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俳句 楽園のリアリズム(パート8・完結ーその2)

 最近私の作品を開いていただいた方のために言っておきますが、私の作品をとおしで一回読んでいただいただけでもふつうの詩(や短歌)を本格的に味わうのはまだ無理があるかもしれません。それでも、私の作品を、先を急がず先に進むのを惜しむようにしてくりかえし読んでいただけたなら、読むほどにレベルアップしていく季節感まで加味された俳句のポエジーが、詩(や短歌)を味わうのに十分な程度の、詩的想像力や詩的感受性を養ってくれないはずはなく、いやでも読む速度をスピードダウンさせる5・7・5の俳句の音数律が詩的言語感覚を研ぎ澄ますことにも絶対つながるはずなのです。このことは、私の作品の前例のない価値として、自信をもって断言しておきます。



 

  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない……



  本買えば表紙が匂ふ雪の暮



  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう……



  雪の夜の星のふかさの町に出づ



 何度でも強調しておきたい。読む速度をいやでもスピードダウンさせる5・7・5の俳句の音数律が、言葉の生命そのもののなかに深く入りこんでいくような、こうしたゆるやかな「言葉の夢想」をぼくたちに体験させてくれたのだった……



  よこがほをさびしとおもふ稲光



 そうして、そのことが、そのくりかえしが、詩的想像力や詩的感受性はもちろん、さらには、ふつうの詩を読むときに不可欠な詩的言語感覚までをぼくたちの内部でしっかりと育成してくれているはずなのだった。


  「孤立した詩的イマージュの水位におい

  ても、一行の詩句となってあらわれる表

  現の生成のなかにさえ現象学的反響があ

  らわれる。そしてそれは極端に単純なか

  たちで、われわれに言語を支配する力を

  あたえる……



  トマト()り海への径の真昼なる




 ところで、5・7・5の俳句の音数律のすごさはどなたにも納得していただけるようになったと思うけれど、有季定型の有季ということも、じつはすごいこと。 

 そのむきだしのイマージュだけでだれもが比較的簡単にそれなりのポエジーに出会えてしまうはずだから、いままで、俳句につきものの季語とか季節感ということにはあまり触れないできた。本末転倒になるといけないと思ったからだ。けれども、この、季節ということに関しても、じつは、バシュラールはすごい言葉を残しているのだ。


  「純粋な思い出は日付けをもたない。そ

  れは季節をもつ。季節が思い出の基本的

  なしるしである」


  「思い出の季節は美化されている。ひと

  びとが夢想しながら、単純そのものであ

  る季節の根底、まさに季節の価値の中心

  にまでたどりつくとき、幼少時代の季節

  は詩人の季節となる」

  

  「幼少時代は『絵入りの世界』、最初の

  色彩、本当の色彩で描かれた『世界』を

  眺めている。幼少時代の思い出を夢想し

 つつ甦らせる偉大な昔のときはまさに第

  一回目の世界なのである。わたしたちの

  子供の頃のあらゆる夏は、<永遠の夏>の

  証しである。思い出の季節は永遠である。

  なぜなら、それは第一回目の色彩と変わ

  らぬまったく同じ色彩をもつからである。

  わたしたちの夢想のなかでわたしたちは

  幼少時代の色彩で彩られた世界をふたた

  び見るのである」


 幼少時代の季節は詩人の季節となる。つまり、バシュラールのこの言葉は、幼少時代の季節は俳句の読者の季節となる、と、そう言っているのとおなじことになるだろう。つまり、そう、それだから遠い日の季節の記憶が、ぼくたち俳句の読者に、いままでに読んできた俳句作品においても、幼少時代の色彩で彩られた、永遠の春や夏や秋や冬を素晴らしく思い出させてくれたのだった。


  「純粋な思い出は日付けをもたない。そ

  れは季節をもつ。季節が思い出の基本的

  なしるしである」


 幼少時代の《美》の記憶がかたちとなって現われた一句一句の俳句のイマージュが、あれほどの快さをぼくたちにあたえてくれたのも、そのポエジーには幼少時代の季節の記憶までが混ざりこんでいたから、と、どうやらそういうことになりそうだ。

 俳句は、イマージュがむきだしになっていて、ふつうの詩よりも確実にポエジーを味わわせてくれるだけだって、すごい。そのうえ、こうした幼少時代の<永遠の季節>までよみがえらせてくれることになるのだから、俳句が世界一理想的な詩であることが、ますます決定的になったのではないだろうか。そうして、俳句が、有季定型であることの、絶大な効果も、これではっきりしたことになるだろう。


  「幼少時代の季節はぼくたち俳句の読者

  の季節となる」


  「イマージュは孤立のなかにあってはじ

  めて一切の力を発揮できるのだ」

 

  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう」


 最初から長ったらしいふつうの詩を読んでみたってぜんぜんダメだったはずであって、沈黙に縁どられて孤立した、たった一行のなかの、季語をはじめとする単純な俳句の言葉たちが、かえってより純粋なかたちで、季節感まで加味されたぼくたちの幼少時代の宇宙的な記憶を呼びさますことを可能にし、そうしていやでも読む速度をスピードダウンさせる俳句定型の5・7・5の音数律が、ゆるやかな言葉の夢想を可能にしてくれたから、それだからだれもが比較的簡単に、しかもだれもがうれしくなるほど公平に、この本のなかの俳句で、季節感まで加味された素晴らしいポエジーに出会えたのだった。

 

 山口誓子。俳句が有季定型であることの恩恵とは。夏の季語(六月・南風・蝉)たちが思い出させてくれる幼少時代の夏の記憶、すなわち<永遠の夏>の記憶とは……



  六月の星出でそめぬ砂利置場


  南風の渚レースを編みつづけ


  樹を過ぎて蝉のこゑごゑ遠ざかる



  「わたしにとって『夏』は花束の季節で

  ある。『夏』は花束であり、色褪せるこ

  とを知らない永遠の花束である。という

  のは、夏はその象徴である若さを保って

  いるからであり、それは取りたての新鮮

  な自然の供物だからである。思い出の季

  節は美化されている。ひとびとが夢想し

  ながら、単純そのものである季節の根底、

  まさに季節の価値の中心にまでたどりつ

  くとき、幼少時代の季節はぼくたち俳句

  の読者の季節となる……



  薔薇垣の夜は星のみぞかゞやける


  通る電車白シャツぎっしり充ちて過ぐ


  新緑や旅する(ひじ)を汽車に見る


  みちのくを来てわが(そば)に青林檎

  

  炎天の遠き帆やわがこころの帆



  「思い出の季節は永遠である。なぜなら、

  それは第一回目の色彩と変わらぬまった

  く同じ色彩をもつからである」



 マックス・ピカートの『沈黙の世界』から引用させてもらった前回の文章を、こんどは「形象」を「イマージュ」に、勝手に書き換えてしまうとこういうことになる。


  「イマージュは人間の心のなかに言葉以

  前の存在への追憶を呼び起こす。イマー

  ジュが人間をあれほどにも強く感動させ

  るのはそのために他ならない。イマージ

  ュは人間の内部に、あの言葉以前の存在

  への憧憬を呼び覚ますのである。(中略)

  諸事物のこの沈黙のイマージュを保存す

  るものは、人間の魂である。魂は、たと

  えば精神のように言葉を通じて事物につ

  いて語るのではなく、諸事物のイマージ

  ュを通じて語るのだ。だから、もろもろ

  の事物は、先ずイマージュによって人間

  の魂のなかに、そして更に言葉によって

  精神のなかに、二度くりかえして人間の

  内部に宿るのである。だから魂のなかに

  宿るのは諸事物のイマージュであって言

  葉ではない。魂は、言葉の創造以前の人

  間の状態を保存しているのだ」


 形象とは、たんに知覚しただけの事物の(イメージ)ではなくて、<イマージュとしての事物>や<事物のイマージュ>をさす言葉なのだ。


  「この美はわたしたちの内部、記憶の底

  にとどまっている」


 魂は、それがたんに知覚されただけの事物だろうと、あらゆる事物を<イマージュとしての事物>に変換して記憶する。つまり、あらゆる事物を《美》に変換して保存する。青林檎や薔薇垣や砂利置場や汽車や星がそうだったように。


  「詩は精神の現象学というよりも、むし

  ろたましいの現象学であることをのべな

  ければならない」


 俳句の言葉に触れてぼくたちのたましいが<イマージュとしての事物>の記憶を思い起こせば、心のなかには<事物のイマージュ>がかたちとなって出現することになる。

 そう、幼少時代の絶対的な《美》の記憶がかたちとなって現われたものこそ、俳句のイマージュにほかならないのだった……



  薔薇垣の夜は星のみぞかゞやける

 


  「ひとのたましいは幼少時代の価値に決

  して無関心ではない」


  「夢想はたましいの世界をあたえるとい

  うこと。俳句のイマージュとはたましい

  がそれみずからの世界を発見したことの

  証言であり、たましいがそこで生きたい

  と願い、たましいが住むにふさわしい世

  界の発見の証言である……



  六月の星出でそめぬ砂利置場



 旅先で旅情を満喫したり、こうやって俳句のポエジーを味わったりしているぼくたちのこの試みは、真似をしてひらがな表記をしてみたくなるような、風のように軽やかで自由な、ぼくたちのたましいを復権させる試みだった、と言っていいかもしれない。

 

  「たましいはもはや世界の一隅につなぎ

  とめられてはいない。それは世界の中心

  に、みずからの世界の中心にいる」


 ぼくたちは精神によって、社会の片隅で、みんなといっしょに生き生きと楽しく生活し、たましいによって、世界の中心で、バシュラール的孤独のなかで人生のほんとうの幸福にひたることになるのだ。


  「夢想は精神の欠如ではない。むしろそ

  れはたましいの充実を知った一刻からあ

  たえられる恩恵なのである」


 バシュラール的な孤独の状態に自分を置いて、夢想することによって最高の人生を手に入れるというぼくたちの選んだこのやり方は、宇宙的な魂とその宇宙的想像力や宇宙的感受性を復活させる試み。まあ、そこまでいかなくても、旅抜きの俳句だけの場合は、詩的な魂、つまり、その詩的想像力や詩的感受性を獲得し、自在に活用できるようにする試みだったとしめくくることができそうだ。


  「これらの夢想はわたしたちの現在の孤

  独を人生最初の孤独へとつれていく。最

  初の孤独、つまりあの幼少時代の孤独は、

  あるひとたちのたましいに消しがたい刻

  印を残している。かれらは生涯を通じて

  詩的夢想に敏感になる、つまり、孤独の

  価値を知っている夢想にたいし敏感にな

  るのである」


 これまで孤独だの詩的な魂だの詩的想像力だの、そんなことあまり意識しないでやってきて、いやでもそれらがしぜんと自分のものになってきつつあるわけだけれど、これからもそんなことはまったく意識しないでやっていけそうだ。


  「夢みるたましいとは孤独のひとつの意

  識である」


 いまの段階ではまだ個人差があるのは仕方ないことだけれど、そのうち(あるいは、すぐにでも)だれかの詩集のページを開いて一篇の詩を前にするだけで、詩的な魂だの、詩的想像力だの詩的感受性だの、そんなもの意識しなくたってそれらがいやでも勝手に生き生きと活動してしまって、いつでもしっかりとそれらがぼくたちを夢想なんかさせてしまうことになるのは、絶対、間違いないことだと思われるのだ。


  「わたしたちは読んでいたと思うまもな

  く、もう夢想にふけっている。たましい

  のなかで受けとめたイマージュはわたし

  たちを連続的夢想の状態にみちびく」


 それを可能にする(あるいは、した)のが、旅はともかくとして、この本のなかの700句の俳句がしぜんと育成してくれているぼくたちの詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚であることを、何度でも強調しておきたい。


  「わたしはプシシスムを真に汎美的なも

  のにしたいと思い、こうして詩人の作品

  を読むことを通じて、自分が美しい生に

  浴していると実感できたのである」


 やっぱり、旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、とんでもない人生が始まろうとしているようだ。


  「言語が完全に高貴になったとき、音韻

  上の現象とロゴスの現象がたがいに調和

  する、感性の極限点へみちびく」

  

 ありふれた目の前のなんでもない世界を写生しただけでも、一句一句の俳句の言葉が、ぼくたちのたましいのなかに保存されている形象(イマージュ)の記憶を呼びさましてしまうので、結果として、すべての俳句作品は、幼少時代の楽園のような世界をリアルに写生しているような素晴らしい印象をあたえることになるのだ。

 俳句を読んでぼくたちの意識に浮上してくるイマージュは、記憶のなかからよみがえった四季折々の楽園。


  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである」


 俳句の言葉によるこの本のなかでの単純で奥深い詩的夢想が、詩を読むだけで美しい生に浴しているとだれもがうれしく実感できるような、バシュラール的な書かれた言葉の夢想家になるための、理想的な最高のプロローグとなってくれているということは、いまや、どなたにも、心から納得していただけるようになったのではないかと思う。


  「わたしはまさしく語の夢想家であり、

  書かれた語の夢想家である」


 作者もまちまちなつぎの16句の俳句作品は、思い出のなかの永遠の春や夏や秋や冬を、幼少時代の色彩でもって鮮やかによみがえらせてくれるだろか。


  「孤立した詩的イマージュの水位におい

  ても、一行の詩句となってあらわれる表 

  現の生成のなかにさえ現象学的反響があ

  らわれる。そしてそれは極端に単純なか

  たちで、われわれに言語を支配する力を

  あたえる」


 俳句という完結した一行の詩句がもたらしてくれる、季節感まで加味された現象学的反響、すなわち、極上のポエジー。



  「詩的夢想の誘いに各人各様に応じて、

  奥深い〈反響〉に身をまかせる、という

  ふうにありたいものである」



 5・7・5と言葉をたどっただけでよみがえる、遠い日の春の記憶とは……



  バスを待ち大路(おおじ)の春をうたがはず  石田波郷(いしだはきょう)

 

  村遠くはなれて丘のさくら咲く  飯田龍太(いいだりゅうた)     


  空にむき雨受けてをりチューリップ  高木(たかぎ)晴子(はるこ)


  窓あけて見ゆる限りの春惜しむ  高田蝶衣(たかだちょうい)



 5・7・5と言葉をたどっただけでよみがえる、記憶のなかの〈永遠の夏〉とは……     



  プラタナス夜もみどりなる夏はきぬ  石田波郷


  南風(みなみ)ふく波止場に雲のただよへり  上村占魚


  信濃路は夏木(なつき)にまじる蔵白く  角川源義(かどかわげんよし)


  夏の河赤き鉄鎖(てっさ)のはし浸る  山口誓子



 俳句という完結した一行の詩句がもたらしてくれる、季節感まで加味された現象学的反響¬¬¬、すなわち、極上のポエジー……



  秋めくと思ふ貝煮る音の中  岡本(おかもと) (ひとみ)     


  頂上や(こと)に野菊の吹かれ()り  (はら) 石鼎(せきてい)


  さしかかるひとつの橋の秋の暮  (かつら) 信子(のぶこ)


  秋惜しみをれば遥かに町の音  楠本憲吉(くすもとけんきち)



  「詩的夢想の誘いに各人各様に応じて、

  奥深い〈反響〉に身をまかせる、という

  ふうにありたいものである……



  麓の灯寒く(とも)れば山の灯も  日野草城


  縄とびの寒暮(かんぼ)いたみし馬車通る  佐藤(さとう)鬼房(おにふさ)


  冬の夜をいつも灯ともす小窓かな  高浜虚子


  地の(はて)に倖せありと来しが雪  細谷源二(ほそやげんじ)



  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら 

  ない」


  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう」


 もう一度強調しておきたい。いやでも読む速度をスピードダウンさせる俳句の5・7・5の音数律が、こうした言葉の生命そのもののなかに深く入りこんでいくような、ゆるやかな「言葉の夢想」を可能にしてくれたのだった。

 そんなふうにしてこの本のなかの俳句で言葉の内部のポエジーや無限性を体験してきた

そのことが、ぼくたちの詩的言語感覚を研ぎ澄ますことにもつながったのだった。


 今回も、ぼくの大好きな大木実の詩を4篇ほどつづけて読んでみることにしよう。それなりの詩的言語感覚や詩的想像力や詩的感受性が育ってきているぼくたちが、これら4篇の詩を、詩的な喜びや慰めや感動抜きで、ただの散文のように意味を受けとるだけでそのまま最後の行まで読みとおすなんて、そんな器用な芸当が、ほんとうに、いまでもぼくたちにできるものだろうか……



   湖


  山のふもと 湖のほとり

  街道に沿うてながく続く

  山国 諏訪はさびしい町だ


  私はむかし シュトルムの「みずうみ」と

   いう物語を愛した

  湖のほとりで

  おもいを告げずに去ったラインハルトと

  知りつつ涙をためて送ったエリザベエトの

   物語を


  ゆう近く

  湖のうえを霧が流れる

  霧のなかに向いの山山の姿が消えてゆく

  私もラインハルトの悲しみをもつけれど

  エリザベエトのようにそのひとは 私のお

   もいを汲んでいたろうか



  

   鶴岡八幡宮


  鶴岡八幡宮の石段にたち

  娘は目を輝かせ眺めている

  その横顔は 若かった日の妻の横顔にそっ

  くりおなじだ


  戦争のはじまった年だった

  一日 鎌倉の町を妻とふたりで歩いた

  八幡宮から長谷の大仏 そして由比が浜


  幸せにしてやるつもりだったが

  くらしの苦労ばかりさせてしまった

  鎌倉のほか どこへも連れていかなかった

  

  このごろ娘は目にみえて

  若かった日の妻に似てくる

  色が白くて ふっくらとした頬のあたりは


  ぼくのようなものといっしょになって

  妻には気の毒なことをしてしまった

  鶴岡八幡宮の石段にたち ぼくは妻に詫び

   たくなった



  

   坂


  暗い空のしたに

  低く街が沈んでいる

  この世のいとなみが

  そこでほそぼそと続けられているのだ

  華やかで

  いつまでも見ておれば

  寂しい燈火(あかり)

  ひっそりとして坂の道は

  あかりの点く街の方へ降っていく



  

   おさなご


  おもちゃ屋の前を通ると

  (まり)を買ってね

  本屋の前を通ると

  ごほん買ってね と子供が言う

  あとで買ってあげようね

  きょうはお(かね)をもって来なかったから

  私の答もきまっている

  子供はうなずいてせがみはしない

  のぞいて通るだけである

  いつも買って貰えないのを知っているから

  ゆうがた

  ゆうげの仕度のできるまで

  晴れた日は子供の手をひき

  近くの踏切へ汽車を見にゆく

  その往きかえり 通りすがりの店をのぞい

   て

  私を見あげて 子供が言う

  毬を買ってね

  ごほん買ってね



  「ああ、わたしたちの好きなページは、

  わたしたちにいかに大きな生きる力を

  あたえてくれることだろう」


  「言語が完全に高貴になったとき、音韻

  上の現象とロゴスの現象がたがいに調和

  する、感性の極限点へみちびく」


  「詩的言語を詩的に体験し、また根本的

  確信としてそれをすでに語ることができ

  ているならば、人の生は倍化することに

  なるだろう」


  「わたしたちは書物のなかで眠りこけて

  いる無数のイマージュを契機として、み

  ずからの詩的意識を覚醒させることがで

  きるのである」





 次回からのパート9と11と13では(パート6ーその3)で試みたような、余計なおしゃべりなしで、ほとんどバシュラールの言葉の助力だけで俳句のポエジーを味わって、その最後に少しだけ詩を読んだり、パート10と12では俳句抜きでふつうの詩だけを読んでいくことになります。

 私の作品には終わりというものはなくて一生利用していだくことに意味があると何度も言ってきましたが、投稿作のいちおうの仕上げとなりますので、まだ当然個人差があるとは思いますけれど、けっこう詩作品も出てきますし、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚がどれほど育成されてきたか、楽しみにして、試しに読んでいただけたならと思います。


  

 飯田龍太の作品をスマホで読むとき作者名が変な位置にきてしまって私の能力ではどうしても修正できなかったのですが、ほかの作品でも脱字とか誤変換とか、変なところも少なくはないかと思いますけれど、そんなところは大目にみていただけたなら感謝いたします。

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