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めぐる季節は麦の道 二 狐の祝言  作者: まーサンタ


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第十一章 山からの贈りもの



 女性は、団地の入り口で立ったまま、何度も山の方を見ていた。


 腕の中には、眠そうな赤ん坊。


 麦人は、その小さな顔をじっと見つめている。


「昔、ここに狐の神様を祀っていた場所があるって聞いたんです。」


 女性はもう一度言った。


「この辺りに、そういう場所はありますか?」


 恵子はすぐには答えなかった。


「どうして、その場所を探してるの?」


 女性は赤ん坊を抱き直した。


「この子が生まれてから……ちょっと変なことが続いていて。」


「変なこと?」


「はい。」


 女性は困ったように笑った。


「夜になると、鈴の音が聞こえるんです。」


 麦人の目が大きくなった。


 恵子も黙った。


「最初は風鈴かなって思ったんです。でも、家には風鈴なんてないし……。」


「それで?」


「この子を連れて外に出ると、山の方から聞こえるんです。」


 女性は山を見上げた。


「チリン、チリンって。」


 麦人は思わず恵子を見る。


 恵子は小さくうなずいた。


「山に行きたいの?」


「……はい。」


 女性は少し恥ずかしそうに答えた。


「なぜか、行かなきゃいけない気がして。」


     ◇


 その時、女性の腕の中の赤ん坊が目を開けた。


 そして、麦人を見る。


 じっと。


 小さな目で。


「こんにちは。」


 麦人が言う。


 赤ん坊は何も言わない。


 代わりに、小さな手を伸ばした。


 麦人が指を出す。


 赤ん坊の手が、その指を握った。


「わあ。」


 麦人は笑った。


「つかんだ。」


 女性も笑う。


「珍しいんです。この子、人見知りするのに。」


 恵子は赤ん坊を見つめていた。


 そして、ふっと優しい顔になった。


「この子、山を知ってるのかもね。」


「え?」


「いや。」


 恵子は首を振った。


「なんでもない。」


     ◇


 昼過ぎ。


 四人で山へ向かうことになった。


 女性は赤ん坊を抱き、麦人と恵子がその横を歩く。


 賢蔵は家に残った。


「じいちゃんは来ないの?」


 麦人が尋ねると、恵子は笑った。


「今日は私たちの番。」


「番?」


「うん。」


 山道へ入る。


 蝉の声が響いている。


 木漏れ日が道に落ちている。


 女性は何度も周囲を見回していた。


「不思議……。」


「何が?」


「初めて来たはずなのに、知ってる道みたい。」


 恵子は黙っていた。


 麦人は少し先を歩く。


 そして、ふと足を止めた。


「あ。」


 道の脇に、小さな赤い紐が落ちている。


 先には鈴。


 チリン。


 風もないのに、鈴が鳴った。


「恵子さん。」


「触らないで。」


 麦人は手を止めた。


「うん。」


 恵子は紐を拾わず、その場にしゃがみ込んだ。


「ここだね。」


「何が?」


「昔の祠へ続く道。」


     ◇


 少し進むと、木々の間に小さな石祠が見えた。


 女性が立ち止まる。


「……ここ。」


「知ってるの?」


 麦人が尋ねる。


「分からない。」


 女性は首を振る。


「でも、ここだと思う。」


 赤ん坊が突然、声を上げて笑った。


 その声が森に響く。


 すると――。


 チリン。


 鈴が鳴った。


 今度は一つではない。


 遠く。


 近く。


 森のあちこちから。


 チリン。


 チリン。


 チリン。


 女性の顔から驚きが消え、代わりに涙が浮かんだ。


「……やっぱり。」


「どうしたの?」


 恵子が尋ねる。


「この音……。」


 女性は赤ん坊を抱きしめた。


「この子が生まれた夜にも、聞こえたんです。」


     ◇


 恵子は祠の前に立った。


「名前は?」


「え?」


「赤ちゃん。」


「……千尋です。」


 恵子は優しく笑った。


「千尋ちゃんか。」


 赤ん坊は恵子を見る。


 そして、また笑った。


「いい名前だね。」


「ありがとうございます。」


 女性は深く頭を下げた。


「ここに来れば、何か分かると思っていました。」


「何が?」


「この子が、どうしてこんなに山を気にするのか。」


 恵子は少し考えた。


「たぶん、理由を探さなくてもいいんじゃないかな。」


「え?」


「子どもって、大人が忘れたものを覚えてることがあるから。」


 麦人が口を挟む。


「ぼくも?」


「むーさんも。」


「じゃあ、ぼくも狐のこと覚えてた?」


「そうかもしれないね。」


 麦人は嬉しそうに笑った。


     ◇


 その時。


 祠の奥から風が吹いた。


 木々が大きく揺れる。


 女性の腕の中で、千尋が手を伸ばした。


 その先。


 木の根元に、一匹の狐が立っていた。


 金色の毛。


 見覚えのある目。


「……!」


 麦人は声を上げそうになった。


 あの子狐だった。


 けれど、前より少し大きくなっている。


 狐は麦人を見る。


 そして、女性と赤ん坊を見る。


 最後に、祠を見る。


 それから、ゆっくり森の奥へ歩き出した。


 途中で一度だけ振り返る。


 まるで「ついておいで」と言っているようだった。


「行ってみる?」


 麦人が聞く。


 恵子は首を横に振った。


「今日は行かない。」


「どうして?」


「今日は、この子たちが主役だから。」


 麦人は女性を見る。


 女性も狐の消えた方を見ていた。


「……行かなくてもいいんですね。」


「うん。」


 恵子は優しく言った。


「会えたんだから、それで十分。」


     ◇


 帰り道。


 女性は何度も振り返った。


「ありがとうございました。」


「お礼なんていいよ。」


「でも……。」


「山に来たい時は、また来ればいい。」


 恵子は笑った。


「ただし、無理はしないこと。」


「はい。」


 女性が頭を下げる。


 麦人も手を振った。


「千尋ちゃん、またね。」


 赤ん坊が小さく手を動かした。


 まるで手を振り返しているようだった。


     ◇


 団地へ戻ると、賢蔵が玄関で待っていた。


「どうだった?」


「じいちゃん。」


 麦人が駆け寄る。


「狐、いたよ。」


「そうか。」


「それからね――。」


 麦人が今日の出来事を話す。


 賢蔵は黙って聞いていた。


 話が終わると、賢蔵は山を見た。


「昔もな。」


「うん。」


「山に子どもを連れてきた人がいた。」


「ほんと?」


「ああ。」


「その子も狐を見たの?」


 賢蔵は少し笑った。


「見たかもしれん。」


「かもしれない?」


「昔のことだからな。」


 恵子が隣で笑う。


「賢蔵さんも、最近そればっかり。」


「便利なんだよ。」


 二人のやり取りに、麦人は笑った。


     ◇


 夜。


 麦人はベランダに出た。


 風鈴が鳴る。


 チリン。


 チリン。


 空には大きな月。


 山は静かだった。


 もう狐の祝言は終わった。


 けれど、何かが終わったわけではない。


 むしろ――。


 何かが始まった。


 そんな気がした。


「恵子さん。」


「ん?」


「狐って、ずっと山にいるのかな。」


「きっとね。」


「ぼくが大人になっても?」


「山を大切にすれば、きっと。」


「じゃあ、ぼくも大切にする。」


 恵子は麦人を見た。


「うん。」


 風が吹いた。


 風鈴が鳴る。


 チリン。


 その音に重なるように、遠くの山からもう一つ。


 チリン。


 麦人は笑った。


 恵子も笑った。


 けれど、その笑顔の奥で、恵子だけが気づいていた。


 山から聞こえた鈴の音が――。


 今までとは少し違っていたことに。


     ◇


 翌朝。


 恵子は一人で台所に立っていた。


 窓の外を見る。


 夏の空。


 青い空。


 白い雲。


 けれど、山の上だけに薄い霧がかかっている。


「……変ね。」


 恵子がつぶやいた。


 そして、その瞬間。


 窓ガラスに、一瞬だけ小さな狐の姿が映った。


 恵子が振り返る。


 誰もいない。


 もう一度、窓を見る。


 そこには自分の姿だけ。


 恵子は静かに笑った。


「まだ、何かあるのね。」


 遠くで蝉が鳴く。


 そして山の奥から――。


 今度は鈴ではなく、鳥の声が聞こえた。


 夏の終わりを知らせるような、少し寂しい声だった。


            ――第十一章 山からの贈りもの・終――

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