俳句 楽園のリアリズム(パート6・完結ーその3)
最初の一回目は、いくらかおしゃべりをしている序の部分から読んでいただくことになると思いますが、そのあとはどこでも適当なところから好きなだけ、気楽にくりかえし、何度でも読んでいただけたらと思います。俳句のポエジーは一度味わえばそれでおしまいというものではありませんし、そのつどバシュラールのひとつの言葉の助力だけで3句ずつ連続して味わう、読むほどにレベルアップする俳句のポエジーが、本文を開く前に言っていたことと矛盾するようですが、最初はそれなりの詩的な喜びを味わえればそれで十分と思われる方には、かなり短期間で効率的に、後半の第2部に出てくる66篇の詩をほどほどに味わえる程度の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語をそれなりに育成してくれるはずです。66篇の詩をいちおう味わったそのあとも、66篇の詩をふくめた私のすべての作品をくりかえし読んでいただくことと並行して何度も読むことになる3×50の俳句のポエジーが、さらに時間をかけさえすれば、私のほんとうの目的どおり、66篇の詩はもちろん、あらゆる詩や短歌がもたらす喜びを、いつか、極上のものへとレベルアップしてくれるのではないかと期待されます。
詩や短歌を読んでいつでも極上の喜びを味わえるようにすることの人生的なメリットは計り知れない。
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的確信としてそれをすでに語ることができているならば、人の生は倍化することになるだろう」「言語が完全に高貴になったとき、音韻上の現象とロゴスの現象がたがいに調和する、感性の極限点へみちびく」(ガストン・バシュラール)
さて、今回は、これから、世界一の幸福を実現してしまったバシュラールの言葉と世界一理想的な詩型である俳句とのコラボレーションだけで、どれだけポエジーに出会えるか試してみたいと思っている。(俳句で最高のポエジーに出会う手助けをしてもらうために、バシュラールの言葉はここでもすべて、詩や詩人とあるところを俳句とか俳句形式とかに勝手に書き換えて引用させてもらったことをお断りしておきたい)
俳句を読むためのトレーニングをしたことのないひとが、これほどどっさりと俳句を読んで、これほどたっぷりとポエジーの喜びにひたれる機会はそうあるとも思えないから、一句一句を大切に、心をこめて味わっていただきたいなと思う。いくらなんでも多すぎるとお思いの方は、もったいないから、何回かに分けて、じっくりと少しずつ味わっていただきたい。
詩的想像力なんかまだ育っていなくたって大丈夫。俳句形式がその代行をして、ぼくたちみんなに公平に、素晴らしいポエジーをとどけてくれるはずなのだから。
「自我が自信をもってあるがままの自己
を認めるような内在的な調和」
こういった心の調和こそ夢想するための絶対条件だと思うけれど、これから読んでみる150句でポエジーを味わうために欠けたものなど、ぼくたちには、まったくなにもない。
「単純なかたちのイマージュは学殖を必
要としない。イマージュは素朴な意識の
財なのだ」
俳句でポエジーを味わうためには、だれもがおなじものとして共有する「幼少時代」と「世界」の記憶があれば、それだけで十分。
だれもが公平におなじようなポエジーを味わえてしまうはずなのも、俳句のイマージュを作りあげる船や童話や世界地図や図書館そのものの記憶に個人差などというものは考えられないからだった。
「過去にさかのぼれば、さかのぼるほど、
想像力―記憶という心理的混合体は分離
しがたくみえる。もし詩的なるものの実
存主義に参加したければ、想像力と記憶
の結合を強化しなければならない」
「夢想にふける子供は、ひとりぼっちだ、
本当に孤独なのである。かれは夢想の世
界で生きている。この幸福な孤独のなか
で夢想する子供は、宇宙的な夢想、わた
したちを世界に結びつける夢想を知って
いるのである。わたしの意見では、人間
のプシケの中心にとどまっている幼少時
代の核を見つけだせるのは、この宇宙的
な孤独の思い出のなかである。そこでは
想像力と記憶がもっとも密接に結合して
いる」
バシュラールの言葉と俳句形式のおかげで、旅先でみつけた、あるいは、旅先でみつけるのに類似した、かなり良質な詩的想像力を、この本のなかの俳句を読むときにも、次第に、ぼくたちだれもが、自分のもののように利用することができるようになってきたのだった。
そのことが、そのくりかえしが、ぼくたちだれもの内部で、まあ、旅に出た回数や旅の習熟度、あるいは、旅抜きでこの本だけを利用していただいているかどうかとも関係してくるし、いまの段階ではまだ個人差があるのは仕方ないことだけれど、それでも、ゆっくりと、しかし確実に、ぼくたち自身の詩的想像力を育成してくれているはずなのだった。
「読者は想像力をその本質で知る。とい
うのはかれは想像力を、その過度な状態
で、ということは途方もなく異常な存在
のしるしである信じがたいイマージュの
絶対的状態で、知るからである」
おそらくぼくたちの詩的想像力が(まだ十分に育っていない場合は俳句形式がその代行をして)俳句の言葉に触れて呼びさまされた遠い日の記憶を逆にその言葉に注入してそれを宇宙的なイマージュに膨れあがらせ、ついでそんなふうにして作られたイマージュを、いつの間にかぼくたちの心のなかに復活してしまっていた子供のころの宇宙的感受性でもって受けとめることになる……。
もちろん、5・7・5と俳句の言葉をたどるあいだに起こる一瞬の出来事で、実際にぼくたちの心のなかで起こるのはそんなことではないかもしれないけれど、このイメージは悪くないと思う。俳句のイマージュを「心の鏡」みたいなどこかで受けとめるだけでとっくにポエジーに出会ってしまったぼくたちにはどうでもいいことなのだけれど、どうもそんな気がしてならない。
そうなのだ、ぼくたちが愛用してきた「心の鏡」の正体とは、もしかしたら、ぼくたちの幼少時代といっしょに復活してしまった宇宙的感受性のことだったのではないか。
記憶の作用によって宇宙的幸福を体験させてくれるのが詩的想像力や詩的感受性というものだったはずだけれど、ぼくたちがこの本のなかの俳句でポエジーに出会えたそのときには、俳句の言葉をイマージュに変換したのは詩的想像力だったとしても、じつは、それを受けとめてくれていたのはいつの間にか復活してしまっていた宇宙的感受性だったのだ、と、そう考えると、俳句による「言葉の夢想」のメカニズムがよく理解できるような気がする。つまり、そう、ふつうの詩や短歌で詩的な喜びを感じとるのは詩的感受性なのかもしれないけれど、俳句の宇宙的イマージュを受けとめてくれていたのは、もしかしたら、いつの間にか復活してしまっていた宇宙的感受性だったのかもしれない。
「おそらく、イマージュの幸福な継起に
したがって流れるか、あるいはイマージ
ュの中心にあってイマージュが光るのを
感じるか、二通りの夢想が可能ではある
まいか」
ほんとうのところ、詩的想像力と詩的感受性。それと、宇宙的想像力と宇宙的感受性の関係がいまだぼくにはよく分からないのだけれど、まあ、メカニズムの内部構造を知ることなんてどうでもいいのであって、これから読んでみる150句の俳句のイマージュやポエジーが、そうした俳句による「言葉の夢想」のメカニズムみたいなものの存在を、素晴らしく実感させてくれることになりそうだ。
旅から帰ってきたときはなにもしないで旅情の快い余韻だけにひたっていたくなるものだから実際にはむずかしいとは思うけれど、150句をとりあげたこの箇所が分かるように特別な付せんかなにかをつけておいて、とにかく、何度でも、旅から帰ってきた夜にはできたらこれら150句のどのページでもいいからランダムに開いてほんの少しでもとりあえず読んでみることが、かなり、有効になってきそうだ。
その日に旅先で思い出したばかりの幼少時代を、俳句作品が、一句ごとにそのつどもう一度思い出させてくれるだろうし、その日に過去の証拠品としての風景や事物を旅先でいくつも発見したばかりの詩的想像力を、俳句形式が、上手にもう一度再利用してくれるだろうし、そうして、きっと、その日に旅先で復活したばかりの宇宙的感受性が俳句のイマージュをしっかりと受けとめてくれるだろうから。
そうして、なによりも、このなかのいくつもの(いま数えたら55あった)バシュラールの言葉が、旅や俳句のおかげで、ほんとうの意味で最高に生かされていることを、出会うことのできたポエジーのレベルが上がるほどに、ぼくたちはうれしく実感することになるだろう。
ことにも、何度も旅に出て「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させては幼少時代の記憶と詩的想像力を同時にみつけだし、ついで、幼少時代の宇宙的想像力や宇宙的感受性まで復活させてきた方が、部屋のなかで、この本のなかで、俳句を読んで、極上のポエジーに出会えないはずはないのだ。
☆
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は、俳句の言葉が、真実のイマージュが
あればいい。幼少時代がなければ真実の
宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ
エジーはない。俳句はわたしたちに幼少
時代の宇宙性をめざめさせる」
大串章。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品がめざめさせてくれる、ぼくたちの幼少時代の、あの、広大な宇宙性とは……
春の船母の童話のやうに来る
夏至の夜の壁に大きな世界地図
図書館は大緑蔭の中にあり
「花を前に、または果実を前に、俳句は
ある幸福の誕生にわたしたちを立ちあわ
せる。まさに俳句の読者は<永遠なる幼
少時代の幸福>をそこに発見するのである」
中村汀女。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品が発見させてくれる<永遠なる幼少時代の幸福>とは……
たんぽぽや日はいつまでも大空に
夕焼けて街燈光り得つつあり
沈丁花あちこちにあり夕まぐれ
「俳句のひとつの詩的情景ごとに幸福の
ひとつのタイプが対応する」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品が立ちあわせてくれる、ひとつの幸福の誕生とは……
窓一つ灯れる春の夕かな
一つづつ春の灯ともり来たりけり
春の灯のまたゝき合ひてつきしかな
「俳句がわれわれに差し出す新しいイマ
ージュを前にしたときの、この歓び……」
瀧春一。5・7・5と言葉をたどって受けとる、俳句作品によるイマージュの贈物とは……
緑蔭やジャムを煮る香のレストラン
坂上の白き僧院夏雲湧く
みづうみの埠頭五月の花時計
「ああ、わたしの前にあたえられたこの
イマージュが、わたしのものとなるよう
に、正真正銘わたしのものとなってくれ
るように、とわたしは願う。わたしの前
のイマージュがわたしの作ったものにな
るように、これは読む者の自尊心の最高
のありかたではないか」
上田五千石。5・7・5と言葉をたどっただけで、つぎの俳句のイマージュは、ほんとうの意味でぼくたちの作ったものとなってくれるだろうか……
ゆびさして寒星一つづつ生かす
炎天に出づ名曲に潤いて
木の実降る石の円卓石の椅子
「イマージュは、現前したし、わたした
ちのなかにありありと出現した。それは、
俳人のたましいのなかでそれを生みだす
ことを可能にした一切の過去から切り離
されて現前したのである」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけでありありと出現するイマージュたちの、たとえようのないその魅力とは……
ふりいでし雨ぬれそめし落葉かな
窓々の灯のおちつきのすでに冬
浅草も隅田公園ちかき雪
「俳句作品を読めば読むほど、わたした
ちは思い出の夢想のなかに慰めと安らぎ
をみいだすのではあるまいか」
大串章。若い方にとっては自分自身のものとはいえない、映画とかで体験した思い出だってかまわない。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句品がよみがえらせてくれる、ぼくたちだれもがほとんどおなじものとして共有している、遠い日の記憶とは……
風呂焚く母枯木折る音懐かしや
雪の夜の箪笥の上の常備薬
春雪のあとの夕日を豆腐売
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福はぼくたち俳句の読者の幸福となるで
あろう」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品がよみがえらせてくれる、時間の彼方、遠い日の夢想の幸福とは……
雲一つなくてまばゆき雪解かな
くもることわすれし空のひばりかな
石よけて水あたゝかに流れけり
「わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大
さはわたしたちの内面に残されている。
それは孤独な夢想のなかにまた出現する」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品がよみがえらせてくれる、時間の彼方、あの、宇宙的な広大さとは……
海をみて佇てば海より秋の風
秋風や水に落ちたる空のいろ
瀬の音の秋おのづからたかきかな
「思い出しながら想像する夢想のなかで、
わたしたちの過去は再び実体を発見する
のである。絵画的なものをこえ、人間の
たましいと世界との結びつきが強固にな
る。そのときわたしたちのなかでは歴史
の記憶ではなく宇宙の記憶が甦る」
岡本差知子。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品がよみがえらせてくれる、はるか時間の彼方、遠い日の宇宙の記憶……
春の闇ふれてもみたき星とゐる
ひとの掌の貝殻ひかり海光り
雪のちる闇ありゆあみせる窓に
「夢想家は、限界も制限もないその夢想
のなかで、かれを魅了した宇宙的イマー
ジュに身も心もまかせきっている。夢想
家は世界のなかにおり、かれにはそれを
疑うことはできないであろう。唯一の宇
宙的イマージュがかれに夢想の統一性、
世界の統一性をあたえる。単独のイマー
ジュからひとつの宇宙が生まれることが
ある」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけで生まれる、どこかなつかしい、ひとつの宇宙とは……
また道の芒のなかとなりしかな
すゝき野の銀一色に刷かれけり
芒淋し傘さすほどの雨となり
「夢想にふける子供は、ひとりぼっちだ、
本当に孤独なのである。かれは夢想の世
界で界で生きている。この幸福な孤独の
なかで夢想する子供は、宇宙的な夢想、
わたしたち世界に結びつける夢想を知っ
ているのである」
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす」
山口誓子。一句一句の俳句がもたらす、子供のころの、あの、宇宙的幸福とは。
沈黙に縁どられたたった一行の俳句作品を前にするとき、子供のころのようなこの幸福な孤独のなかで、宇宙的な夢想、ぼくたちを世界に結びつける夢想が再開される……
かたまりて駅をなす燈の秋の暮
踏切の燈にあつまれる秋の雨
水深き野川に沿うて秋の暮
「わたしはプシシスムを真に汎美的なも
のにしたいと思い、こうして俳句作品を
読むことを通じて、自分が美しい生に浴
していると実感することができたのである」
高浜虚子。5・7・5と言葉をたどっただけで浴することのできる、美しい生とは……
夕立や森を出て来る馬車一つ
囀や絶えず二三羽こぼれ飛び
避暑宿に日々に親しや天の川
「わたしたちの幸福には全世界が貢献す
るようになる。あらゆるものが夢想によ
り、夢想のなかで美しくなるのである」
久保田万太郎。ぼくたちを幸福にするために、俳句作品のなかでは、夢想によってあらゆるものが美しくなる……
はや夏に入りたる波の高さかな
やすみなく風ふく夏に入りにけり
青芝やどこに佇ちても水の音
「ひとつの世界をつくるために万物が一
致協力する俳句の宇宙論」
日野草城。ぼくたちを幸福にするために万物が一致協力する、この世の《美》の充満した、一句一句の「ひとつの世界」とは……
雪の窓メロンの緑レモンの黄
ルノアール赤くゆたかに若葉雨
焼き立ての麵麭をかゝへて秋ふかき
中村汀女。俳句作品によるイマージュの贈物。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品が、はるか時間の彼方、宇宙的な、遠い日の夢想の幸福をそっくりそのまま追体験させてくれる……
コスモスや鉄条網に雨が降る
噴水のましろにのぼる夜霧かな
夜霧とも木犀の香の行方とも
青柳志解樹。5・7・5と言葉をたどって受けとる夢想の幸福、その宇宙的で甘美な〈諧調〉のようなもの。
《俳句作品のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……
鰯雲聖女二人がうつむき来る
秋風を聴く野仏も野の石も
夕紅葉しだいに遠き山羊の声
「詩人がひとたび対象を選ぶや、対象そ
のものが存在を変化する。対象は詩的な
ものに昇格するのである」
大串章。俳句作品にとり込まれただけで、詩的なものに昇格した対象とは……
鰯雲画布に時間の溜まりゆく
霧に点す駅旅人は夜着くべし
絵葉書の消印は流氷の町
「俳句の視覚的イマージュはきわめて鮮
明であり明であり、人生を要約した画面
をごく自然に形成するので、容易に幼少
時代の思い出をうかびださせる特権があ
たえられている」
岡本差知子。そうなのだ。人生を要約した詩的情景をごく自然に形成する俳句のあらゆる視覚的イマージュには、すでに、容易に幼少時代の思い出をうかびださせる特権があたえられていたのだ……
風船をもつ子にながい汽車がゆく
雨の銀受けてこぼして紫木蓮
霧雨をそめてミモザの黄の夜明け
「わたしたちはイマージュ、いまや思い
出よりも自由なイマージュに直面している」
「想像する意識はその対象を絶対的な直
接性において捉える」
大串章。5・7・5と言葉をたどって受けとる、イマージュの絶対的な直接性とは……
鶏頭に止まざる雨となりて降る
青嶺あり青嶺をめざす道があり
白鳥に会ひし便りを駅で書く
「読者は想像力をその本質で知る。とい
うのはかれは想像力を、その過度な状態
で、ということは途方もなく異常な存在
であるイマージュの絶対的状態で、知る
からである」
久保田万太郎。一句一句の俳句の詩的情景が教えてくれる、詩的想像力の本質。その過度な状態とは……
春浅し水のほとりの常夜燈
春の灯の水にしづめり一つづつ
春水にうつりて淋しビルディング
「われわれは断片を通してしか詩の衝撃
を受け入れることができないのである。
断片だけがわれわれに見合っている」
高野素十。たった2、3の「世界」の断片だけで成りたつ俳句こそ、まさに、ぼくたちにいちばん見合った詩型。俳句作品という一行のイマージュの宝石箱があたえてくれる、夢想することの幸せとは……
残雪に朝朝雪の少しづつ
春水に沿うて下れば石切場
真白に行手うづめて山辛夷
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない」
久保田万太郎。ぼくたちのたましいのなかの湖面のようなどこかで受けとめられたイマージュたちの、だれもがひとしく賞讃しないではいられなくなるたとえようのないその魅力とは。ぼくたちが愛用してきた「心の鏡」の正体とは、もしかしたら、子供のころに〈イマージュとしての事物〉を直接受けとめていた、復活した宇宙的感受性のことだったのかもしれない……
あかつきの雨ふるなかや鶏頭花
秋晴やバスをまつ間の海の色
このみちのこのしづけさに出でし月
「いっさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生きる」
中島斌雄。俳句作品において言葉の意味は、イマージュを浮き彫りにするとそのなかに完全に融けこんでしまう。5・7・5と言葉をたどってイマージュを受けとるだけでぼくたちの心を満たす、甘美な〈諧調〉のようなもの。俳句のひとつの詩的情景は幸福のひとつのタイプに対応しているはずなのだった……
一輪の秋の薔薇と階のぼる
栗拾ふをとめの声の妻の声
縫う妻にふときびしさや秋の夜
「イマージュの美しさはイマージュの効
果を増強する。詩人はイマージュの有効
性に全身全霊をあたえることをいとわない」
久保田万太郎。一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式は、イマージュの有効性に全身全霊をあたえることをいとわない……
神田川祭の中をながれけり
いつまでも日の暮れてこぬ夜店かな
東京へこの道つゞく夏木立
「俳句によって創り出されたこの世界を
前に、恍惚として見とれている意識はじ
つにすなおにその扉をひらく」
上田五千石。俳句一句を前にしただけで開かれる、宇宙的なたましいの扉。それと同時にあらわになる、あの、宇宙的感受性……
遠浅の水清ければ桜貝
新月や草の匂ひの水走り
採りつくしたる林檎園雪嬉々と
「たましいを総動員してイマージュの中
心を捉えなければならない。あまりにも
細々と記録された周囲の状況は、かえっ
て思い出の奥深くにあるものを裏切るで
あろう。そういうものは静謐な思い出を
そこなう饒舌な注釈のごときものにすぎ
ない」
清崎敏郎。たましいを総動員してイマージュの中心を捉えなければならない! どのような詩にもまして寡黙な、沈黙に縁どられたたった一行の俳句作品が呼びさましてくれる、記憶の彼方、静謐な遠い日の思い出とは……
西日さすテラス人なき椅子並び
滴りて水の面をふるはする
白樺に夏も終りの雨斜め
「宇宙的な語、人間存在にものの存在を
あたえる語がある。だからこそ詩人は『
宇宙を閉じこめるためには文章のなかよ
りも一語のなかの方が容易である』とい
うことができた。語は夢想により、無限
なものになりかわり、最初の貧弱な限定
を棄ててしまう」
中島斌雄。5・7・5とたどっただけであらわになる、ひとつひとつの言葉の、その宇宙的な無限性とは……
空の蒼冬の鉄路にひた澄めり
多摩近く星多きわが露台かな
キャムプの火燃えて夜となる湖畔かな
「プルーストは思い出すためにマドレー
ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思
いがけない俳句の言葉だけでも同じ力が
発揮される」
久保田万太郎。5・7・5とたどっただけで俳句の言葉がよみがえらせてくれる、はるか時間の彼方、遠い日の宇宙の記憶とは……
寒き雨枝より枝をつたひけり
寒き灯のすでに行くてにともりたる
暮るゝころ雪まじへしが寒の雨
「わたしたちが選びあつめる俳句作品は、
わたしたちの幼少時代の夢想と同一の夢
幻状態へと導いていく」
中村汀女。5・7・5と言葉をたどっただけでいやでも導かれることになる、幼少時代の夢想と同一の夢幻状態とは……
人形の窓辺の髪に秋の風
地階の灯春の雪ふる樹のもとに
外にも出よふるるばかりに春の月
「わたしたちは、自分たちの幼少時代に
溯る愛や愛着をそこにおかずには、水も
火も樹も愛することはできない。わたし
たちは幼少時代によってそれらを愛する
のである。世界のこういう美のすべてを、
いまわたしたちが俳句作品のなかで愛す
るとすれば、甦った幼少時代、わたした
ちのだれもが潜在的にもつあの幼少時代
から発して復活された幼少時代のなかで、
愛しているのである」
青柳志解樹。俳句一句を読んだだけでめざめる、だれもがひとしく幼少時代に体験したはずの、あの、美しい世界への愛とは……
雀らをこぼして梢春めきぬ
闇にほふ木々あきらかに芽吹きそめ
咲満ちて虹の雨降る桃の村
「幼少時代へ向う夢想は最初のイマージ
ュの美しさをわたしたちに取り戻してく
れる。世界は今もなお同じように美しい
だろうか」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけであらわになる、最初のイマージュの美しさ、すなわち、幼少時代という〈イマージュの楽園〉の事物たちの美しさとは……
屋根赤きわが家のみえてみぞれかな
水にまだあをぞらのこるしぐれかな
冬の灯のいきなりつきしあかるさよ
「イマージュの閃光によって、遠い過去
がこだまとなってひびきわたる」
岡本差知子。ポエジーのこだまとなってひびきわたる、はるか時間の彼方、遠い過去の「世界」の記憶とは……
二階から海少し見え夏立ちぬ
揺り椅子の窓ひろびろと合歓の花
木の実落ち仰げば白い白い雲
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどってイマージュを受けとるだけで、たましいの奥底に流れ出す限りなく快い〈幻想の聖歌〉とは……
暮れゆくや浮かびて遠き春の雲
音立てゝ雨ふりいづる春夜かな
春の夜やおもひかけぬ木のかをり
「わたしたちを幼少時代につれもどす夢
想がなぜあれほど魅惑的で、あれほどた
ましいにとって価値あるものとみえるのか」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけであらわになるイマージュたちの、たとえようのないその素晴らしい魅力とは……
公園の中バスの行く若葉かな
横町のそのまた露地や天の川
停車場の灯のあかるくて秋近し
「わたしの夢想をみている幸せな人間、
それはわたしである。また思考するとい
う義務などもはやなく閑暇を楽しんでい
るのはわたしだ」
中村汀女。5・7・5と言葉をたどっただけでぼくたちのたましいを満たす、どこかなつかしくて甘美な、言葉で夢想することの幸せとは……
傘させば銀座の春の雨強し
霧の夜を連絡船は待ってゐし
横浜に住みなれ夜ごと夜霧かな
「イマージュがわたしたちの気に入るの
は、あらゆる責任とは無縁の、夢想の絶
対的自由の状態で、わたしたちが創造し
たからである」
上村占魚。この、いま、夢想の絶対的自由の状態で、俳句作品の言葉を媒介にして、ぼくたちが創造するイマージュたちがもたらす、限りなく甘美な〈諧調〉のようなもの……
夏めきし港にまがる甃
ちらほらと村あり紅葉いそぐなり
枯桑の道どこからも赤城見ゆ
「夢想するわたしを魅惑し、また俳句が
わたしたちに分かちあたえることができ
るもの、それがこのわたしのものたる非
―我である。世界のなかに存在している
わたしの信頼感をわたしに体験すること
を許すもの、それがこのわたしのものた
る非―我である」
山口誓子。一句一句の非―我がめざめさせてくれる、この美しい世界のなかに存在していることへの信頼感とは……
アカシヤの花落ちて寄る水のへり
とぶ翅に碧ちらつかす揚羽蝶
草茂る劇場跡の段に坐す
「非―我が夢想する自我を魅了する。俳
句のイマージュを、読者がまったく自己
のものと感じることができるのは、その
ようなわれわれのうちなる非―我の作用
なのである」
青柳志解樹。5・7・5と言葉をたどっただけでぼくたちを魅了する、ぼくたちのうちなる非―我の作用とは……
牛繋ぐ白樺新樹幹擦れて
太陽は西方に炎え百日紅
シャツ懸けしまま夕暮の夏木立
「俳句を文字どおりとらえ、俳句形式と
ともに夢想し、俳句作品が述べることを
信じ、対象の影響下に、つまり世界のひ
とつの果実、あるいは世界の一本の花の
影響下に世界をおくことによって、俳句
作品がわたしたちに提供する世界のなか
に生きることは、なんとよろこばしいこ
とだろう」
久保田万太郎。俳句作品がぼくたちに提供する世界のなかに生きることの、この歓び……
ぬかあめに百合かたまりて濡るゝかな
大学のなかのあぢさゐ咲けるみち
道愉ししきりに菊の咲きあふれ
「俳句作品を読むことにより、夢想によ
りイマージュの実在性が再現されてくる
ため、わたしたちは読書のユートピアに
遊ぶ気がするだろう。わたしたちは絶対
的な価値として俳句を扱う」
山口誓子。5・7・5と言葉をたどっただけでありありと出現してしまう、この世のユートピアとは……
つきぬけて天上の紺曼珠沙華
海の上にのこりて暮るる鰯雲
遠き燈のまづ見えそむる秋の暮
「ここで読者は、宇宙化するわたしの領
域に入る。わたしたちは、俳句のおかげ
で、自らの内と外で、ひとつの起源のダ
イナミックな力をふたたび体験するので
ある。ひとつの存在の現象が夢想の奥底
で、わたしの眼前に生起し、そして俳句
のイマージュを受け入れる読者を、光で
みたすのである」
「もし哲学者たちが俳句を読むことがあ
れば、世界開示という哲学的命題にも生
きた実例がたくさんあたえられることに
なるだろう」
「哲学者たちがいうあの世界の開示とは、
要するに最初の夢想の魅惑的な世界の再
開示のことではあるまいか」
上村占魚。5・7・5と言葉をたどっただけであらわになる、再開示された魅惑的な最初の夢想の世界とは……
青みたる木の芽を映し水流る
つばめ来て青空たかき軒端かな
燈を消して障子にはかに雪明かり
「子供のすべての夢はポエジーの飛翔を
十分におこなうようにもう一度みなおさ
れるべきである」
「夢想のなかでは子供はポエジーの一元
性を実現する」
「詩的イマージュの水位では、主体と客
体の二元性は虹色にきらめき、眩しくひ
かり、たえず活発に反転している」
大串章。俳句作品が浮き彫りにするイマージュたちの、その虹色のきらめきとは……
ピアノ音蝶が木の間を行く迅さ
藻に触れてゆく水が見え朝涼し
閉じてなほ優し月下の楽器店
「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が
覚醒し、調和する。この五感のポリフォ
ニィーこそ、詩的夢想が聴き、また詩の
意識が書きとるべきものである」
清崎敏郎。五感のポリフォニィーとなって反響する、遠い過去の記憶とは……
音たててビーチパラソルはためける
雨降れり鬼灯市の鬼灯に
更けて来し山の匂ひや籐椅子に
「イマージュの世界そのもののなかに住
むという幸福を、全宇宙のなかに浸みわ
たらせる」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけで開示される、幼少時代という〈イマージュの楽園〉そのまままの世界とは……
いつ冬に入りし芒のそよぎかな
シクラメン雪の窓べにしづかなり
冬の夜の灯のなまめきて来たりけり
「夢想はたましいの世界をあたえる。俳
句のイマージュとはたましいがそれみず
からの世界を発見したことの証言であり、
たましいがそこで生きたいと願い、たま
しいが住むにふさわしい世界の発見の証
言である」
清崎敏郎。5・7・5と言葉をたどっただけであらわになる、ぼくたちのたましいがそこで生きたいと願わないではいられなくなるような、発見されたひとつの世界とは……
秋の雲頭上に高く沖になし
秋の風水の面にふれにけり
更けてきし燈が山霧ににじむなり
《俳句とは、まさに、一行の隙間から、幼少時代の色彩で彩られた世界を垣間見ることのできる、この世にまれな魔法の装置》
山口誓子。俳句作品の一行の隙間から垣間見る、人生の黄金時代、すなわち遠い日の<イマージュの楽園>とは……
揚羽蝶背を強き日に照らされし
濡れテーブル海水浴の雨過ぎて
夕焼の方へ線路のやゝ曲る
「俳句作品が世界の美しいイマージュを
革新しながら夢想家を援助するとき、夢
想家は宇宙的な健全さに近づいているの
である」
清崎敏郎。一句一句の俳句作品に援助されてぼくたちのたましいが獲得することになる、この、宇宙的な健全さとは……
緑陰をなしたる一樹一樹かな
緑陰の及んでをりし水の上
瞑りて緑陰膚にしむ思ひ
青柳志解樹が中身をこさえた一行のイマージュの宝石箱。
《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句作品が、遠い日の宇宙的幸福をぼくたちだれもに例外なく追体験させてくれる……
満開の辛夷につのる山の風
桃咲いてをさなき川が村の中
村祭夕日の中の葱坊主
「俳句作品を読むことによって、しばし
ばたった一句の俳句のイマージュの助け
によって、わたしたちの内部に、もうひ
とつの幼少時代の状態、わたしたちの幼
い頃の思い出よりももっと昔へと溯る幼
少時代のある状態を甦らせることが可能
になるだろう」
久保田万太郎。5・7・5と言葉をたどっただけで俳句作品がよみがえらせてくれる、もうひとつの幼少時代、すなわち、この世の夢の楽園とは……
眠りたる間に風いでし五月かな
八月の夜の雲池にうつりけり
人知れずふけて涼しき灯なりけり
「子供は孤独な状態で夢想に意のままに
ふけるようになるや、夢想の幸福を知る
のであり、のちにその幸福はぼくたち俳
句の読者の幸福となるであろう」
「最初の幸福にたいし感謝をささげなが
ら、わたしはそれをふたたびくりかえし
てみたいのである」
3×50というふうに一挙に読んでしまう方もなかにはいるかもしれかせんが、3×15とか3×23とか少しずつ楽しんでいただけたらと思っています。
実は俳句のポエジーだけを連続して味わえる貴重な作品はまだほかにもあって(パート9・全)では75句、(パート11・全)では61句、最後の(パート13・全)では68句を、やはり余計なおしゃべりなしで、これらは2、3のバシュラールの言葉の手助けによって、3句ずつともかぎりませんが、序にあたる部分とおしまいに読む詩作品以外は、俳句だけを連続して味わうことになりますので、おおいに活用していただきたいと思っています。ふつうの詩も味わいながら、第2部の作品でも、まだまだご自分の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を養うことは可能なのです。
ただ、それらは詩を味わうための下準備ができてから読むのが好ましい第2部に属しているので、第1部ひとつだけの、集中的に詩的能力を鍛えられる本作の意味と価値は際だってくると考えます。




