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俳句 楽園のリアリズム(パート7・完結ーその3)

 私の作品を十分に読みこんでいただいた方には、前々回の大木実の詩2篇とおなじように、今回の5篇でも、純粋な詩情や、私の作品にめぐりあう前には思いもしなかったような詩的な喜びや慰めを確実に感じとっていただけるはずですが、今回はじめて開いていただいた方は、ふつうの詩を味わうのはさすがに無理があると思いますので(本なら)パラパラする程度にとどめていただいて、私の俳句にたいする(たぶん)前例のない考えを理解していただくために(パート1)を全部、そうして、旅情の思い出が俳句のポエジーを味わえるようになるきっかけになってくれるということを理解していただくために(パート2-その1と2)をまず読んでいただくことをおすすめします。

 あとは順番にこだわらず、適当に気ままに、どこでもいい、好きなようにくりかえし読んでいただいて、ふつうの詩を味わうのに十分な、ご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚、おなじことになるはずですが、ご自分の詩的なたましいを養っていただければと思います。


 



 この本のなかの俳句で、だれもが公平に、素晴らしいポエジーに出会えてしまったのもあたりまえ。いまの段階で味わうことのできたポエジーのレベルに個人差があるとしたら、それは、ふだんの精神を後退させてぼくたちの魂をどれだけあらわにすることができたか、その程度の違いでしかない。俳句のイマージュを作りあげるのは、ぼくたちだれもの魂がおなじものとして共有する、石段とか樹雫とか木々とかの、そうした《美》の充満した形象(イマージュ)の記憶だけなのだから。


  「わたしの前のイマージュがわたしの作

  ったものになるように、これは読む者の

  自尊心の最高のありかたではないか……



  木より木に通へる風の春浅き



  「イマージュがわたしたちの気に入るの

  は、あらゆる責任とは無縁の、夢想の絶

  対的自由の状態で、わたしたちが創造し

  たからである……



  雨晴れて大空の深さ紫陽花に



  「イマージュの幸福に身をゆだねるとき

  に生まれるささやかな誇り……



  行きずりに蜜柑の花の匂ふ夜ぞ



 バシュラールの教えに導かれて読んできたこの本のなかの俳句は、これらのイマージュをほんとうの意味で創造したのは、まぎれもなく、このぼくたち自身にほかならないという、そうした、詩の読者特有の、読む者の誇りといったものまで実感させてくれるようにもなってきたのだった。

 この本のなかの700句で、そうした誇りと自信を養っていけば、ふつうの詩を読むなんて、きっとわけないこと。こんなにもイマージュがぎゅうぎゅう詰めになった俳句という一行詩で極上のポエジーをそれなりに味わえるようになってきた方にとっては、イマージュがすかすかの、気楽な、詩の一行一行を味わっていくことなど、きっとわけないこと。

 それが当然のことだと思えるのも、この本のなかの700句が、いま、ぼくたちの詩的想像力や詩的感受性をしっかりと育成してくれているはずだからだった。


  「わたしはプシシスムを真に汎美的なも

  のにしたいと思い、こうして詩人の作品

  を読むことを通じて、自分が美しい生に

  浴していると実感することができたので

  ある。美しい生に浴するということは、

  こころよい読書にひたり、言葉の流れの

  中にゆくりなく立ち現われる詩的な浮き

  彫りをのがさぬように、いつも注意する

  ような読書に没頭することである」


 自分が美しい生に浴していると実感することができたのである、だなんて、こんなふうに言うことのできたバシュラールってほんとうにすごいなと思う。

 それでも、ぼくたちだって、旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、まあまあと思える程度の詩的想像力や詩的感受性はだれもが自分のものにしつつあるはずであって、先ほどの大木実の「陸橋」という2篇を読んでみて、ほとんどの方が、いまの段階でも、それなりの詩情や詩的な喜びや慰めを感じることはできたのではないかと思う。

 それは、つまり、バシュラールみたいに、詩人たちの作品を読むことを通じて自分が美しい生に浴している、と、いつでもそんなふうにうれしく実感できるような、それこそだれもがほんとうの意味で最高と思えるような、そんな素晴らしい人生を確実に手に入れるための第一歩を、大きく踏み出したことになるだろう。

 つまり、そう、旅と俳句が、あるいは、この本のなかの俳句でくりかえしポエジーを味わってきたそのことが、そのための下準備をしっかりとしてくれていたからだ。


  「詩的言語を詩的に体験し、また根本的

  確信としてそれをすでに語ることができ

  ているならば、人の生は倍加することに

  なるだろう」


 それにしても、詩の浮き彫りに注意しながら読んでいって、しかもはじめてポエジーに出会うなんて、ぼくたちの俳句にくらべたらほんとうにむずかしいことだろうなと思う。


 この本のなかの俳句作品でそれなりにポエジーを味わえるようになったいまならよく理解できるようになったのではないかと思われるので、俳句にふさわしそうな詩的言語について書かれたバシュラールの文章をまとめて読んでみることにしよう。


  「わたしはまさしく語の夢想家であり、

  書かれた語の夢想家である」


 俳句による単純で奥深い「言葉の夢想」が、最高の幸福が約束されたバシュラール的な書かれた言葉の夢想家になるためのプロローグとして、やっぱり、どれほど有効であったか、これだけ並べれば、どなたにも確信をもってそのことを納得していただけるのではないかと思う。


  「意味作用に対する隷属から解放された

  言葉」


  「語が夢想の言語に属するか、つまり休

  憩中の言語であるか……」


  「わたしたちはこの〈ささやいている記

  憶〉にたよる母国語以外の国語のなかで

  夢想にふけることができようか」


  「ある語に耳をかしていると、子供が貝

  殻のなかに海の音を聞くように、語の夢

  想家には想念の世界のざわめきが聞こえ

  てくるのだ」


  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう」


  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない」


  「そのとき世界とその夢想家はどんな新

  しい連帯関係に入ることか。語られた夢

  想は孤独な夢想家の孤独を世界のあらゆ

  る存在に開かれた連帯関係に変容させる」


  「読書は心的作用の現代的なひとつの次

  元である。文字(エクリチュール)によってすでに転移され

  た心的現象を転移させる次元である。書

  きしるされた言語は特殊な心的作用の現

  実とみなさなければならない」


  「言葉(パロール)の世界では、詩人が詩的言語のた

  め有意的言語を放棄するとき、心的作用

  の美化作用が心理的に主要なしるしとな

  ってくる。自己表現をのぞむ夢想が詩的

  夢想となるのである」


  「詩人は宇宙的な夢想によって、原初の

  パロールとして、原初のイマージュとし

  て、世界を語っているのだ。語、美しい

  語、自然の雄大な語は、それを作ったイ

  マージュを信じている」


  「命名された事物はその名前の夢想のな

  かで蘇るであろうか。すべては夢想家の

  夢想の感受性にかかっている」


  「その語をいくぶん<暖める>ようにして

  もらいたい。そうすると、語の意味のな

  かで眠っていた語、意味の化石のように

  生気のない語から、この上なく珍稀な花

  が開くであろう。まさにしかり。語も夢

  をみるのだ」


  「イマージュはそれを夢想する語によっ

  て作られる」


  「言語のなかで、言語によって誕生する

  この想像力の現象」


  「詩人がさしだす言葉の幸福」


 意味作用に対する隷属から解放された休憩中の俳句の言葉は、もともと夢想の言語に属していたのだ。俳句の言葉が、たましいのなかの形象(イマージュ)の記憶を呼びさましてしまったのもごく自然なこと。


  「夢想は精神の欠如ではない。むしろそ

  れはたましいの充実を知った一刻からあ

  たえられる恩恵なのである」


 それではつぎに、清崎敏郎の俳句作品がさしだす「言葉の幸福」を、心ゆくまで味わってみたい。命名された事物の形象(イマージュ)は、その名前の夢想のなかで、幼少時代の色彩でもってありありと甦ってくれるだろうか……



  露草に朝の波音くりかへし


  降りつのりきて白萩のこぼれそめ  


 

  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない……



  霧かけて湖畔の町は賑へる


  温泉()の町の夏も過ぎゆくカンナかな


  

  「いっさいの意味への気遣いに煩わされ

  ることなく、わたしはイマージュを生きる……



  船つくる木の香の匂ふ花芙蓉(はなふよう)


  湿原を流るる水も澄めりけり



  「俳句作品がさしだす言葉の幸福……



  山下りてパン買いに行く法師蝉


  部屋二つ灯り二つの秋灯(あきともし)



  「わたしたちはこの〈ささやいている記 

  憶〉にたよる母国語以外の国語のなかで

  夢想にふけることができようか」


 つぎのような、俳句のためにバシュラールが書き残したとしか思えないような素晴らしい文章も。


  「宇宙的な語、人間存在にものの存在を

  あたえる語がある。だからこそ詩人は『

  宇宙を閉じこめるためには、文章のなか

  よりも一語のなかの方が容易である』と

  いうことができた。語は夢想により、無

  限なものになりかわり、最初の貧弱な限

  定を棄ててしまう」


  「夢想の根底に下降するひとは自然な夢

  想、原初の宇宙、原初の夢想家の夢想を

  また発見する。そのとき世界はもはや沈

  黙してはいない。詩的夢想は世界を原初

  のパロールによって甦らせる。世界のあ

  らゆる存在はそれがもつ名詞によって話

  し始める」


 俳句こそ、まさに、一語一語のなかに宇宙を閉じこめた、名詞の詩。まさに、一行の形象(イマージュ)の宝石箱。


 詩的想像力や詩的感受性、つまり、言葉の「夢幻的感受性」がそれなりに育ってきたいまなら、詩的言語をめぐるバシュラールの文章も、事物と言葉と記憶とイマージュとポエジーとの関係において、その深い意味をよく理解できるようになったのではないだろうか。


 つぎは青柳志解樹の俳句作品。俳句こそ、まさに、一語一語のなかに宇宙をとじこめた、名詞の詩。まさに、一行の形象(イマージュ)の宝石箱……



  夕虹のその片脚が友の村


  アカシアも水木の花も暮れてきし



  「命名された事物はその名前の夢想のな

  かで甦るであろうか。すべては夢想家の

  夢想の感受性にかかっている……



  合歓(ねむ)咲くや雨たっぷりと降りしあと


  合歓咲くや雲は流れをやはらげて



  「俳句作品を読むことにより、夢想によ

  りイマージュの実在性が再現されてくる

  ため、わたしたちは読書のユートピアに

  遊ぶ気がするだろう……



  自転車に鳥籠くくり夏野ゆく


  スカートの裾雛芥子(ひなげし)の揺れどほし


 

  「語の夢想家なら、つぎの俳句を読んで、

  夢想をおさえることができようか……



  網棚の百合が香放つ小海線



  「わたしはまさしく語の夢想家であり、

  書かれた語の夢想家である……



  そらまめの花に干潟の風わたる



 こんなふうに俳句のポエジーを味わいながら、ご自分の内部の「夢幻的感受性」の存在をそれなりに実感することができたとしたら、それは、とりもなおさず、ほかでもない、ご自分の詩的想像力と詩的感受性がそれなりに育ってきつつあることの証拠。


  「夢想の根底に下降するひとは自然な夢

  想、原初の宇宙、原初の夢想家の夢想を

  また発見する。そのとき世界はもはや沈

  黙してはいない。詩的夢想は世界を原初

  のパロールによって甦らせる。世界のあ

  らゆる存在はそれがもつ名詞によって話

  し始める」


 大井雅人。5・7・5と言葉をたるだけで、これらの俳句作品は、さまざまな名詞でもって、原初の宇宙、すなわち、幼少時代の色彩で彩られた〈イマージュの楽園〉そのままの世界を再発見させてくれるだろうか……



  北風の町の向うは陽ざす海


  鳩の背に光る真冬の雨の粒



  「語られた夢想は孤独な夢想家の孤独を

  世界のあらゆる存在に開かれた連帯関係

  に変容させる……



  梅が咲く日向(ひなた)へと坂のぼりつめ


  校庭の水溜り澄むさくらかな


  風涼し湯屋(ゆや)の煙突立つ夜景



  「語の意味のなかで眠っていた語、意味

  の化石のように生気のない語から、この

  上なく珍稀な花が開くであろう。まさに

  しかり。語も夢をみるのだ……



  南風の自転車錆びて家陰に


  帰京する妻に夏山雲を育て



  「語、美しい語、自然の雄大な語は、そ

  れを作ったイマージュを信じている……



  三日月にポプラは細き枝見せて


  桐の花川沿ひに山深く入り



  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう」


 これはぼくたちにとってとても重要な事実なのだけれど、いやでも読む速度をスピードダウンさせる5・7・5の俳句の音数律が、こうしたゆるやかな「言葉の夢想」を可能にしてくれているにちがいないのだ。


  「つぎの中村汀女の俳句作品をもちいて、

  わたしは言語の感受性にかかわる夢幻的

  感受性のテストをしてみたい……



  降る雪にビルいつしかに灯を連らね


  橋に聞くながき汽笛や冬の霧



  「語は夢想により、無限なものになりか

  わり、最初の貧弱な限定を棄ててしまう……



  春雨の旅のポストの色褪せて


  五月雨(さみだれ)の雨音近く物煮ゆる



  「語の内部のポエジーやひとつの単語の

  内部の無限性を体験するには、いかにゆ

  るやかに夢想することをわれわれはまな

  ばなければならぬことだろう」

   

 しぜんと読む速度をスピードダウンさせる5・7・5の俳句の音数律が、言葉の内部のポエジーやひとつの単語の内部の夢幻性を体験させてくれるような、こうしたゆるやかな「言葉の夢想」をいつでも可能にしてくれたのだった……



  灯の入りし公衆電話秋の暮


  秋風や向ふの橋も人渡り


  電車待つゆきももどりも秋の雨



  「言語の生命そのもののなかに深く入り

  こんでいくような夢想をしなければなら

  ない……



  ひたすらに人等家路に秋の暮


  人波にしばしさからひ秋の暮


  曼珠沙華抱くほどとれど母恋し



 いやでも読む速度をスピードダウンさせる5・7・5の俳句の音数律が、たったいま体験したような、ゆるやかな、言語の生命そのもののなかに深く入りこんでいくような言葉の夢想を可能にしてくれたのだ。そのくりかえしが、ぼくたちの詩的言語感覚を研ぎ澄まさなかったはずはないのだ。

 さきほど読んだ大木実の詩で、詩の言葉がいままでには考えられなかったほどなまなましく心に触れてきてそのことに信じられないような思いをされたとしたら、それは、だんだん自分のものになってきたこうした詩的言語感覚のおかげでもあったのだ。

 つまり、胸を張って自分のものといえるようになってきた詩的言語感覚や、それと、もちろん詩的想像力や詩的感受性のおかげで、いまや、俳句や詩の言葉が高貴なものへと変容しようとしているのかもしれないのだ。


  「言語が完全に高貴になったとき、音韻

  上の現象とロゴスの現象がたがいに調和

  する、感性の極限点へみちびく……



  郭公や何処までゆかば人に逢はむ



 抒情的でその詩情が短歌に近いような俳句だけれど、臼田亞浪といえばぼくも大好きなこの代表句をはずすことはできなかった。この俳句の良さが分かるようになったとしたら、やっぱり、それは、ふつうの詩を味わうための第一歩を大きく踏み出したことにもなるだろう。


  「孤立した詩的イマージュの水位におい

  ても、一行の詩句となってあらわれる表

  現の生成のなかにさえ現象学的反響があ

  らわれる。そしてそれは極端に単純なか

  たちで、われわれに言語を支配する力を

  あたえる……



  北風の町の向うは陽ざす海



 詩的言語感覚や詩的想像力や詩的感受性がしっかり育ってきていることを実感していただくために、ぼくがいま読んでいる大好きな大木実の詩をさらに5篇ほど選んで、つづけて読んでみることにしよう。高貴なものに昇格した詩的言語とは?


  「言語が完全に高貴になったとき、音韻

  上の現象とロゴスの現象がたがいに調和

  する、感性の極限点へみちびく……




  日曜日


 貧しい父は

 娘をどこへも連れてゆけず

 近くの町の公園で

 ブランコに乗せ

 倦きるとベンチに並んで

 リンゴをむいてやった


 肩をよせあう

 父と娘に

 風は冷たく吹いたが

 陽ざしはやわらかく

 娘の微笑みが 寂しい

 父の気持をなぐさめてくれた

 

 きょう

 ブランコをゆすり

 高みより微笑みかける

 幼い娘はどこの子か

 ベンチで微笑みかえす

 父親らしい若い男は何をするひとか


 からだも弱く辛かったあのころの日々

 私のかわいいひとり娘

 こころ素直に私は感謝する

 生きてきた幸せを

 きのうのことのようにおもい浮かべる

 遠い日の日曜日の午後




  樹のしたで


 樹はたっている

 ここにこうして

 子供たちの生まれる前から

 樹はみてきた

 夏は涼しい蔭をひろげ

 本を読んだり遊んだりした子供たちを

 樹は知っている

 ひとりの子供が泣いたことを

 ひとりの子供が怒ったことを

 樹よ

 遠い日の涼しい風よ

 あのとき怒った子供は僕だ

 あのとき泣いた弟はもう帰らない




  旅立ち


 プラットホームに立っていると

 すさまじい速力で 埃をまきあげ

 急行列車が目の前を通過する

 一瞬 顔をあわせ そのまま別れ去る

 あのひと達のなかには これから

 楽しい旅へ出かけて行くひともいるのだろ

  う


 旅へ行きたい

 そう思い続けながら

 十年このかた僕は

 旅らしい旅をしていない

 行きたいところは

 たくさん残っているが この先き

 そのうちの幾つ 望みが叶うだろう  


 闇のなかへ消えていく

 赤い小さな列車の後尾燈

 僕も

 ある日

 確実に旅立つ

 帰ることのない旅へ ひとり




  人生


 誰か忘れていったらしい ベンチのうえに

 風がきて本の頁をめくっている

 誰が書いたものやら題もなく

 作者も知れぬ物語を私をひらく


 波止場には三本マストの帆船が碇泊し

 夜は街燈のあかりが霧にぬれる港町

 夢みがちな若ものと 若ものを想う乙女と

 またその乙女を追う町のわるものと


 けれどもそれからどうなるのか

 彼らの恋はどうなったのか

 表紙も終りもちぎれた一冊の本 私は読む

 意味ありげで何でもない 人生の一節を




 山清水


 いちにち山みちを歩き

 歩き疲れて僕の足は重かった

 ふと僕は聴いた ゆくてに微かに

 しかも(あき)らかな水おとを


 近づけば(かけひ)をつたう水おとだった

 筧をながれてかめに溢れ

 誰のこころか ひしゃくも一つ添えてあっ

  た

 その水のあまく冷たくうまかったこと


 越後から会津へぬける裏みち

 木漏れ日と往く雲と風と小鳥と

 おりおり出会うたそまびとと そうして

 新たな力をあたえてくれた山清水と


 この人生の旅に疲れて

 疑いや悲しみにこころの重い日

 僕の耳にひびいてくるあの水おと

 僕のこころをさわやかに洗う あの旅の日

  の山清水



  「ああ、わたしたちの好きなページは、

  わたしたちにいかに大きな生きる力を

  あたえてくれることだろう」


  「詩的言語を詩的に体験し、また根本的  

  確信としてそれをすでに語ることができ

  ているならば、人の生は倍加することに

  なるだろう」





 たくさんの人たちの人生をもっと最高と思えるようなものに変えてさしあげたくて、自分の残り少ない人生の時間をもったいないほど使って、本にするために頑張って投稿をつづけているのですが、もっと読者数を増やして編集者の方の気を引くためにも、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ」の作者名で検索すれば(令和7年7月の時点では)このサイトにはいれますので、お知りあいの方とかに私の作品の存在をおしえていただけたなら、ご協力に心から感謝いたします。

 それと、私の作品の読者層を考えれば、評価ポイントやブックマーク登録がほとんど増えないのは仕方ないとも思いますが、もともと投稿者数の少いと思われるジャンル(その他の、その他かエッセイ)を利用しているので、ポイントが増えるとけっこう簡単に「連載中」の日間とか週間とかの、目につきやすいかなり上位にランクインするみたいで、ログインが面倒ですけれど、もしも送って応援していただけたなら、読者数の増加も期待できますし、ご協力に、さらに、心から感謝いたします。


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