俳句 楽園のリアリズム(パート7ーその1)
これからふつうの詩を読むための下準備をしていただきたいなんて何度も言ってきましたけれど、ほんとうをいうと、なんのことはない、俳句のポエジーをそれなりに味わえるようになった方は、私の作品の言葉の流れのままに出てきた詩も読んでいただければ、大木実や高田敏子の詩はやさしすぎるほどだし、100%確実に、それなりの詩情や詩的な喜びや慰めを感じとっていただけるはずです。
そんなわけで、リアルタイムで私の作品を読んでいただいている方は、個人差はあるとしても、いままでに少なくはない俳句を読んできたはずですし、今回も、大木実の2篇が登場する前に読むことになる24句の俳句のポエジーを深く味わうことだけにに集中していただければ、絶対、なんとかなると思っています。
本文で前に読んだ大木実の「田舎の駅」という詩と言っているのは、端折ってしまった「時の流れパート」でとりあげた詩のことで、私の旅情の原点ともいえるこの詩は、生き残ったこの作品でも読めるように(パート11)の最後に書き加えておきました。
今回はじめてこの作品を開いていただいた方は(本なら)パラパラとするだけにとどめていただいて、私の俳句にたいする考えとどうして旅というものにこだわるのかを理解していただくためにも、とりあえずは(パート1)全部と(パート2-その1と2)をひととおり読んでいただくことをおすすめします。あとは順番にこだわらず、どこでもいい、適当なところを何度でも好きなように気ままにくりかえし読んでいただいて、ふつうの詩や短歌を味わうのに不可欠な、詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をしぜんとご自分のものにしていただけたらと思います。
さてきょうも素晴らしいポエジーとの出会いを求めて俳句を読んでいってみよう。
たった一行のなんでもない俳句の言葉を黄金の宇宙的なイマージュに変えてしまう、俳句形式と詩的想像力(想像力―記憶という心理的混合体)による不思議な錬金術って、いったいどうなっているのだろう。
そうした錬金術のイメージをもっとふくらませることができれば、いっそう俳句形式と詩的想像力に対する信頼を大きなものにして、それらの恩恵をよりいっそうゆたかに受けとれるようになるかもしれない……。もっとも、不思議な錬金術と言ってしまえば、それだけで、魔法とおなじようにその絶大な効果を受けとれるはずのものなのだけれど。
まあ、いずれにしても「楽園のリアリズム」という言葉がそうした錬金術の素晴らしい説明になっているだろう。目の前のなんでもない世界を客観写生(虚子の造語)しただけで、俳句作品は、結果として、幼少時代という<イマージュの楽園>そのままの世界をリアルに写生してしまうものなのだった。
「言葉の世界では、詩人が詩的言語のた
め有意的言語を放棄するとき、心的作用
の美化作用が心理的に主要なしるしとな
ってくる。自己表現をのぞむ夢想が詩的
夢想となるのだ」
この文章もまた俳句の錬金術を素晴らしく説明してくれているだろう。俳句形式にとり込まれただけでただの言葉が詩的言語に昇格してしまう俳句では、いさぎよく自己表現を断念して世界を「客観写生」しただけのような俳句作品ほど、それだけ純粋なかたちで、一句が、心の美化作用、つまり、そう、詩的夢想の発現の場となってくれるのだ……
坂上の白き僧院夏雲湧く
一句のなかのただのイメージが、まぶしいほどの、宇宙的なイマージュに変わってしまったのも、あたりまえ。まさに、俳句形式の錬金術。または、楽園のリアリズム。
《たったの17音で詩として自立できるわけもなく、いさぎよく作者は身をひいて、俳句形式にすべてあとをまかせるから、俳句は作品として自立することができるのだ。
したがって、俳句作者の栄光とは、自分は作品から身をひいて、自分の選んだ言葉だけでもって、一句一句、俳句形式をそのつど花咲かせることにあるだろう。
いっぽう、身をひいた作者への責任を果たすかのように、俳句形式自身が、バシュラールの助力をえて、一句の背後に、作者のかわりにだれものものでもある普遍的な「幼少時代」を召喚することによって、委託された俳句作品に最高のポエジーをもたらすことを思いついたのだ。
俳句のイマージュがこんなにも宇宙性に輝いて見えるのは、召喚されて永い眠りからさめた幼少時代のたましいが、ぼくたち読者に先だって、すでに、一句一句の背後で、思い思いに宇宙的な夢想を満喫しているせいにちがいない……
驟雨去り夕づく空の深き藍
雑草に路あり雲は夕焼くる
「俳句のひとつの詩的情景ごとに幸福の
ひとつのタイプが対応する……
静かなる町うきくさの水に沿ふ
梅雨の径こぼれて匂ふ花のあり
「俳句作品にひとたび対象がとりこまれ
るや、対象そのものが存在を変化する。
対象は詩的なものに昇格するのである……
むさし野のふるき用水澄みにけり
野を一と日あるき小さな霧の駅
「わたしたちの幸福には全世界が貢献す
るようになる。あらゆるものが夢想によ
り、夢想のなかで美しくなるのである……
朝の霧ゆらぎそめたるカンナかな
みづうみや洲をかけりゆく秋の蝶
駅を出ていつもの道の秋の暮
作者である滝春一がいさぎよく作品から身をひいてくれたから、彼の選んだ言葉だけが、一句一句、こんなにも美しく俳句形式を花咲かせることができたのだ。ぼくたちが俳句作品を読んで味わったのは、俳句形式を花咲かせたあとに結んだ新鮮で甘美な、まさに楽園の果実のようなイマージュの味わい。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品が、幼少時代という<イマージュの楽園>における宇宙的幸福をそっくりそのまま追体験させてくれる……
驟雨去り夕づく空の深き藍
「思い出しながら想像する夢想のなかで、
わたしたちの過去はふたたび実体を発見
するのである。絵画的なものをこえ、人
間のたましいと世界との結びつきが強固
になる。そのときわたしたちのなかでは
歴史の記憶ではなく宇宙の記憶が甦る。
何ごとも起こらなかった時間がまい戻っ
てくる。何ごとも起こらなかったあの時
間には、世界はかくも美しかった。わた
したちは静謐な世界、夢想の世界のなか
にいたのである」
一句ごとに静謐な宇宙の記憶をよみがえらせ、なんでもない一句の情景を黄金の宇宙的な詩的情景に変えてしまう、俳句形式と詩的想像力による、この、不思議な錬金術……
雑草に路あり雲は夕焼くる
こんなふうに、俳句形式が、旅先で旅情を生んだりしたのとおなじ詩的想像力を上手に利用してくれたり、こんなふうに、俳句作品が、幼少時代の宇宙的な記憶を呼びさましてくれたりしたから、この本のなかで、ぼくたちだれもが素晴らしいポエジーに出会えたのだった。
「詩的なるものの実存主義の主要問題は
夢想状態の持続ということである。わた
したちが詩人たちに要求することは、か
れらの夢想を伝えてくれること、わたし
たちの夢想を強固にしてくれること、そ
うすることによって、わたしたちが再想
像された過去のなかに生きることを可能
にしてくれることである」
つまり、詩人たちのかわりに、旅や、読みつづけてきた俳句が、夢想状態を持続させぼくたちの夢想を強固にし、そうして、俳句作品のなかで俳句形式が、俳句一句を読むたびに、まだ自分のものとはいえなかった詩的想像力を上手に利用してくれたから、ぼくたち俳句の読者だれもが、再想像された過去のなかに生きることが可能になったのだ……
梅雨の径こぼれて匂ふ花のあり
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである」
この本のなかの700句で、そんなことを何度もくりかえしていれば、いやでもぼくたちの内部に想像力―記憶という心理的混合体がしっかりと自分のものとして定着してしまうのは、当然といえる。
「想像力と記憶とポエジーという三つの
関係は、この孤独な幼少時代、つまり宇
宙的な幼少時代であるところのこの人間
の現象を、価値の支配している領域にお
いてみる手助けをしてくれる」
散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出ては「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させて、そこで、つまり旅先で、ぼくたちの幼少時代と詩的想像力を同時にみつけだしてしまうことに成功した方ほど、やっぱり、より本格的な俳句のポエジーを味わうことができているのではないかと思う。
「人間のプシケの中心にとどまっている
幼少時代の核を見つけだせるのは、この
宇宙的な孤独の思い出のなかである。そ
こでは想像力と記憶がもっとも密接に結
合している」
旅先の事物や風景がぼくたちの旅情を誘い想像力と記憶とポエジーがうまい具合に関係しあっていると感じることができたなら、それは、ぼくたちが旅先で幼少時代と詩的想像力を同時にみつけだしてしまったことの証拠。
「純粋な思い出は夢想のなかでしかみつ
けられない。思い出は実際の人生におい
てわたしたちを助けるようにうまい具合
には出現しない」
もちろん、旅なんか抜きにしてこの本だけを利用していただいている方にとっては、この「俳句パート」のなかの俳句でそれなりのポエジーをすでに味わえるようになったとしたら、それは、旅情を味わっている旅先で起こるのとほとんどおなじことが、この部屋のなかで起こってしまったことの証拠。
「過去の証拠品を前に、思い出をよびさ
ましたり確かめたりする旅先の事物や風
景を前に、旅人は思い出のポエジーと幻
想の真実との融合を味わう。夢想のなか
でふたたび甦った幼少時代の思い出は、
まちがいなくたましいの奥底での〈幻想
の聖歌〉なのである」
「幼少時代がなければ真実の宇宙性はな
い。宇宙的な歌がなければポエジーはな
い。俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙
性をめざめさせる」
「わたしたちの幼少時代はすべて再想像
されるべき状態にとどまっている」
「イマージュの閃光によって、遠い過去
がこだまとなってひびきわたる」
バシュラールが引用していたボードレールの言葉ももう一度紹介させてもらおう。
「哲学的視点から考察された真の記憶と
は、非常に生きいきした、容易に感動し
やすい想像力、したがって各感覚の助け
をえて、過去の情景を生命の魅力のごと
きものを加味しつつ喚起することのでき
る想像力のなかにしか存在しない、とわ
たしは考える」
さすがにバシュラールが引用しただけあって「過去の情景を生命の魅力のごときものを加味しつつ喚起することのできる想像力」というボードレールのこの言葉は、想像力と記憶がもたらすポエジーというものの魅力を、じつに素敵にぼくたちに教えてくれている。
ボードレールも、やっぱり、想像力―記憶という心理的混合体、つまり、詩的想像力をすっかり自分のものにしてそれを自在に活用することができから、あれほどの大詩人として作品と名を後世に残すことができたのだろう。
「想像的な記憶のなかではすべてが途方
もなく新鮮によみがえる……
朝の霧ゆらぎそめたるカンナかな
途方もない新鮮さをもたらしたり生命の魅力のごときものを加味したりする元になるのが、たぶん、ぼくたちだれもの内部に残存しているはずの、幼少時代の宇宙的幸福の記憶、その甘美な〈諧調〉の思い出なのだ……
駅を出ていつもの道の秋の暮
『幼少時代には世界のあらゆる事物は美しいイマージュの表情を見せていたものだった。そうしたイマージを夢想していた子供の宇宙的幸福が、夢想・イマージュ・幸福・ポエジー・美的感情・喜びの感情・孤独・自由の、原体験・原型・源泉といったものになる。
ひとたび「幼少時代の核」があらわになると、俳句の言葉が、幼少時代の夢想を再現させる美的機能をもったイマージュとして湖面のようなどこかで受けとめられ、そうしたイマージュによって遠い日の宇宙的な夢想をぼくたちはそっくり真似することになり、ぼくたち俳句の読者の心は幼少時代の夢想の幸福、つまり、宇宙的幸福、すなわち、ポエジーで満たされる』
それではつぎの鷹羽狩行の作品で、ぼくたちをいやでも夢想させてしまうこのようなメカニズムの存在を、初心にかえって、しっかりと確認しておきたい。ぼくたちのやり方に間違いはなかったのだ、と。
俳句形式が、こんなにもまばゆい宇宙的なイマージュで、一句一句、俳句作品を充たしてくれている。
5・7・5とゆっくり言葉をたどるだけで、幼少時代の宇宙的幸福はそのつど素晴らしくよみがえってくれるだろうか。
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす……
灯台のどの方位にも雪ふれり
干潟には時間をかけて雪積る
降る雪の中に雪片たたかへり
「過去の情景を生命の魅力のごときもの
を加味しつつ喚起することのできる想像
力……
流木と破船の骨とまぎれ冬
息白し汽罐車がわが前にゐて
なかんづく果樹園の錠冬ざるる
《俳句作品のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……
神は星座組むとき妻は毛糸編む
毛糸編むさまその影の祈るさま
「つぎの俳句一句をもちいて、わたしは
言語の感受性にかかわる夢幻的感受性の
テストをしてみたい……
みちのくの星入り氷柱われに呉れよ
こないだ大好きな大木実の「田舎の駅」という詩を一篇だけ読んでみたけれど、ぼくの場合、すんなりと素晴らしい詩情を感じられたのが、とてもうれしかった。散文を行分けしただけのようなやさしい詩だったけれど、散文的な意味の流れのなかにも、文学的な詩的イマージュといったものをたしかに感じとることはできたと思う。そうしたイマージュを詩的想像力が勝手にみつけだして、そうして詩的感受性が、過去の旅で味わったりした詩情も織りこまれた、人生的な感動と慰めをしっかりと受けとってくれたのが、とてもうれしかった。
みなさんの場合はどうだったろうか。旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、まあまあと思える程度の言葉の夢幻的感受性がご自分のものになってきたのは、まず間違いないことだと思うのだけれど。
ついでだから、なつかしい人生への郷愁を感じさせてくれる大木実の、ちがう詩集に収録された「陸橋」というおなじタイトルの詩を2篇、ちょっと早い気もするけどためしにまた読んでみることにしよう。ここでも、ぼくたちの詩的想像力は「生命の魅力のごときものを加味しつつ」過去の情景を素晴らしく喚起して、ぼくたちの詩的感受性はどこかなつかしい素敵な詩情を、しっかり感じとってくれるだろうか……
陸橋
枕木も濡れ
線路も濡れ
陸橋のむこうの樹木や街も濡れている
僕のかえっていく家の
屋根瓦も濡れているのだろう
陸橋のしたを
雨に濡れつつ汽車が過ぎる
たたずむ僕を煙がつつむ
この汽車の往くところ
この線路の尽きるところには
僕の知らない町があり
僕の知らない山や川や 僕の知らないひと
達も
さびしくきょうの雨に濡れているのだろう
日暮れて
陸橋も濡れ
燈火も濡れ
たたずむ僕のおもいも濡れる
陸橋
いつの日おもったであろう
この町に住むことを
こうした生活を迎えることを
朝あさ陸橋を渡るたび
歩廊についた列車を眺め
多くの旅人を窓にみるたび
この町に住むわたしの身を
過ぎた月日とさまざまなできごとを
かつて わたしも
あのひと達のように
列車の窓に寄りこの町を眺め
旅びととしてここを過ぎた
いま その町にわたしは住む
妻と子をもち
朝ごと陸橋をこえて勤めへ通う
人生へのあこがれのようななつかしい郷愁をめざめさせてくれる大木実の詩は、人生は、絶対に、生きる意味があるのだという確信をすべての読者にあたえてくれるようだ。こうした、ポエジーというよりも(ポエジーの日本語であっておなじ意味のはずなのに)詩情といってみたくなるような、詩的な喜びや慰めをもたらしてくれる詩に、夢想というのもなんだかピンとこない。
いまだに夢想という言葉には馴染めないままこの本のなかの俳句でポエジーを味わってこられた方も少なくはないと思うけれど、俳句を読んでそれなりに夢想なんかしてきた結果としてぼくたち自身のものになってきた詩的想像力や詩的感受性が、詩を読むときに夢想なんて言葉を意識しなくたって、それでもぼくたちを我知らず夢想なんかさせてしまって、目論見どおり、大木実の詩から人生的なノスタルジーや詩的な喜びや慰めを感じとらせてくれたのだ。
以前、詩の不感症みたいになってしまったとき、この想像力というのも関係していた。詩的イマージュとはどのようなもので、想像力はどのようにしてポエジーを生むことになるのか? そんなことを考えながら詩を読んでみたって、肝心な魂ではなくて、精神ばかりが中途半端に活動してしまって、ポエジーなんてまともに味わえるわけもなかったのに。
それが、ややこしいことなんか考えなくたって、というか、考えたりしないほうがかえってぼくたちの『夢想のメカニズム』はしっかりと機能してくれるようなのだから、約束どおりいまは不要になったとはいっても、やっぱり、この、メカニズムといアイデアを自画自賛したくもなってくる。
ぼくたちの幼少時代をしぜんとめざめさせてくれる旅や俳句があるおかげで、湖面のような「心の鏡」みたいなどこで(つまり、そう、復活した宇宙的感受性で)イマージュを受けとめれば、ぼくたちの心は、きまって、ポエジーを受けとることになる……。と、たったこれだけの単純さで用が足りてしまったのだから。
「常に過去に密着しつつ、たえず過去か
ら離脱しなければならない。過去に密着
するには、記憶を愛さなければならない。
過去から離脱するには、大いに想像しな
ければならない。そして、このような相
反する義務こそ、言語を申し分なく潑剌
と活動させるのである」
普通はこんなふうに言われたって、どうしたらいいかただ途方にくれるだけだろう。けれども、こんなむずかしい注文を、一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式が、まだぼくたちのものとはいえなかった詩的想像力を上手に利用してすでにらくらくとこなしてくれていたのだ。
「このような相反する義務こそ、言語を
申し分なく潑剌と活動させるのである」
さっき読んだ大木実の詩の言葉がなまなましく心に触れてきたとしたら、それはぼくたちの心のなかに詩的想像力(想像力―記憶という心理的混合体)や詩的感受性(幼少時代の宇宙的幸福の記憶に根ざした、宇宙的な、甘美な<諧調>に対する感受性)がすでに育ってきている証拠にちがいないのだ。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品が、遠い日の〈宇宙の記憶〉をありありとよみがえらせてくれる……
灯台のどの方位にも雪ふれり
「純粋な思い出は夢想のなかでしかみつ
けられない。思い出は実際の人生におい
てわたしたちを助けるようにうまい具合
には出現しない……
干潟には時間をかけて雪積る
ぼくたち大人の心は、本来、あるときは活発な精神が、あるときは感じやすい魂がというふうに、並存して活動するのが好ましい状態なのだった。ところが、将来社会生活に適応しなければならないという要請のせいか、学校教育などが、人間の心の成長というものを、幼少時代の魂が次第に精神に征服されていく過程にほとんど限定してしまった。いくら社会生活を営まなくてはならないといっても、社会から世界のなかへ自分を解放してあげられる自由な時間だってあるわけだし、精神と魂のほどよいバランスこそが、人間の幸福にとって、必要なことだったはずなのに。
「夢想はわたしたちを世界のなかにおく
のであって、社会のなかにおくのではな
い」
「たましいはもはや世界の一隅につなぎ
とめられてはいない。それは世界の中心
に、みずからの世界の中心にいる」
ぼくたちは社会の片隅で、精神によって、みんなといっしょに生き生きと楽しく生活し、世界の中心で、魂によって、獲得されたバシュラール的孤独のなかで人生のほんとうの幸福にひたることになるのだ。
「人間は、もはや夢想することができな
いので、考えるのだ」
「わたしの夢想をみている幸せな人間、
それはわたしである。また思考するとい
う義務などもはやなく閑暇を楽しんでい
るのはわたしだ」
「夢想の奥底にみずからのたましいを再
発見することは、いかにも簡単なことで
ある。夢想はわたしたちをたましいの発
生状態に導いていくではないか」
どうだったでしょう。俳句のポエジーをそれなりに味わえるようになった方は、大木実の2篇を読んでみて、約束どおりそれなりの詩情や詩的な喜びや慰めを感じとることはできたのではないかと思います。
次回とつぎのつぎの(パート8-その1)にはふつうの詩は出てこないので、作品のなかの俳句のポエジーを思う存分堪能してはご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をさらにレベルアップしていただけたらと思います。