勘違いヒロイン、公爵令嬢に「おもしれー女」認定される
リリアン・ミッシェルは、生まれた時からこの辺りで一番可愛い娘だと言われて育った。
少なくとも、本人の記憶にある限りではそうだ。
幼い頃から村の大人たちは、彼女が通るたびに目を細めた。愛らしい顔立ちだ、まつげが長い、肌が白い、笑うと花が咲いたみたいだ。そんな言葉を、飴玉でも与えるように惜しげなく投げてきた。
年頃になれば同年代の男の子たちは皆そわそわして、仕事帰りの若者はわざわざ彼女の家の前を遠回りして通った。おまけにリリアンは勉強までできた。村の寺子屋で教わる読み書き計算はすぐに覚え、先生役の老人からも「頭の回転が違う」と舌を巻かれた。
だから、彼女は信じていた。
自分はこんなところで終わる女ではない、と。
貧しい地方の小村。雨が降ればぬかるむ道、冬になれば隙間風の入る家、食卓に肉が並ぶのは祝い事の日くらい。
母は古くなった服をほどいては縫い直し、父は働きづめの手をさすりながら、それでも「リリアンは賢いからな」「うちの希望だ」と言ってくれた。
そんな場所に生まれながら、自分だけは違う。
その確信を決定づけたのは、幼い頃に擦り切れるほど読んだ一冊の恋愛小説だった。平民の少女が王都の名門学園に入学し、そこで高貴な青年と出会い、見初められ、やがて幸せを掴む――そんな、いかにも夢のある物語だ。
リリアンはその本が大好きだった。頁の角が丸くなるまで読み返し、夜には薄い毛布の下で続きを思い描いた。貧しい家に生まれた少女が、美しさと賢さと努力で運命を切り開く。その主人公が自分と重なって見えた。
自分も、きっとこうなる。
王子様とまでは言わない。けれどせめて王都で立派な貴族に見初められれば、私は幸せなハッピーエンドを掴むことができるのだと。
そしてある年、王都の学園の特待生試験に合格した時、その夢はもはや願望ではなく、約束された未来に思えた。
やっぱり私は、選ばれる側の女なのだ、と。
旅立ちの日、母は小さな布包みを差し出した。開ければ、安物ながら丁寧に磨かれた銀色の髪留めが入っていた。露店で見つけたのだろう。母自身は何年も新しい服一つ買っていないのに、きっと少しずつ銅貨を貯めてくれたのだ。
「王都には立派なお嬢さんがたくさんいるんでしょう。でも、うちの娘だって負けないくらい可愛いんだから。せめて少しでも、胸を張っていられるようにと思ってね」
母はそう言って笑ったが、指先はひどく荒れていた。
父は言葉少なに、だが何度も頷いた。
「リリアン。お前ならやれる」
泣くものかと思っていたのに、その時だけは少し鼻の奥がつんとした。だからこそ、彼女は決意を新たにした。
絶対に成功する。絶対に、金持ちになって、幸せになる。そして、両親に恩返しをするんだ。
*****
王都の学園は、田舎娘の想像を軽々と超えていた。
白亜の校舎、磨き上げられた廊下、広大な中庭。行き交う生徒たちは誰も彼も仕立ての良い制服を身につけ、姿勢がよく、話し方まで洗練されている。その中に、特待生として与えられた質素だが清潔な制服に袖を通した自分が立っている。それだけで、リリアンの胸は高鳴った。
ここが舞台だ。
ここから、私の物語が始まるのだ。
そう思った彼女は、実に素早く行動した。
まず目をつけたのは、騎士団長の息子であるレオネルだった。背が高く、精悍で、女生徒たちの憧れの的である。朝の訓練帰りを見計らい、リリアンは廊下の角でタイミングよく教本を取り落とした。
「きゃっ」
ぱさり、と音を立てて床に散る紙束。予想通り、レオネルが足を止める。
「大丈夫か」
「は、はいぃ……ご、ごめんなさぁい。わたし、ちょっと慌てちゃって……」
しゃがみこんだ彼に合わせて、リリアンも控えめに膝を折る。顔を上げた拍子に視線が合うと、少しだけはにかんでみせた。
「拾ってくださってありがとうございますぅ。レオネル様って、やっぱりお優しいんですねぇ」
ついでに胸元で指を組み、頼るように小首を傾げるのも忘れない。
「そういえばわたし、特待生なんですぅ。平民からここまで来るのって、すっごく大変だったんですよぉ。でも頑張ってお勉強してきたので、えらいって褒めてもらえませんかぁ?」
レオネルは一瞬だけ言葉に詰まり、それからきっちりと距離を取って教本を手渡した。
「……努力家なのだな」
「えへへぇ、ありがとうございますぅ」
しかし彼はそれ以上は何も言わず、一礼してそのまま去っていった。
少しあっさりしていたが、悪くはない出だしだとリリアンは思った。
次に狙いを定めたのは、公爵令息のアルフレッド。学年でも屈指の美貌を誇り、家格は申し分ない。図書室で彼の隣の席が空くのを見計らい、リリアンはそっと腰かけた。
「あのぉ、アルフレッド様って、いつも難しいご本を読んでいらっしゃいますよねぇ。すごぉい」
ふわりと笑いかける。
「もしよかったら、ここ、教えていただけませんかぁ? わたし、頑張ってるんですけどぉ、どうしても分からなくってぇ」
教えてもらっている間も、リリアンは合間合間に感嘆の声を挟んだ。
「わあ、すごぉい。そんなふうに考えるんですねぇ」
「わたし、アルフレッド様みたいに頭のいい殿方って憧れちゃいますぅ」
「きっと将来、とっても立派な方になりますよねぇ」
しかし彼は終始穏やかな微笑みを崩さなかったものの、説明が終わると綺麗に一礼して席を立った。
「お役に立てたなら幸いです」
「えっ、あのぉ……もう少し……」
「では」
彼は穏やかな笑みを浮かべたが、会話が終われば綺麗に一礼して去っていった。次に会っても距離は変わらない。
他にも侯爵家の次男、伯爵家の嫡男、将来有望と噂の青年たちにそれとなく声をかけたが、結果は似たり寄ったりだった。皆、露骨に無礼ではない。だが、誰一人として踏み込んではこない。
おかしい、とリリアンは思った。
故郷では笑いかければ頬を赤くした男たちが、王都では誰も目の色を変えない。話しかければ喜ばれたのに、ここでは慎重に一線を引かれる。彼女なりに可憐に、愛らしく、守ってあげたくなるように振る舞っているのに、手応えがない。
ならば、きっと決め手が足りないのだ。
そう考えたリリアンが次に頼ったのは、自慢の菓子だった。
彼女は料理が上手だった。貧しい家の台所で、限られた材料を工夫して美味しくする術を学んできた。とりわけクッキーは村でも評判で、祭りの日に焼けば、男たちは「リリアンのクッキーをくれ!」と群がったものだ。甘い香り、素朴だが優しい味わい。これを食べて喜ばない男などいないと、本気で思っていた。
だから彼女は焼いた。わずかな仕送りを節約し、材料を揃え、寮の共同厨房を借りて丁寧に丁寧に。小さな袋に詰め、愛らしいリボンまでつけた。
そして、まずは騎士団長の息子に差し出した。
「お疲れの時に甘いものはいかがかと思ってぇ。よろしければ、召し上がってください〜」
精一杯の笑顔で。
しかしレオネルは一瞬だけ目を見開き、その直後、困りきった顔になった。
「気持ちはありがたいが、受け取れない」
「え……」
「すまない」
それだけ言って、彼は去った。
呆然としたまま、今度はアルフレッドに差し出した。だが返ってきたのは、さらに丁寧で、さらに遠回しな断り文句だった。
「心遣いには感謝します。ですが、私的な贈り物は受け取れません」
私的な贈り物。
たったそれだけの言葉が、なぜかひどく冷たく聞こえた。
その日以降、リリアンはあからさまに避けられるようになった。挨拶は返る。だがそれだけだ。二人きりにならないよう、周囲に人を置かれることも増えた。廊下で会えば礼はされるのに、会話は三言で切り上げられる。
何がいけないのか分からなかった。
学園は身分を越えて学ぶ場だと聞いていた。実際、特待生である自分もここにいる。なのに、どうして越えてはいけない線があるかのように扱われるのか。努力して、愛想よくして、好かれるように振る舞っているだけなのに。
そしてある日、リリアンは呼び出された。
相手は公爵令嬢ロクサーヌ・ヴァレリア。
高貴な家柄、非の打ちどころのない立ち居振る舞い、冷ややかな美貌。彼女こそ、恋愛小説なら主人公をいびる悪役令嬢として登場しそうな女だった。
実際、教室の隅でその名を囁く声は多い。厳しい、近寄りがたい、完璧すぎて怖い。そんな噂を、リリアンも耳にしていた。
終わった、とその時彼女は思った。
中庭から少し外れた東屋には、既にロクサーヌがいた。淡い金髪を一糸乱れず結い上げ、背筋を伸ばして座る姿は絵画のようだった。侍女こそ連れていないが、一人でいるのに場の空気を支配している。
「来ましたわね、リリアン・ミッシェル」
「……はい」
喉が乾く。
ロクサーヌは真正面から彼女を見た。その視線は冷たいというより、ひどく正確だった。誤魔化しのきかない秤に乗せられているような心地がした。
「単刀直入に申し上げます。あなたの振る舞いに、困っている方がいますの」
やはり、と思った。
胸の奥がひゅっと縮む。
「学園は平等を掲げています。ですが、それは無秩序でよいという意味ではありません。相手の立場、周囲の目、受け取られ方。そうしたものを無視してよい理由にはなりませんわ」
ひとつひとつ、正しいことを言われているのだろう。でも、その正しさは刃物のようだった。
「あなたはおそらく悪意なくなさっているのでしょう。ですが高位貴族の子息方に繰り返し個人的な接触を試み、手作りの菓子を贈るなど、困惑を招く行動は慎んでいただきたいのです」
慎んでいただきたい。
その上品な言葉が、田舎娘には「身の程を知れ」と同じ意味に聞こえた。
気づけば、目の奥が熱くなっていた。堪えようとしたのに、涙は勝手にあふれた。
「どうして……」
ぽろりと落ちた声に、自分でも驚いた。
「どうして、うまくいかないのよ……」
ロクサーヌが、わずかに目を見張る。
リリアンはもう止まれなかった。みっともないことは分かっていた。公爵令嬢の前で泣きじゃくるなんて、田舎者丸出しだ。けれど、悔しくて、苦しくて、胸の中に溜め込んでいたものが一気にあふれ出した。
「私は、ただ……っ、金持ちになりたいだけなのに……!」
東屋に、あまりにも俗物的な本音が響いた。
「家に、お金がなくて……!冬は寒くて、母さんの手なんてひび割れて血が出るし、父さんだって古い靴を何度も直して履いてて……!それでも、私が王都に行くって言ったら、母さん、髪留めまで買ってくれたの……っ」
涙で視界が滲む。母の荒れた手、父の固い掌、あの狭い家の匂いが蘇る。
「私、恩返ししたいだけなのよ……!こんなところで終わりたくないの!可愛いって言われて、頭がいいって言われて、特待生にもなれたんだから、きっと何かになれると思ったのに……なのに、何をしてもだめで……!」
最後はほとんど嗚咽だった。
沈黙が落ちる。
終わった。今度こそ軽蔑された。そう思って肩を震わせていたリリアンは、不意に、自分の体がそっと抱き寄せられたことに気づいた。
「……え」
顔を上げれば、ロクサーヌがいた。
公爵令嬢は、泣きじゃくる平民の娘を、まるで幼子でも慰めるように抱き寄せていた。その腕は意外なほど迷いがなく、体温はひどく静かだった。
「あなた、本当に思ったことをそのまま口に出しますのね」
呆れたような、けれどどこか可笑しそうな声だった。
「は、はい……?」
「面白い方」
その瞬間、ロクサーヌの胸の内で何かが決まったようだった。
彼女は生まれてこの方、公爵令嬢として厳しく躾けられてきた。背筋を曲げるな。感情を顔に出すな。誰に何をどこまで話すか見極めなさい。微笑みは武器であり、沈黙は盾であり、言葉は刃にも薬にもなる。そう教え込まれて育った。だからこそ、学園に満ちる水面下の駆け引きにも、人の腹の内を探るような会話にも、ずっと心をすり減らしてきた。
その彼女からすれば、金持ちになりたい、家族を楽にしたい、と泣きながら言い切るこの娘はあまりにも異質だった。
飾らず、濁さず、恥も外聞も投げ出して、本音のまま泣ける。
なんて面白い女なのだろう、とロクサーヌは思った。
そして同時に、ひどく眩しくも感じた。
「よくお聞きなさい、リリアン」
ロクサーヌは彼女の肩を軽く押して顔を見せた。涙でぐしゃぐしゃになった顔はまったく優雅ではなかったが、その不格好ささえ愛嬌に思えた。
「あなたが失敗したのは、魅力がないからではありません」
「……え」
「知識が足りなかったのです」
リリアンは瞬きをした。
「貴族社会では、可憐で愛らしいことは確かに美点ですわ。ですが、それだけで奥方に選ばれると思ったなら大間違いです。高位貴族の妻には、家の切り盛り、使用人の管理、社交、帳簿、時には領地運営の補佐まで求められます。愛想がよいだけの娘を、誰が家の中枢に迎えたいと思いますの?」
言われてみれば、そんなことも考えたことがなかった。
「それから、手作りの菓子」
ロクサーヌの口調が少しだけ厳しくなる。
「貴族が、特に高位の家の者が、親しくもない相手から受け取った手作りの食べ物を口にすると思って?」
リリアンは絶句した。
「毒殺、という言葉をご存じでしょう」
「ど、毒……?」
「ええ。あなたにそのつもりがなくとも、受け取る側はそうではありません。だから彼らは断ったのです。あなたを嫌ってというより、自衛として」
世界が、音を立てて組み替わっていくようだった。
彼女が善意と好意の証だと思っていたものが、相手からすれば警戒の対象になりうる。その発想自体がなかった。村ではリリアンの焼いた菓子は、好かれるための切り札だったのだ。
「学園が平等だというのは、学ぶ権利の話ですわ。育ちも習慣も違う者たちが、同じ場所で学ぶ。その意味では平等です。けれど、各々が背負っている立場まで消えるわけではありません」
ロクサーヌは一拍置いて、少しだけ口元を和らげた。
「ただし。知らなかったことは、学べばよいのです」
リリアンはまじまじと彼女を見た。目の前の公爵令嬢は、噂のような冷たいだけの女ではなかった。厳しいけれど、その厳しさは踏み潰すためではなく、立たせるためのもののように思えた。
「あなたは頭がよろしい。特待生としてここに来たのでしょう。ならば学びなさい。可愛いだけの娘で終わるのではなく、選ばれるに値する女になりなさい」
その言葉は、リリアンの胸の真ん中に深く沈んだ。
泣き疲れてぼんやりしていた頭が、じわじわと熱を取り戻していく。
ああ、そうか。
可愛いだけではだめなのだ。けれど、学べば変われる。そう知った瞬間、目の前の世界が初めて道として見えた。
「……教えて、いただけますか」
かすれた声でそう言うと、ロクサーヌはほんの僅かに目を細めた。
「ええ。よろしいですわ」
それからの日々、リリアンはまるで別人のように勉学に打ち込んだ。
いや、別人になったというより、本来の地頭の良さがようやく正しい方向へ向いたのだ。
ロクサーヌは容赦がなかった。歩き方、礼の角度、言葉遣い、茶会での会話の運び、招待状への返事、贈答品の選び方、季節ごとの社交の慣習、家計簿の見方、使用人への指示の出し方。さらには貴族女性が知っておくべき領地経営の基礎まで、折に触れて叩き込んだ。
「笑顔でごまかそうとしない」
「申し訳ございません」
「謝れば済むと思わない」
「はぁい……」
「語尾を伸ばさない」
「はい!」
最初のうちはしごかれているようなものだったが、リリアンはへこたれなかった。むしろ学ぶことそのものは好きだった。知らなかった世界の仕組みが一つずつ見えてくるのが面白く、昨日まで意味不明だった貴族たちの振る舞いが今日は理解できる。その積み重ねが嬉しかった。
それに、ロクサーヌは厳しいが、決して馬鹿にしなかった。できれば褒める。間違えれば理由から説明する。平民だからと見下さず、覚えれば当然のように次の課題を渡してくる。その信頼が、何よりも励みになった。
やがて学園でも、リリアンを見る目が変わっていった。
以前のような危うい愛想の振りまき方は消え、代わりに落ち着いた受け答えと、よく通る明るい声が残った。授業では相変わらず優秀で、討論でも的確な意見を述べる。見た目の華やかさだけでなく、中身のある娘として認識され始めたのだ。
そんな頃、リリアンは一人の男子生徒とよく話すようになった。
名をエドガー・ベルナールという。裕福な男爵家の令息で、穏やかな茶色の髪と、少し食いしん坊そうな優しい目をしていた。家格は決して最上位ではないが、家の商売と農地運営で堅実に栄えている家だという。
彼との出会いは、意外にも食堂だった。
「この煮込み、香辛料を入れすぎると豆の甘みが消えてしまうのよね……」
そんなリリアンの何気ない呟きに、向かいの席から「分かる」と食いついてきたのが彼だった。
「でも少しだけ胡椒を利かせた方が、全体は締まるんだ」
「その加減が難しいのよね」
「君、料理するのか?」
「ええ。田舎育ちですもの」
「いいな。僕も食べるのが好きで」
そこから話が弾んだ。郷土料理、保存食、季節の果物、王都では高価だが地方では庶民的な食材。エドガーは貴族らしからぬほど食べることに興味を示し、リリアンもまた話しやすかった。
何より、彼は最初から彼女に何かを演じさせなかった。
可憐でなくていい。無理に儚げに笑わなくていい。料理の話をしている時のリリアンは、つい手振りが大きくなり、目がきらきらして、少し早口になる。それを彼は面白そうに聞いた。
「君といると腹が減るな」
「それ、褒めているの?」
「もちろん」
笑いながらそう言う彼となら、リリアンも気負わず笑えた。
ある日、エドガーは正式な茶会の場で、焼き菓子の話になった時にふとこう言った。
「いつか、君の作るものを食べてみたい」
昔のリリアンなら、翌日にでも袋いっぱいのクッキーを焼いて押しつけていただろう。だが今の彼女は違う。
「では、きちんとした機会を設けますわ。ご家族にも確認して、必要なら毒見役も立てて」
そう返すと、エドガーは目を丸くした後、楽しそうに笑った。
「さすが、完璧な対応だな」
「ふふ、ロクサーヌ様のご指導の賜物よ」
本当に、ロクサーヌ様には頭が上がらない。
そしてリリアンは、この時初めて理解したのだ。
好きになれる相手というのは、金持ちだからでも、家格が高いからでもない。話していて楽しく、気を張りすぎず、けれど互いの立場を尊重できる相手なのだと。
もちろん、貧しさから抜け出したい気持ちは消えない。家族を楽にしたい願いも、今なお本物だ。だがそれだけで結婚を選べば、たとえ相手が大金持ちでも、きっと苦労する。毎日怯えながら、気の合わない誰かに好かれようと振る舞い続ける生活など、幸せであるはずがない。
当たり前のことを、ようやく自分のこととして腑に落とせたのだった。
卒業を間近に控えた頃、エドガーは正式に婚約を申し込んだ。ベルナール男爵家は、平民出身の特待生であるリリアンとの縁談を快く受け入れた。本人の能力を高く評価したのだという。
知らせを受けた実家からは、涙で滲んだような手紙が届いた。父は大きな字で「おめでとう」と書き、母は「体を大切に」「あなたは立派です」と丁寧な文字を重ねていた。末尾には、「あの髪留め、まだ持っていてくれているかしら」とあった。
もちろん、今でも持っている。毎日磨いて、欠かさず髪を飾っている。
そんなある日。学園に、鮮やかなピンク髪の女の子が編入してきた。名をミレイユというらしい。
彼女はつい最近まで平民だったが、男爵家の隠し子であることが発覚し、貴族として引き取られたのだという。
「私ってば、絶対この世界のヒロインだよね!まずはあの騎士団長の息子さんから攻略しちゃお!」
入学初日から目をキラキラさせ、あからさまに高位貴族たちに擦り寄っていくピンク髪の男爵令嬢。その姿は、かつてのリリアンそのものだった。
「……頭が痛いわ」
思わず額を押さえたリリアンに、隣のロクサーヌが扇の向こうで口元を隠した。
「……ロクサーヌ様」
「おや、どうなさいましたの」
「笑っていらっしゃるでしょう」
「少しだけ」
「少しじゃない顔をしています」
「だって面白いのですもの」
ロクサーヌの目がきらきらしている。明らかに面白がっていた。
「止めてきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
その声音は、かつて東屋で自分を導いてくれた時と同じ、不思議な信頼を含んでいた。
リリアンは小さく息を吸うと、ミレイユのもとへ歩み寄った。
「ミレイユさん」
「はい?あ、先輩」
振り返った少女の目には、好奇心と自信が詰まっていた。昔の自分も、きっとこんな顔をしていたのだろう。
「少し、お話しできるかしら」
リリアンは、彼女をサロンに連れ出すと、かつてロクサーヌが自分にしてくれたように、貴族社会の厳しさと現実をこってりと説き伏せたのだった。
「……というわけで、ヒロイン気取りで特攻するのは命取りよ。まずは身の程を知り、教養を身につけなさい」
「は、はいぃっ!リリアンお姉様……!!」
大号泣して改心したピンク髪の令嬢もまた、リリアンの妹分として猛勉強を始めることとなる。
公爵令嬢ロクサーヌはお茶を優雅に啜りながら、たくましく成長した愛弟子たちの姿に目を細めた。野心を胸に学園へ乗り込んだ「地域で一番可愛い女」は、確かな教養と愛する婚約者、そしてかけがえのない女友達を手に入れたのである。
春になれば、リリアンはベルナール男爵家へ嫁ぐ。学んだことを活かし、家の運営にも領地にも関わっていくことになるだろう。きっと忙しい日々になる。失敗もする。けれど、もう以前のように「誰かに愛されるだけでいい」とは思わない。
選ばれるだけの女ではなく、自分で未来を選べる女になったからだ。
故郷の母には、今年は暖かなショールを送ろう。父には丈夫な革靴を。少し早いけれど、家の屋根の修繕費も出せるかもしれない。そんな現実的な計算をしながら、それでもリリアンは確かに幸せだった。
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