俳句 楽園のリアリズム(パート7-その2)
前回の大木実の「陸橋」という2篇の詩で、ほとんどの方に詩情や詩的な喜びや慰めを感じとっていただけたのではないかと思います。この本のやり方に間違いはなかったのだ、と。
次回は、俳句のポエジーに活性化された詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感でもって、最後に私の大好きな大木実の「日曜日」「樹のしたで」「旅立ち」「人生」「山清水」という5篇の詩を読んでみることになります。
今回は俳句だけなので、次回のためにも、バシュラールのいう言葉の夢幻的感受性、つまり、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をさらにレベルアップさせることに集中していただけたならと思っております。
ところで、やっぱり「心の鏡」というイメージにはそうとうに無理があったと思うし、これも約束どおりメカニズムというアイデア同様いまではまったく不要になったはずだけれど、最初の段階で「心の鏡」というイメージがそれなりに役立ったのも、それが、条件さえ満たせばぼくたちをいやでも夢想なんかさせてしまうメカニズムみたいなものの存在を視覚化し、その存在をぼくたちにしっかりと確信させてくれたからだった。
「湖の水に映った木のイマージュは現実
の情景の夢みられたイマージュそっくり
であった」
それに、いま思えば、メカニズムの内部構造とかむずかしいことを考えなくてもよくなったわけだし、そのぶん「心の鏡」という隠喩が、ふだんの精神を後退させ夢想することの得意な魂をあらわにすることにも役立った、ということなのだろう。
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない」
そうして、湖面のようなどこかがイマージュを受けとめればぼくたちの心はきまってポエジーを受けとることになる、と単純化することが、知らず知らずのうちに<イマージュの存在論>や<想像力の現象学>の恩恵を受けることにもつながったのだった。
「詩的イマージュは、その新しさ、その
活動において、独自の存在、独自の活力
をもつ。それは直接の存在論である」
「イマージュが意識のなかに浮上してく
るときの、詩的イマージュの現象の研究」
「詩は精神の現象学というよりも、むし
ろたましいの現象学であることをのべな
ければならない」
現象学とはなんだなんて、そんなむずかしいことぼくたちにはどうだっていい。
「詩のイマージュによって魅了された主
体の意識」
湖面のようなどこかがイマージュを映し出しているときの、イマージュに魅了された意識の現象をそのまま考察の対象にすることが<想像力の現象学>の方法なのだと単純に考えればいい。現象学的な方法によって著したバシュラール晩年の一冊が『夢想の詩学』だったわけだけれど、人類に最高の幸福をもたらすその研究の貴重な報告のメインの部分を、ほかでもない、自分自身を幸福にするために、この本をとおしてこんなにもどっさり自分のものにすることができたのだ。
「イマージュの頂点にいつも立つ読書は、
読者に現象学の非常によく規定された練
習をさせるであろう」
ぼくたちが試みてきた<方法>の正当性と有効性を保証してくれているような言葉。イマージュの頂点にいつもぼくたちを立たせてくれる俳句で、ぼくたちはイマージュに魅了されつつ、何度も何度も、まさに、現象学の練習をくりかえしてきたことになるのだ。
「孤立した詩的イマージュの水位におい
ても、一行の詩句となってあらわれる表
現の生成のなかにさえ現象学的反響があ
らわれる。そしてそれは極端に単純なか
たちで、われわれに言語を支配する力を
あたえる」
この本のなかの俳句による単純で奥深い「言葉の夢想」が生む現象学的反響(つまり、ポエジー)が、極端に単純なかたちでぼくたちに言語を支配する力をあたえてくれることになる! この本のなかの700句をくりかえし味わうこと(つまり、そう、現象学の練習だ)が、途方もない幸福をもたらすバシュラール的な書かれた言葉の夢想家になるための、最高に理想的なプロローグとなってくれるのは、やっぱり、間違いのない事実だろう。
「湧きたつイマージュを冷静な観念に<
縮小する>人や、想像力のもっと手のこ
んだ否定家であるイマージュの<註解者>
の門を叩いたのでは、イマージュの存在
論や想像力の現象学のあらゆる可能性を、
いずれもぶちこわしてしまうのではない
だろうか」
「わたしは現象学によって特別にあたえ
られた現実感のおかげで、詩人の提供す
る新しいイマージュをそのまま受け入れ
ることができた。イマージュは現前した
し、わたしたちのなかにありありと出現
した。それは、詩人のたましいのなかで
それを生みだすことを可能にした一切の
過去から切り離されて現前したのである」
「現象学的方法は、美しいイマージュの
創造を根源的意識というものに、すなわ
ち個人的意識というものにおき戻すよう
わたしに命じたのである。わたしはプシ
シスムを真に汎美的なものにしたいと思
い、こうして詩人の作品を読むことを通
じて、自分が美しい生に浴していると実
感できたのである」
「現象学は、イマージュのもつ繊細微妙
な魅力によってイマージュを体験するこ
とを可能にし、またそうするよう厳命す
る。イマージュの細部は、詩的なるもの
の次元において拡大することによって膨
張するのだ」
中村汀女。ぼくたちの意識のなかに浮上してくるつぎの俳句の詩的情景にぼくたちが魅了されたとしたら、それは、一句一句のイマージュが湖面のようなどこかでしっかりと受けとめられたことの証拠……
手袋の手にはや春の月明り
見えて来る汽車を待つなり春の風
先々の道の見覚え水温む
「孤立した詩的イマージュの水位におい
ても、一行の詩句となってあらわれる表
現の生成のなかにさえ現象学的反響があ
らわれる……
たんぽぽの花には花の風生れ
窓を開け幾夜故郷の春の月
「イマージュは現前したし、わたしたち
のなかにありありと出現した……
夏の雲銀座横丁行けば照る
夏深き木々の梢を窓に置き
「詩的イマージュは、その新しさ、その
活動において、独自の存在、独自の活力
をもつ。それは直接の存在論である……
夕焼や鳳仙花今日の花散らし
夕蝉のここにも切に町の果
「わたしたちはイマージュ、いまや思い
出よりも自由なイマージュに直面してい
る……
子は母に右手をあづけ夕紅葉
「イマージュをたのしみ、イマージュを
それ自体として愛する……
手をふれて金木犀の夜の匂ひ
「現在しなければならない、イマージュ
のうまれでる瞬間に現在しなければなら
ないのだ……
かなしみを紅葉明りに語りつぎ
バシュラールも愛読したらしいマックス・ピカートというひとの『沈黙の世界』(みすず書房・佐野利勝訳)に、こんなことが書かれている。(つぎに出てくる「形象」は、ぼくたちがこの本のなかで使っているイマージュという言葉とほとんどおなじ意味だと思われる)
「形象は人間の心のなかに言葉以前の存
在への追憶を喚び起こす。形象が人間を
あれほどにも強く感動させるのはそのた
めに他ならない。形象は人間の内部に、
あの言葉以前の存在への憧憬を呼び覚ま
すのである。(中略)諸事物のこの沈黙の
形象を保存するものは、人間の魂である。
魂は、たとえば精神のように言葉を通じ
て事物について語るのではなく、諸事物
の形象を通じて語るのだ。だから、もろ
もろの事物は、先ず形象によって人間の
魂のなかに、そして更に言葉によって精
神のなかに、二度くりかえして人間の内
部に宿るのである。だから魂のなかに宿
るのは諸事物の形象であって言葉ではな
い。魂は、言葉の創造以前の人間の状態
を保存しているのだ」
「言葉以前の存在」とは、まさに、はるか時間の彼方、幼少時代という〈イマージュの楽園〉における存在のことにほかならないだろうし「魂は言葉の創造以前の人間の状態を保存している」とは、まさに、だれもの内部で幼少時代はひとつのたましいの状態でありつづけている、というのとほとんどおなじことを言っていることになるだろう。
そうして、ぼくたちの用語を使えば、イマージュは、幼少時代への追憶を呼び起こし、幼少時代への憧憬を呼び覚ますから、あれほどにも強くぼくたちを感動させるのだ、と。
また、魂のなかに保存されているのは(したがって魂が思い出すのは)言葉の記憶ではなくて、諸事物のイマージュの記憶なのだ、
と。
形象は幼少時代への追憶を呼び起こし幼少時代への憧憬を呼び覚ます……。
言葉以前の存在を、ぼくたちに都合がいいように勝手に幼少時代に変えてしまったけれど、この言葉は、どうして、イマージュのむきだしになったたった一行の単純な俳句が、こんなにも簡単にぼくたちの幼少時代を思い出させだれもに例外なく素晴らしいポエジーを体験させてしまうことになるのか、そのことの素晴らしい説明にもなっているだろう。
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである」
俳句の言葉に触れてぼくたち俳句の読者が思い出すのは、言葉によって精神のなかに宿った事物の記憶なんかではなくて、形象、つまり、ぼくたちの魂のなかに保存されている<イマージュとしての事物>の記憶だったのだ。
そんなわけで、すべての俳句のイマージュが、幼少時代という<イマージュの楽園>の事物たちとまったくおなじ美的素材でできあがっているような、そんな素晴らしい印象をあたえることにもなったのだろう。
それというのも、おそらく、魂のなかに保存されるとき、大人になってから覚えたものだろうと、あらゆる事物は幼少時代の事物たちとまったくおなじ<イマージュとしての事物>に変換されて記憶されることになるから。
「もしひとが現に見ているものをひとが
夢想したことがなかったなら、ひとは決
して世界をよく見たことがなかったのだ」
それって、もっとよく考えてみると、あらゆる事物が《美》に変換されて魂のなかに保存されるといってもおなじことにならないだろうか。(ちなみに、広辞苑によると、ここでいう形象とは、②美学で、対象を観照して心のなかに浮かび上がる、その対象のすがた。ということになる。つまり、ぼくたちが使っているイマージュという言葉の意味そのもの)
「もろもろの事物は、まず形象によって
人間の魂のなかに、そしてさらに言葉に
よって精神のなかに、二度くりかえして
人間の内部に宿るのである」
つまり、そう、俳句の言葉に触れて呼び起こされる<イマージュとしての事物>の記憶とは、あらゆる美的感情の源泉である幼少時代の絶対的な《美》の記憶にほかならない。まさにこのことこそ、俳句が、相対的な評価や価値などを超えた「絶対芸術」のひとつであることの理由なのだ。
「この美はわたしたちの内部、記憶の底
にとどまっている」
そうなのだ。俳句の言葉に触れてぼくたちの魂が思い出すのは《美》そのものの記憶でなければならない。《美》の記憶がかたちとなって現われたもの、それこそが、まさに、俳句のイマージュにほかならない……
たんぽぽの花には花の風生れ
「あらゆるものが夢想により、夢想のな
かで美しくなるのである」
いっぽう、形象の記憶と結びついていない普通の想像力が俳句を読んでいくら想像してみたって、味もそっけもないただの視覚的なイメージしか作りださないだろう。なぜといって、普通の想像力は、散文的な言葉と結びついた、精神のなかに宿った貧相な事物の記憶しか利用することができないから。
「夢想は精神の欠如ではない。むしろそ
れはたましいの充実を知った一刻からあ
たえられる恩恵なのである」
「イマージュの閃光によって、遠い過去がこだまとなってひびきわたる」(つまり、現象学的反響、だ)という、バシュラールのこの素晴らしい文章も、いまならよく理解できる。
俳句の言葉に触れて、魂のなかに保存されている<イマージュとしての事物>の記憶によってぼくたちが<事物のイマージュ>を思い浮かべると、こんどは、それが、魂のなかに出現した湖面のようなどこかに映し出され、その閃光によって、遠い日の宇宙的幸福が、ぼくたちの魂のなかで快いポエジーのこだまとなってひびきわたることになるのだ……
見えて来る汽車を待つなり春の風
「プルーストは思い出すためにマドレー
ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思
いがけないひとつの語だけでも同じ力が
発揮される」
それでは山口誓子の俳句作品によって、そのことをさらに素晴らしく実感させてもらうことにしよう。
一句一句の詩的情景を受けとめるだけで、ぼくたちの遠い過去は、ポエジーのこだまとなってひびきわたってくれるだろうか……
日々わたる踏切も暑をきざしけり
駅中のレール多くは梅雨錆びし
柵なくて登山者駅を出で去れり
俳句のイマージュとは、遠い日の《美》の記憶がかたちとなって現れたもの……
南風の浪湖の沖より沖より来る
秋の雲はてなき瑠璃の天をゆく
夕焼と何ある山の彼方には
「夢想はたましいの世界をあたえる。俳
句のイマージュとはたましいがそれみず
からの世界を発見したことの証言であり、
たましいがそこで生きたいと願い、たま
しいが住むにふさわしい世界の発見の証
言である……
夕焼けて甲板は物を煮る匂ひ
土手の駅五月の伊豆に入らむとす
「夢想はわたしたちをたましいの発生状
態に導いていく……
はじめより薄かりし虹なほうすれ
オリオンが出て大いなる晩夏かな
幼少時代を過ぎてから刻まれた「世界」の記憶もふくめて、俳句の言葉が呼びさますあらゆる記憶を、なにもかも幼少時代の宇宙的なイマージュに変えてしまうのが、俳句形式と詩的想像力による、魔法のような錬金術。
大人になってから知った世界の記憶に、どうして幼少時代の《美》の記憶が混ざりこんでしまったのか、マックス・ピカートのおかげで、いまならそのことがよく理解できる。
魂があらゆる事物を《美》に変換して記憶していた以上、魂の領域でしか機能しない詩的想像力における記憶とは、宇宙的な、絶対的な《美》の記憶にほかならなかったのだ。
ぼくは以前、ひとつひとつの記憶が心の奥深くでゆっくりと熟成して、ポエジーの源泉となり素材となるものだと思っていた。けれど、どうもそういうことではないらしくて、きのう歳時記の解説とカラー写真で覚えたばかりの季語にいきなりきょう読む俳句でぶつかったとしても、もしもそのとき、精神ではなくてぼくたちの魂があらわな状態であるならば、幼少時代という〈イマージュの楽園〉の事物たちそっくりの、幼少時代の色彩で彩られたその形象をしぜんと思い浮かべてしまう、ということらしい。
それをいつ知ったかなんてことに関係なく、俳句の言葉の表すただのイメージを、すべて、形象、つまり、黄金の宇宙的なイマージュに変えてしまう、それこそが、俳句形式と詩的想像力による魔法のように不思議な、いや、魔法でもなんでもない、まさに、理にかなった、ごく自然な錬金術。そう、やっぱり「楽園のリアリズム」と呼ぶのがふさわしい。
つぎの臼田亞浪の俳句作品でも、一句一句のなんでもないただのイメージを、俳句形式は、幼少時代の<楽園>の色彩で塗りなおしてくれているだろうか。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品が、幼少時代という〈イマージュの楽園〉そのままのリアルな世界を、再発見させてくれる……
木より木に通へる風の春浅き
雨晴れて大空の深さ紫陽花に
行きずりに蜜柑の花の匂ふ夜ぞ
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は俳句の言葉が、真実のイマージュがあ
ればいい……
石段を打つ樹雫や蟬時雨
暮れてゆく五月の海の音もなし
《俳句作品のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……
妻も子も早や寝て山の銀河冴ゆ
郭公や何処までゆかば人に逢はむ
「ああ、わたしの前にあたえられたこの
イマージュが、わたしのものとなるよう
に、正真正銘わたしのものとなってくれ
るように、とわたしは願う。わたしの前
のイマージュがわたしの作ったものにな
るように、これは読む者の自尊心の最高
のありかたではないか……
草萌えぬ我が立つ影の落つる土
別々に影つくり歩む枯野かな
もう一度強調しておこう、枯野も石段も樹雫も紫陽花も蜜柑の花も世界中のなにもかもが〈イマージュとしての事物〉、つまり、幼少時代の絶対的な《美》に変換されてぼくたちの魂のなかにしっかりと保存されていたはず。
だから、俳句の言葉が呼びさます枯野や石段や樹雫や紫陽花や蜜柑の花といった「世界」の美しい形象の記憶に、個人差などというものは、やっぱり、考えられないということになるだろう。
「この美はわたしたちの内部、記憶の底
にとどまっている……
石段を打つ樹雫や蝉時雨
今回はじめて私の作品を開いていただいた方は、いきなりふつの詩を味わっていただくにはさすがに無理があるので、私の俳句にたいする考えやそうして旅というものにどうしてこうもこだわるのかを理解していただくためにも、とりあえずは(パート1)全部と(パート2ーその1と2)を読んでいただくことをおすすめします。あとは詩を味わうのに十分と思える程度の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚をご自分のものにするために、順番にこだわらず、道草を食うみたいにして、どこでもいい、適当なところを気楽にくりかえし何度でも読んでいただけたなら、これも自分で言うのもなんですが、私のやり方があまりにも有効で効果的なので、この人生で詩を読むことなんて考えもしなかったでしょうが、想像もできなかったほど早く詩を味わえるようになるはずです。
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的確信としてそれをすでに語ることができているならば、人の生は倍化することになるだろう」
「言語が完全に高貴になったとき、音韻上の現象とロゴス(ここでは言葉の意味作用くらいに受けとっていいだろう)の現象がたがいに調和する、感性の極限点へみちびく」