は少し考えた。


「分かった。」


 そう答えた時だった。


 団地の外から、誰かの声が聞こえてきた。


「すみませーん!」


 二人が振り返る。


 知らない女性が、団地の入口に立っていた。


 その腕には、小さな赤ん坊が抱かれている。


 女性は困ったような顔で周囲を見回していた。


「どなたですか?」


 恵子が声をかける。


 女性は麦人たちに気づくと、ゆっくり近づいてきた。


「突然すみません。」


「どうしました?」


 恵子が尋ねる。


 女性は少し迷ってから言った。


「この近くに……昔、狐の神様を祀っていた場所があるって聞いて。」


 恵子の表情が変わった。


 麦人も目を見開く。


 女性の腕の中で、赤ん坊が小さく笑った。


 その瞬間。


 どこからともなく――。


 チリン。


 鈴の音が響いた。


 恵子は山を見た。


 そして、静かに息を吐いた。


「……次の季節が、動き始めたね。」


            ――第十章 夏の風

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