表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

俳句 楽園のリアリズム(パート6-その2)

 意味作用にたいする隷属から解放された俳句の言葉だけが「イマージュをたのしみ、イマージュをそれ自体として愛する」という理想的な書かれた言葉の夢想を、もっとも理想的なかたちで私たちに体験させてくれるのだ。そのことのくりかえしが、意味作用に満ち満ちた、ふつうの詩や短歌を味わうために必要な言葉の夢幻的感受性、すなわち、私たち自身の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を育成してくれることにつながるのだ。

 次回はいよいよバシュラールの言葉の手助けだけによって、3句ずつ全部で150句の俳句作品で、書かれた言葉の夢想を、くりかえし何度でも堪能できるようになるので、楽しみにしていただけたらと思います。

 



 バシュラールの夢想の幸福のもうひとつの秘密、それはたぶん、底抜けの夢想のオプティミズムといったものだと思う。

 夢想とは本来、自由で、だれにでもできる最高に気楽な行為なのだと教えてくれて、しかも、人生最高の喜びを体験させてくれるバシュラールって、ほんとうにすごいし、最高に素晴らしい。

 

  「夢想のなかでは(ノン)はもはや機能しない。

  すべてが大歓迎なのである」


  「心理学者は、夢想が夢想家のまわりに

  甘美なきずなをはりめぐらすこと、夢想

  とは<なにとでもこころよくつきあう>性

  質であること、要するに夢想が、ポエジ

  ーということばの全力を駆使して、夢想

  家を<ポエジー化する>事情をしらないの

  である」


  「夢想は現実の状態なのであった。その

  あとで幻想だと通告されようとも一向に

  かまわない。しかしわたしは自分が夢想

  家だったことを確信している。わたしの

  夢想にこうした美しいものが現前してい

  たとき、わたしはそこに存在したのであ

  る。これらの幻想は美しかった、それゆ

  え恩恵をあたえたのだ」


  「わたしは、自分が公平であって、どん

  な個人的えり好みにも左右されることな

  く、何もかも受容できるような気がして

  くるのだった」


  「ドラマそのものを支配することばの幸

  福をとらえるには、詩人の苦悩を体験す

  ることはいらない。詩はたとえいかなる

  ドラマをしめさなければならぬとしても

  詩に固有の幸福をもつ」


  「読書は心的作用の現代的なひとつの次

  元である。文字(エクリチュール)によってすでに転移され

  た心的現象を転移させる次元である。書

  きしるされた言語は特殊な心的作用の現

  実とみなさなければならない」


  「したがってわたしたちには詩作品を実

  際に有効な人間的現実とみなす権利があ

  る」


  「想像的なものの同質性は時代を越える

  のであり、それはわたしにとって、想像

  的なものが人間性の本質に基づくことの

  証拠となるのである」


  「ポエジーは世界の美を継承し世界を美

  化する。わたしたちは詩人の歌を聞きな

  がら、このための証拠をつかもう」


  「わたしたちの幸福には全世界が貢献す

  るようになる。あらゆるものが夢想によ

  り、夢想のなかで美しくなるのである」


  「比較の水準に平板化してはならない」


  「孤独な子供がイマージュのなかに住む

  ようにわたしたちが世界に住めばそれだ

  け楽しく世界に住むことになる」


  「夢みることでしあわせであり、おのれ

  の夢想のなかで活気づいているような夢

  みる存在とは、存在のひとつの真理を、

  人間のひとつの未来をにぎるものなので

  ある」


  「ポエジーが人間の生活にとって一種の

  総合力であるということをわたしは証明

  したくてたまらないのだ」


  「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が

  覚醒し、調和する。この五感のポリフォ

  ニィ(多声音楽という意味)こそ、詩的

  夢想が聴き、また詩の意識が書きとるべ

  きものである」


  「詩人が世界の美しいイマージュを革新

  しながら夢想家を援助するとき、夢想家

  は宇宙的な健全さに近づいているのであ

  る」


  「作品を読むことにより、夢想によりイ

  マージュの実在性が再現されてくるため、

  わたしたちは読書のユートピアに遊ぶ気

  がするだろう。わたしたちは絶対的な価

  値として文学を扱う」

  

 夢想することの本質をだれよりも深く理解していたからこそこんなふうに言えたのだと思うけれど、素朴なあこがれのようなポエジーへの欲求とこんな気楽なオプティミズムでもって、詩を読むだけで、いつでも、だれよりも深く、ゆたかに夢想することのできたバシュラールが、人類史上最高の幸福を実現してしまったのもあたりまえかもしれない。


  「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が

  覚醒し、調和する。この五感のポリフォ

  ニィこそ、詩的夢想が聴き、また詩の意

  識が書きとるべきものである」


  「言語が完全に高貴になったとき、音韻

  上の現象とロゴスの現象がたがいに調和

  する、感性の極限点へみちびく」


「ポエジー、美的なあらゆる歓喜の絶頂」という言葉もこれから味わうことになるポエジーという喜び=快楽の大きさ、深さ、ゆたかさを期待させてくれたものだけれど「五感のポリフォニィ」とか「感性の極限点」とかいったこうした言葉もすごいと思う。俳句や詩を読んで味わうポエジーがこんなレベルに達してしまったら、ぼくたちだれもがとてつもない人生を手に入れることにりそう。

 ほんとうに、バシュラールが指し示してくれている幸福ときたら、あまりにも途方もなくて、やっぱり、ぼくたちが一生かけても到達できそうもないほどにも無限大に開かれている、としか言いようがない。

 つまり、そう、あんまり欲張らないほどほどの「途中」だろうと、どの段階をとってみても、旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、ぼくたちの感性が少しずつ変革されてこの人生がまったく未知の領域にはいりこんでいくことになるのだから、その時点で、人生って最高といつでもそう感じられるような、そんな素晴らしい人生をだれもが手に入れることになるのは、やっぱり、確実なこととして約束されていることになるだろう。


  「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代

  の思い出は、まちがいなくたましいの奥

  底での〈幻想の聖歌〉なのである」


 バシュラールの言葉の多くが実感をともなってよく理解できるようになってきたとしたら、それは、なによりも旅先で味わうことのできた旅情と、そうして、その旅情がもたらしてくれたともいえるこの本のなかの一句一句の俳句のポエジーのおかげ。

 まあいまさら旅になんか出なくたって、過去の旅の記憶を生かしてそれなりのポエジーを味わえるようになった方も少なくはないと思うけれど、いまなら、バシュラールの言葉が、ぼくたちがポエジーに出会うために有効な最高に理想的な手助けをしてくれて、そうして、味わうことのできた俳句のポエジーが、こんどは逆に、バシュラールの言葉に生命を吹きこんでくれているのがよく分かるはず。

 そのことを、利用させてもらったバシュラールのいくつかの言葉とつぎの青柳志解樹の俳句作品とでもって、この際、確認してみるのも悪くないかもしれない。2、3句ずつ読んでいく俳句のポエジーを味わった直後に手助けしてもらったバシュラールの文章をそのつどもう一度読みなおしてみれば、そのことをどなたにも素晴らしく実感していただけるのではないかと思う。


  「俳句作品を読むことにより、夢想によ

  りイマージュの実在性が再現されてくる

  ため、わたしたちは読書のユートピアに

  遊ぶ気がするだろう。わたしたちは絶対

  的な価値として俳句を扱う……



  山茶花(さざんか)は誰も通らぬみちに散る


  極寒の星のこぼれて屋根の石


  明けそめてきし大寒の雑木山



  「わたしたちの幸福には全世界が貢献す

  るようになる。あらゆるものが夢想によ

  り、夢想のなかで美しくなるのである……



  大寒の光みなぎり辛夷(こぶし)の芽


  木枯のつぎつぎに抜け朱の鳥居



  「孤独な子供がイマージュのなかに住む

  ようにわたしたちが世界に住めばそれだ

  け楽しく世界に住むことになる……



  雪散らすことをたのしむ山の(とり)


  回転木馬まはれば冬木ひかりだす


    

  「想像する意識はその対象を絶対的な直

  接性において捉える……



  (われ)よりも影いきいきと冬陽の坂


  しばらくは冬の泉に身をうつす



  「詩的夢想はそれがおもむいていく対象

  の前ではつねに新しい……



  行く年のひかりを引けり千曲川


  初雪の信濃に覚めて顔洗ふ



  「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が

  覚醒し、調和する。この五感のポリフォ

  ニィこそ、詩的夢想が聴き、また詩の意

  識が書きとるべきものである……



  満目を雪が降るなり無音なり


  しぐるるや煮しめの匂ふ曲り角

 

  焚火(たきび)してうるはしき香を身にまとふ



 それにしても、人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの言葉だけに、バシュラールの残してくれた言葉は、どれをとってもほんとうに素晴らしい。この本で利用させてもらっているものだけでも、その教えを100%実現させてしまったりしたら、やっぱり、通常の100倍は幸福な人生が実現してしまうことになるだろう。まあ、そんな大それたことを望まなくたって、ほどほどの「途中」だろうと、ぼくたちにはそれで十分すぎるほど。旅と俳句で、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、5倍程度の幸福を手に入れることなんて、きっと、わけないこと。


  「人間は、もはや夢想することができな

  いので、考えるのだ」


 これなんか、一般的な思考と夢想の価値観を逆転させた言葉といえるだろう。

 ぼくたちにとってのバシュラールは『夢想の詩学』を書いた最晩年の到達点にいるバシュラールだけで十分だけれど、いっぽうで彼は科学哲学者でもあって、そうした系列の著作も生涯にわたって書きつづけていたみたいだ。  

 科学的な客観的認識の障害となる人間の主観性の考察をしたりしているうちに、逆に、人間の主観性と切り離せない想像力というものの豊かさに心を奪われてしまって、想像力の研究も始めることになったということらしい。たっぷりと昼の時間を思考にさいたバシュラールだからこそ、だれよりも夜の夢想の時間を愛すことができたのだろう。


  「わたしの夢想をみている幸せな人間、

  それはわたしである。また思考するとい

  う義務などもはやなく閑暇を楽しんでい

  るのはわたしだ」


 さて、バシュラールの夢想のオプティミズムに学ぶとしたら、「比較の水準に平板化してはならない」という言葉などうってつけといえる。相対的な評価なんて、ぼくたちにしたってどうだっていい。大切なのは、目の前の作品が、ぼくたちの人生にどれほどのポエジーの贈物をとどけてくれるか、ただそれだけ。

 それが、ただそれだけが、作品の、ぼくたちの人生における絶対的な価値というものだ。

 たとえば、大井雅人の句集に、無名な人の句がまぎれこんでいたとしても、さすがに大井雅人の俳句は素晴らしい、なんてぼくは言ってしまいそうな気がする。俳句がイマージュで出来あがっている以上、ポエジー・ゼロの作品などあるはずがない。それなのにどうして名のある人のものしか読まないかというと、たしかに意地悪な気持で読んでみればぼくのようなシロウトにも違いは明らかに見えてくるものだし、俳句や短歌はそれほど実力があるとはいえないような無名の作者がやたらと多いということもあって、名前を知らない人のものを前にすると、どうしても、どうせたいしたことないんだろうという気持が起こってしまって、それが、ぼく自身とてもいやだからなのだ。

 俳句に作者はいらないという考えと矛盾するようだけれど、作者への大きな信頼と感謝がなくては、ポエジーの贈物を受けとることなどできない、というのもまた真実だから。


  「夢想のなかでは(ノン)はもはや機能しない。

  すべてが大歓迎なのである」

  

  「新しい本はいかほどすばらしい恩恵を

  わたしたちにもたらすことか。若々しい

  イマージュを歌う本が籠一杯空から毎日

  ふってきてほしいものだ。こういう願い

  は自然である。この奇蹟は容易であろう。

  なぜというに、かなた、空の上にある楽

  園は無尽蔵の図書館ではないだろうか、

  と思われるからである」


 とにかくたんなる読者で、作品の評価なんてどうだっていいと思っていられるのは、ほんとうに幸せなこと。作品を比較の水準に平板化する必要なんて、まったくないのだから。

 俳句にしろ短歌にしろふつうの詩にしろ、評価の定まった有名な作者の作品だけを、ぼくたちの人生への素晴らしい贈物として、感謝をこめて、安心して、思う存分味わっていくだけでいいのだから。まあ、それを可能にしてくれるのはバシュラールなわけだけれど、たんなる読者であることの、ぼくたちの特権

的な幸福を思わないではいられなくなってくるのだ。


  「わたしはプシシスムを真に汎美的なも

  のにのにしたいと思い、こうして詩人の

  作品を読むことを通じて、自分が美しい

  生に浴していると実感することができた

  のである。美しい生に浴するということ

  は、こころよい読書にひたり、言葉の流

  れの中にゆくりなく立ち現われる詩的な

  浮き彫りをのがさぬように、いつも注意

  するような読書に没頭することである」


 流れのなかにぷかぷか果実みたいなイマージュが見え隠れするのをみつけてすくい取るようにして味わうのと、俳句という器に盛られたみずみずしい楽園の果実をわしづかみにするようにしてそのまま味わうのと。


  「想像的意識は、連続しないばらばらの

  イマージュと対比しながら考察されるな

  らば、現象学理論の入門教育のためにい

  くつかの適当なテーマをあたえることが

  できるかもしれないのである」


  「人間の心的作用の詩的な力を取りだそ

  うとするわたしたちにとっては、単純な

  夢想に研究を集中し、単純な夢想の特殊

  性をひきだすことを試みるのが最良の途

  である」


  「単純な対象を夢想する夢想のなかで、

  わたしたちは夢想する存在の多面的価値

  を認識する」


  「孤立した詩的イマージュの水位におい

  ても、一行の詩句となってあらわれる表

  現の生成のなかにさえ現象学的反響があ

  らわれる。そしてそれは極端に単純なか

  たちで、われわれに言語を支配する力を

  あたえる」


 ぼくたちは現象学理論なんかに興味はないけれど、この本のなかで、単純でいて奥深い、連続しないばらばらの俳句のイマージュでもってポエジーを味わっているそのことが、いま、もっと複雑なふつうの詩を読むために不可欠な詩的想像力や詩的感受性をしっかりと育成してくれているはずなのだった。

 この本のなかの700句+アルファの俳句による単純で奥深い「言葉の夢想」で、一句一句、ポエジーという現象学的反響をくりかえし味わっているそのことが、途方もない幸福が約束された、バシュラール的な「書かれた言葉の夢想家」になるための考えうる最高に理想的なプロローグとなってくれるのは、どう考えても、やっぱり、間違いないこと。

 詩人の作品を読むことを通じて自分が美しい生に浴していると実感することができるような、この本を手にする前には想像もしなかったような、そんな夢のような日々が、そう遠くない未来に必ずやってくるはず、と、いまやどなたにもうれしくそう確信していただけるようにはなったのではないかと思う。


 こないだも言ったように、夢想というもので世界一の幸福を実現してしまったバシュラールの残してくれた言葉と、ポエジーのためには世界一理想的な俳句という詩型が、この本のなかで、はじめて、幸運な出会いをはたしたことになるのかもしれないのだ。人でもないもの同士が出会ってしまったのだから、やっぱり、奇蹟というしかない。

 バシュラールの言葉だけが本人抜きで理想の詩型とはじめて出会い、ほんの2、3の「世界」の断片しか利用できない俳句形式にしてみれば、バシュラールの言葉に触れて、うすうす感じていた自分の新しい可能性をはっきりと自覚するようになった、というわけだった。

 それだから、もしかしたら、こんなにも純粋なかたちで、一句一句の俳句作品が、幼少時代の色彩で彩られた楽園のような世界を垣間見せてくれたのも、俳句形式が、まだぼくたち自身のものにはなっていない詩的想像力の代行をして幼少時代の宇宙的な夢想を追体験させてくれたのも(もう一度強調しておこう)この本のなかで、ぼくたちだけに対してなのかもしれないのだ!


 《俳句形式が浮き彫りしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、幼少時代という<イマージュの楽園>における遠い日の夢想をそっくりそのまま追体験させてくれる……



  葛の花トンネル口は風に満ち



  「この美はわたしたちの内部、記憶の底

  にとどまっている……



  蔦青く風たちやすき煉瓦館


  

  「俳句形式はイマージュの有効性に全身

  全霊をあたえることをいとわない……



  摩天楼より新緑がパセリほど



 また詩人と書いてあるところを俳句形式に変えて引用させてもらったけれど、そうしたくなるのがあたりまえなのは、バシュラールの言葉が、俳句という理想の詩型をみつけてしまったからだった。つぎの文章も同様だ。


  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい。幼少時代がなければ真実の

  宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ

  エジーはない。俳句はわたしたちに幼少

  時代の宇宙性をめざめさせる……



  一本が鳴きたちまちに蝉の森

  

 

 こんどは中島斌雄の俳句作品を味わってみよう。俳句とは思えない、詩のような、素晴らしいポエジー。というより、俳句だからこそ味わうことのできる、ふつうの詩よりも純粋なポエジー。

 

  「俳句作品のなかで、俳句形式はイマー

  ジュの有効性に全身全霊をあたえること

  をいとわない」


 5・7・5とゆっくり言葉をたどって受けとる、俳句形式によるイマージュの贈物……



  ひともりし灯を見上げけり秋の雨


  ひとに降る夜深き雪や街をゆく


  シネマ出て夜の街淡き雪積める


  (こと)絶えてすゝる紅茶や夜の雪

  

  夜の園噴水凍てずふたりきり


  ニコライに寒月かくれ坂となる



 なんて素晴らしいポエジーなんだろう。一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式がイマージュの有効性に全身全霊をあたえてくれている。5・7・5と言葉をたどっただけで、たったの一行でこんなにも美しく、ひとつの詩的情景(イマージュ)をくっきりと浮き彫りにしてくれるのは、俳句形式の恩寵というしかない。

 それにしても、俳句の言葉の表すたんなる事物(イメージ)を黄金の宇宙的な事物(イマージュ)に変えてしまうのは、いったい、俳句形式と詩的想像力とのどのような錬金術によるのだろうか。


  「わたしたちはイマージュ、いまや思い 

  出よりも自由なイマージュに直面してい

  る……



  ひたすらに夏となりゆく(こみち)かな


  道しるべ静かに()りぬ秋の雲

  

  秋晴を(たた)へ讃へて野路(のぢ)をゆく


  吹雪つつ歩廊の時計みな灯る



  「イマージュをたのしみ、イマージュを

  それ自体として愛する……



  別れ()のふととる手にも雪が降る


  わが(ぬか)の冬の日われを幸福に


  郭公や(よる)は夜汽車と遠く去り



  「詩人はある幸福の誕生にわたしたちを

  立ちあわせる」


  「詩人たちは宇宙的幸福のさまざまなニ 

  ュアンスをもたらす」


 ぼくがいちばん愛用している言葉をふたつ俳句作品の最後に並べてみたけれど、このなかの「詩人」を「俳句」に書き換えてあげると、やっぱり、バシュラールが残してくれた言葉に、たちまち、生命が吹きこまれることになるようだ。だって、そうすれば、たちまち、これらの言葉がぼくたちにとってまぎれもない真実となってくれるのだから。

 俳句こそ、まさに、バシュラールが詩に求めた理想の多くをほぼ完璧に実現してしまっているような詩だからだった。


  「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア

  ンスをもたらす……



  ひともりし灯を見上げけり秋の雨



  「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを

  立ちあわせる……



  シネマ出て夜の街淡き雪積める



  「俳句のひとつの詩的情景(イマージュ)ごとに幸福の

  ひとつのタイプが対応する……



 

  別れ路のふととる手にも雪が降る



《俳句形式のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……



  言絶へてすゝる紅茶や夜の雪



 こんなふうに、ふつうの詩以上に純粋なポエジーをぼくたちにもたらしてくれる、俳句形式の恩寵。5・7・5と区切るようにしてゆっくり言葉をたどるだけで、一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式が、こんなにも素晴らしく、ひとつの詩的情景(イマージュ)をくっきりと浮き彫りにしてくれる……



  ひとに降る夜深き雪や街をゆく

 


 深夜、ほとんど人影のない、雪の降る街をひとりゆくひっそりとした孤独感。限定性の少ない俳句の言葉から好きなように情景を思い描く自由が許されているのも俳句を読む楽しみのひとつだけれど、ひとに降るとあるから、たぶんかなり前のほうをだれかが雪の降るおなじ通りを歩いているのだろう。あるいは、時おり見知らぬひととすれちがったということなのだろうか。それとも、もしかしたら、あたりには人影などまったくなくて、広大な宇宙のなかにただひとり存在しているような孤独な自分をさしてひとといっているのかもしれない。

 いずれにしても、人なつかしいような深夜の孤独感と清らかでひんやりとした雪の印象が、最高のポエジーを生んでいると思う。たったの一行でどうしてこんなにも深いポエジーを生んでしまうのだろう。やっぱり、俳句形式の恩寵というしかない。

 


  ひとに降る夜深き雪や街をゆく

 

 

 

 今回はじめてでもう少し私の作品を読んでみたいと思われた方は、できたら最初に、作品一覧の(パート4)あたりの(パート1・訂)と、どうしてこうも旅というものにこだわるのかを理解していただくためにも(パート2-その1と2)を、とりあえず読んでいただくことをおすすめします。あとは順番にこだわらず、どこでもいい、気軽に適当なところ開いて、好きなように気楽に読んで、だんだんレベルアップしてくる俳句のポエジーを思う存分堪能していただけたならと思います。

 次回の次の(パート7ーその1)から少しずつふつうの詩も登場することになりますが、この原稿が分厚い一冊の本になれば詩の出てくる後半までに、先に進むのを惜しむようにしてそれまでの俳句作品で詩を味わうのに十分な程度の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を調整しながら自分のものにすることができますが、最初に読むのがやさしすぎるような大木実の詩であるとはいっても、今回はじめて私の作品を読んでいただいた方には、さすがにちょっと無理があるかもしれませんので、それこそ先を急がず先に進むのを惜しむようにして、詩の登場することになるこれからの掲載作は読まずにしばらく大切にとっておいたほうがいいかもしれません。私の作品さえ読みつづけていただけるなら、そのうち、ふつうの詩を読んで詩情や詩的な喜びや慰めを味わうことができるようになるのは、確実なこととして、約束されているはずですから。


 俳句や詩歌に関心のある方には前例のない私の作品の真価を分かってもらえると思いますが、編集者にみてもらうためにはどうしても読者数の増加が必要みたいですがこのサイトだけではあまり期待できないので、もしも私の作品を気に入っていただけたなら、サファリやヤフーやグーグルで「ヒサカズ(一字分空白)ヤマザキ」の作者名で検索していただければ掲載されているタイトルからこのサイトに入れますので、お知りあいの方とかに私の作品の存在をおしえていただけたなら、ご協力を心から感謝いたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ