第十二章 めぐる夏、麦の道
八月の終わり。
蝉の声が、少しずつ小さくなっていた。
まだ昼間は暑い。
けれど、朝の風には、ほんの少しだけ秋の匂いが混じっている。
麦人はベランダに出て、朝顔を眺めていた。
「夏も終わるのかな。」
「そうだね。」
恵子が隣に立つ。
「まだ暑いけど。」
「暑くても、季節は進むよ。」
「なんか不思議。」
「季節は待ってくれないからね。」
麦人は朝顔の葉に触れた。
最初は小さなつるだった。
それが今では、鉢いっぱいに広がっている。
「大きくなった。」
「むーさんもね。」
「ぼくも?」
「うん。」
「背?」
「それも。」
「じゃあ、何?」
恵子は少し笑った。
「それは自分で考えて。」
「またそれ。」
二人で笑った。
◇
朝食のあと。
麦人は突然、言った。
「恵子さん。」
「なに?」
「山に行きたい。」
「どうして?」
「狐に、さよなら言いたい。」
恵子は少しだけ驚いた。
「さよなら?」
「夏が終わるから。」
恵子は麦人を見つめる。
そして、優しく笑った。
「じゃあ、行こうか。」
◇
二人は山へ向かった。
夏の終わりの森。
蝉の声が木々の奥から聞こえてくる。
道には、落ちた葉が少しずつ増えていた。
「前に来た時と違うね。」
麦人が言う。
「何が?」
「匂い。」
「分かる?」
「ちょっとだけ。」
恵子は嬉しそうに笑った。
「それでいい。」
竹林を抜ける。
あの小さな祠が見えてきた。
麦人は祠の前で立ち止まった。
「ここ。」
「うん。」
麦人は深く頭を下げた。
「こんにちは。」
恵子も隣で頭を下げる。
「そして、ありがとう。」
風が吹く。
竹の葉が揺れる。
サアァァ……。
けれど、鈴は鳴らない。
「今日は来ないのかな。」
「かもしれないね。」
恵子は笑った。
「会える日ばかりじゃないよ。」
「そっか。」
◇
二人はさらに山を歩いた。
狐の祝言を見た広場へ向かう。
けれど、そこには何もなかった。
花もない。
鈴もない。
狐の足跡もない。
ただ、木漏れ日が地面に落ちている。
「本当に、あったのかな。」
麦人がつぶやく。
「何が?」
「祝言。」
恵子は麦人を見る。
「どう思う?」
「……あった。」
「どうして?」
「ぼくが見たから。」
恵子は微笑んだ。
「うん。」
それ以上は言わなかった。
◇
麦人は広場の真ん中に立った。
「狐さん。」
声を出す。
「また来年ね。」
返事はない。
「また会えたら、会おうね。」
風が吹いた。
木の葉が一枚、麦人の肩に落ちた。
「返事かな。」
「そうかもね。」
恵子は笑った。
◇
帰ろうとした時。
麦人が何かを見つけた。
「恵子さん。」
「ん?」
「これ。」
地面に、小さな白い花が咲いている。
夏の終わりにもかかわらず、そこだけ一輪。
麦人は手を伸ばしかけて、止めた。
「……触らない方がいい?」
「うん。」
恵子は笑った。
「よく覚えてたね。」
「だって、前に教えてくれた。」
麦人は花を見つめた。
「これは、ここにいる花だから。」
「そう。」
「持って帰っちゃだめ。」
「うん。」
二人はそのまま花を残して歩き出した。
◇
山を下りる途中。
麦人はふと立ち止まった。
「恵子さん。」
「どうした?」
「ぼく、狐に会えてよかった。」
「うん。」
「でも……。」
「でも?」
「会えなくても、山は山なんだね。」
恵子は足を止めた。
「そうだよ。」
「狐がいなくても、木があって、川があって、花があって。」
「うん。」
「それを大事にすればいい。」
恵子は麦人の頭を撫でた。
「むーさん。」
「なに?」
「それが一番大事なことかもしれないね。」
◇
団地へ戻ると、賢蔵がベランダで麦人を待っていた。
「どうだった?」
「狐はいなかった。」
「そうか。」
「でも、花があった。」
「それはよかった。」
「じいちゃん。」
「ん?」
「昔の狐の祝言って、またあるの?」
賢蔵は空を見上げた。
「あるかもしれんな。」
「じゃあ、来年も?」
「山が元気ならな。」
麦人は頷いた。
「じゃあ、山を元気にしよう。」
賢蔵は笑った。
「頼もしいな。」
◇
その夜。
夕食を終えた麦人は、ベランダで風鈴を眺めていた。
風がない。
だから鳴らない。
「今日は静か。」
恵子が隣に来る。
「そうだね。」
「狐の鈴も聞こえない。」
「うん。」
「ちょっと寂しい。」
「寂しいくらいが、ちょうどいい時もあるよ。」
「どうして?」
「また会いたいって思えるから。」
麦人は少し笑った。
「じゃあ、来年また会えるかな。」
「分からない。」
「恵子さん。」
「なに?」
「今日はそれ、嫌じゃない。」
恵子は笑った。
「そう?」
「うん。」
麦人は空を見上げた。
夏の終わりの夜空。
星がいくつか見えている。
◇
その時だった。
風が吹いた。
風鈴が揺れる。
チリン。
麦人が振り返る。
「……。」
もう一度。
チリン。
今度は、山の方からも聞こえた。
チリン。
麦人と恵子は顔を見合わせる。
「聞こえた?」
「うん。」
「狐?」
「さあ。」
恵子は笑った。
「でも、ありがとうって言ってるのかもしれないね。」
「何に?」
「この夏に。」
◇
翌朝。
麦人が目を覚ますと、ベランダの朝顔が一輪だけ咲いていた。
夏の最後の花だった。
麦人はしばらく、その花を眺めた。
そして、小さく笑った。
「またね。」
朝顔に言う。
山にいる狐にも。
夏にも。
そして――。
これからやってくる秋にも。
◇
恵子は台所で朝食を作っていた。
賢蔵が新聞を読みながら言う。
「麦人は?」
「ベランダ。」
「何してる?」
「夏に挨拶してる。」
「そうか。」
二人は顔を見合わせた。
そして笑った。
窓から風が入る。
朝顔の葉が揺れる。
遠くの山が、朝日に照らされている。
季節は、また一つ進もうとしていた。
春に芽吹いたものは、夏に伸びた。
夏に咲いたものは、秋に実を結ぶ。
そして、実ったものは、また次の季節へつながっていく。
麦人はまだ七歳。
これから、いくつもの季節を歩いていく。
笑ったり。
泣いたり。
迷ったり。
時には、立ち止まったり。
その隣には、きっと恵子がいる。
少し先を歩きながら。
時々振り返りながら。
「むーさん。」
「なに?」
「行くよ。」
「どこへ?」
「次の季節。」
麦人は笑った。
「うん!」
二人は玄関を出た。
団地の向こう。
山の向こう。
その先には、まだ見たことのない道が続いている。
麦人の足元を、夏の終わりの風が吹き抜けた。
その風の中に――。
ほんの一瞬。
小さな鈴の音が混じった。
チリン。
麦人は振り返らなかった。
ただ、恵子と並んで歩いていく。
めぐる季節の中を。
麦の道を。
――『めぐる季節は麦の道 二 狐の祝言』・完――




