あなたがワインを浴びせた相手は、"子爵令嬢"じゃありませんわ
「――あんたが、ルリア・ラズベルンね」
背後から掛けられた酷く刺々しい声に振り返る。反論する間もなく、頭から唐突に冷たい液体が浴びせられた。
バシャッ!!
冷たい液体が、丁寧に結い上げた髪を伝って滑り落ちていく。久方ぶりの夜会に合わせて新調したクリーム色のシルクドレスが、無惨な赤黒い模様に染まっていくのが視界の端に映った。むせ返るようなアルコールと、果実の甘ったるい香り。
どうやら、赤ワインを頭からかけられたらしい。
(……はあ。滅多に参加できない本国の夜会のためにと、わざわざ新調したばかりのドレスだというのに。完全に染み抜きをして元の風合いに修復するとなれば、一体いくらかかることやら)
私は顔から滴るワインを手の甲でそっと拭いながら、極めて冷静に頭の中で計算を始めていた。それにしても、実に古典的で、短絡的で、かつ品性の欠片もない嫌がらせである。
ここは王宮の大広間の端にあるバルコニー。扉の向こうの広間では、華やかな建国記念パーティが開催されており、オーケストラが奏でる優雅なワルツの調べが微かに響いてくる。人いきれに疲れ、少し夜風にあたろうと一人になった隙を、彼女たちに狙われたのだ。
ゆっくりと顔を上げると、そこには豪奢なドレスを着飾った数人の令嬢が立っていた。先頭に立つひと際派手な真紅のドレスの令嬢――確か、エリリー・ガイヴァス侯爵令嬢だったかしら――は、空になったワイングラスをこれ見よがしに握りしめ、勝ち誇ったような、それでいて憎悪に満ちた笑みを浮かべている。
「子爵令嬢の分際で、クロム様に色目使ってんじゃないわよ、この泥棒猫」
その言葉を聞いて、私はすべての状況を正確に理解した。なるほど、目の前で鼻息を荒くしているこのお嬢さんたちは、「クロム・ヴィーゼル公爵令息」の熱狂的なファンたちなのだ。
クロム・ヴィーゼルは、国内でも筆頭の権力を誇るヴィーゼル公爵家の嫡男である。現公爵である父親は有能な外交官として各国を飛び回っており、母親は隣国から嫁いできた絶世の美女と言われている。その小柄な背丈も相まって、当時は「妖精姫」などという、大層な二つ名までついていた。
そんな非の打ち所がない血筋でありながら、彼は昔から今のように持てはやされていたわけではない。……ほんの数年前まで、社交界で陰ながら「白豚令息」と嘲笑されていたのだ。
幼い頃から頭脳明晰で、チェスにおいては大人顔負けの才能を発揮していた彼だが、両親が外交官として海外にいることが多く、心のどこかで寂しさを抱えていた。そのせいか運動をひどく嫌い、部屋に引きこもって甘いお菓子を食べながら本ばかり読んでいた結果、丸々と太った、少しばかり傲慢でひねくれた少年になってしまっていたのである。
だが、ある時期を境に彼は劇的に変わった。憑き物が落ちたように剣の修行に打ち込み、馬を駆けさせ、領地の視察にも積極的に同行するようになった。贅肉は削ぎ落とされ、代わりにしなやかで強靭な筋肉がつき、元々整っていた顔立ちがはっきりと表に出るようになったのだ。
公爵家嫡男という圧倒的な肩書きに、誰もが見惚れるほどの精悍な美貌。加えて、長年の読書で培われた深い知性まで備わっている。そんな優良物件を、ハイエナのような社交界の女たちが放っておくわけがない。クロムが類まれなる美丈夫として社交界に再デビューを果たして以来、ヴィーゼル公爵家に届く釣書の量は、それこそ毎朝暖炉の焚き付けにしても余るほどに膨れ上がった。
当然、夜会に出るたびにクロムは令嬢たちからの猛烈なアプローチを受けることになる。適当に愛想笑いを浮かべていなしておけばいいものを、彼は生真面目で不器用なところがあり、つい馬鹿正直にこう宣言してしまったのだ。
『申し訳ないが、自分には心に決めた女性がいる。自分がここまで変われたのも、すべては彼女のおかげなのだ』と。
その爆弾発言に、社交界の令嬢たちは色めき立った。そして血眼になって「お相手の令嬢」を探し始めたのだ。やがて、白豚時代の彼との接点や、チェス大会の過去の記録などから、一つの名前がまことしやかに囁かれるようになった。
――相手は、ルリア・ラズベルン子爵令嬢ではないか、と。
どれだけアプローチしても振り向いてくれない苛立ちと、「たかが子爵令嬢風情に、高位貴族である自分が負けた」という肥大化したプライドの暴走。それらが全て合わさり、煮詰まった結果、「憎きルリア・ラズベルン」という存在に、令嬢たちの激しい嫉妬と怒りの矛先が向かったのだ。
でも、しばらくは何も起きなかった。なぜなら、ルリア・ラズベルンらしき令嬢とクロムが、公の場で接触している姿を誰も見ていなかったからだ。令嬢たちは明確な標的を見つけられずに、ただただ苛立ちを募らせていた。
そうして膠着状態が続く中で迎えたのが、今夜の建国記念の夜会であった。クロムが、私を伴って大広間に姿を現した。そして周囲の目も気にせず、私に親しげに笑いかけ、大切そうに手を取っていたのだ。彼が夜会で特定の女性をあそこまで特別扱いするのは、これが初めてのことだった。
その親密な様子を見た令嬢たちが、私こそが『噂のルリアだ』と勝手に認定し、私が一人になったタイミングを見計らって囲んだ……というわけである。
とんだ見当違いだ。そもそも、私は「ルリア・ラズベルン子爵令嬢」ではない。
私がクロムにとっての「大事な人」であるのは事実だし、私も彼のことを心から愛している。彼も私を大切に思ってくれているだろう。だが、だからといって見当違いの八つ当たりをされる筋合いはないし、第一、私に言わせてみれば、彼女たちは根本的にすべてが身勝手すぎるのだ。
今ここでクロムを巡って鼻息を荒くしている女性たちのほとんどは、彼が「白豚令息」と呼ばれていた時代、扇子の陰で彼をクスクスと嘲笑っていた側の人間なのだ。
どんな見た目をしていようと、クロムはクロムだ。チェスを愛し、物事を深く考える頭脳を持ち、きらびやかで派手な社交の場は苦手だけれど、人を思いやる深く優しい心を持っている。彼の中身を見ようともせず、ただ外見が醜いというだけで遠ざけていたくせに、彼が美しく成長した途端、今度は「外見」と「公爵家という爵位」だけを目当てに群がってくる。
そんな軽薄で薄情な女たちに、クロムが靡くはずがないではないか。
しまいには、彼に振られた腹いせとばかりに、私を呼び止め、ワインをぶちまけて嫌がらせをする始末。ここでこんな三流の嫌がらせをして、私を泣かせて追い出したところで、自分たちがクロムと結ばれるとでも本気で思っているのだろうか。あまりにも想像力が欠如している。
私はワインで濡れた顔を拭いもせず、冷ややかに彼女たちを見据え、凛とした声で言い放った。
「あら。随分と威勢がいいですけれど、子爵令嬢だとか、家柄だとかは関係ありませんわ。クロムが誰を愛し、誰と結婚するかは、クロム自身が決めることです」
私がわざと堂々とした態度でそう告げると、エリリー嬢は顔を真っ赤にして激昂した。
「クロム、ですって!?公爵令息であるあのお方を呼び捨てにするなんて……っ!どこまで厚顔無恥で、はしたない女なの!」
「身の程を知りなさい!クロム様がどれほど尊い血筋のお方か、あなたのような田舎貴族が理解できるはずもないわ!」
取り巻きの一人が、扇子をバチンと鳴らして加勢する。
「いいこと?クロム様はただの公爵令息じゃないわ。お母様であられる公爵夫人は隣国の王女殿下で、我が国の王妃様とも家族同然の深い繋がりがあるのよ!つまりクロム様は、王族に等しい尊い血を引いていらっしゃるということ。そんなお方の隣に立つのは、せめて由緒ある侯爵家、最低でも伯爵家以上の令嬢でなければ許されないわ。あなたのような卑しい女が擦り寄っていい血筋じゃないのよ!」
「……へえ。随分と公爵家の事情にお詳しいのね」
私は相槌を打ちながら、ただただ感心していた。当事者でもない人間が、これほど熱弁する姿を見るのも滑稽な気分だ。
「そうよ!だいたい、あなたのような貧乏子爵家が公爵家に釣り合うとでも?身の程知らずもいいところだわ」
エリリー嬢が、扇子で私の顔を無作法に指差した。
「現に、あなたのお父様が細々とやっている特産品の商売なんて、私たち上位貴族が少し息を吹きかければ、あっという間に吹き飛ぶのよ。……そういえば。最近、ラズベルン家の積荷が不自然な理由で港に足止めされているそうじゃない?」
「……え?」
私はわざとらしく眉をひそめた。実際、ラズベルン子爵家が何者かの妨害を受けて困窮しているという噂は、私の耳にも入っていたからだ。
「驚いた顔をしているわね。あなたの家が干上がりかけているのは、私の家が商流を『調整』してあげているからよ!自分の立場を弁えずにクロム様に色目を使った罰よ。このまま没落したくなければ、今すぐ身を引きなさい!」
得意げに胸を張る彼女を見て、私はあきれ果てた。嫉妬からくる嫌がらせだけかと思いきや、上位貴族の権力を濫用し、他家の正当な取引を不正に妨害していると自ら白状したのだ。これは貴族としてあるまじき重罪である。
「……それは、随分と悪質な嫌がらせですね。不正に他家の取引を妨害したとなれば、ただでは済まないはずですが」
私が静かにそう指摘すると、エリリー嬢は醜く顔を歪め、勝ち誇ったように言い放った。
「そうかもしれないわね。でも、一体誰がそんなこと信じるっていうの?」
「……」
「私がやったという証拠がどこにあるの?まさか王宮に訴え出るとでも?やってみなさいな。たかが子爵令嬢の戯言なんて、誰も信じやしないわ!権力の前では、あなたみたいな虫ケラは這いつくばって泣き寝入りするしかないのよ!」
彼女の言葉に呼応するように、取り巻きの令嬢たちも耳障りな声で一斉に笑い出した。自分たちの勝利を疑いもしない、底抜けに愚かで滑稽な姿。自分がどれほど取り返しのつかない爆弾に火をつけているのか、彼女たちは微塵も気づいていないのだ。
私はその醜悪な笑い声をBGMに、ふうっと小さく息を吐き出した。怒りよりも先に、これほどまでに想像力の欠如したお嬢様たちへの哀れみが勝る。私は濡れた髪をそっと払い、夜会の中心にいるかのような最高に優雅な笑みを浮かべて、静かに口を挟んだ。
「気分よく笑ってるところ悪いんだけど、少しいいかしら?」
私のあまりにも落ち着いた、余裕たっぷりの声色に、令嬢たちの笑い声が不自然に途切れた。
「何よ、今更命乞い?泣いて土下座するなら聞いてあげても……」
「いえ、そういうわけではなくて」
私はひたすらに可哀想なものを見る目で、彼女たちに微笑みかけた。
「さっきからあなたたち、私のことを『ルリア・ラズベルン子爵令嬢』だと完全に思い込んで、色々と身の上話を聞かせてくださっているみたいですけれど」
冷たい夜風が吹き抜け、バルコニーに奇妙な静寂が落ちる。
「私、『ルリア・ラズベルン子爵令嬢』じゃないわよ」
令嬢たちの顔から、サァッと音がしそうなほど血の気が引いた。彼女たちは間抜けに口を開けたまま、私の顔と、ワインまみれのドレスを交互に見比べる。
「……嘘よ。だって、クロム様にエスコートされていたじゃない!ルリアじゃないなら、いったい誰だって……」
「ふふっ……相手の身分をよく確認もせずに赤ワインをぶちまけるなんて、随分と度胸がおありなのね」
私が微笑むと、エリリー嬢がはっと息を呑んだ。ようやく私の決して崩れない態度や、身につけている品々の質が『ただの子爵令嬢』が手に入れられるものではないことに気づいたのだろう。
「……まさか、あなた、"子爵令嬢"じゃない……?とか」
エリリー嬢の取り巻きが、微かに震える声で呟いた。その言葉に、私は極上の笑顔で頷いてみせる。
「……まぁ、そうね」
――確かに、私は『子爵令嬢』ではない。
私の静かな肯定を聞き、彼女たちの瞳に、明確な恐怖が浮かび上がる。もしかして自分たちは、勘違いでとんでもない上位貴族の令嬢にワインをぶちまけてしまったのではないか。今さらその可能性に思い至り、青ざめているのだ。
(半分正解。……でも、気づくのが遅すぎるわね)
私はワインで染まったドレスを気にする素振りも見せず、ただ冷ややかに彼女たちを見つめ返した。重圧に耐えきれなくなったのか、エリリー嬢が縋るように声を張り上げる。
「デ、デタラメ言わないでちょうだい!ラズベルン家が子爵家であることは間違いないですわ!陞爵するなんて話も聞いていないし!」
「それはそうよ。だって私、『ルリア・ラズベルン』でもないもの」
私があっさりと肯定してみせると、取り巻きたちが青ざめた顔を見合わせてパニックを起こし始めた。
「い、一体どういうことですの……!?子爵令嬢でも、ルリアでもないって……」
「人違い……ってこと?」
「でもそんなはずないわ!だって、今夜クロム様にエスコートされていたのは、間違いなくこの方でしたわ!」
「じゃあやっぱりこの方が恋人なんじゃない。それなのに人違いって、一体どういうことよ?」
「……もしかして、この方はルリアの生き別れの双子で、クロム様にエスコートされていた人とは別人!?」
「そ、それか、今日エスコートしていたクロム様がご本人じゃなくて、クロム様の双子だとか……!?」
「馬鹿なこと言わないでちょうだい!」
すかさず、エリリー嬢が取り巻きたちの迷推理を一蹴する。
「もちろん双子や影武者についても調べたけれど、両家ともにそんな事実は一切なかったわ。つまり、この女は苦し紛れの嘘をついているだけよ!」
エリリー嬢は「ついに尻尾を出したわね」とばかりに鼻息を荒くした。そして、鬼の首を取ったような得意げな態度でビシッと私を指差す。
「それに、クロム様の恋人がルリア・ラズベルンであることは確かな情報なのよ!」
必死に食い下がる彼女の言葉に、私は内心で密かに驚いた。
(あら意外、今度は大正解。……まったく、どこでそんな正確な情報を手に入れたのかしら)
完全に人違いをしているくせに、変なところだけは優秀な情報網である。
「そうだとしても、私は『ルリア・ラズベルン子爵令嬢』でないことは"神に誓って"確かよ。完全なる人違いだわ」
この国において、「神に誓う」という言葉は決して軽々しく口にできるものではない。偽証すれば重罪に問われかねないその言葉を、私が余裕の笑みを浮かべたままキッパリと言い放ったことで、彼女たちもようやく「私がルリアではない」という事実を信じざるを得なくなったのだろう。エリリー嬢の後ろに控えていた取り巻きの一人が、青ざめた顔で震える声を上げた。
「そういえばエリリー様……その『ルリア・ラズベルン』って令嬢、夜会で一度も見かけたことがありませんわよね……?」
「そ、そうなのよ!記録には確かに存在しているのに……!じゃあ、クロム様の恋人だと言われている本物のルリアは、一体どこにいるっていうの!?どういうことなの!?」
「……もしや双子じゃなくて三つ子?!」
「あんたは黙ってなさい」
自分たちの集めた情報と目の前の現実が噛み合わず、令嬢たちは完全に混乱の渦に飲み込まれていた。
――クロムの恋人は『ルリア・ラズベルン子爵令嬢』であるはず。なのに、今夜クロムと親しげにしていた目の前の女は、子爵令嬢でもなければルリアでもないという。ならば本物のルリアはどこにおり、目の前にいるこの女は一体何者なのか。
令嬢たちの頭の中は、今そんな疑問でパンクしそうになっているのだろう。
彼女たちの疑問に対する答えは極めてシンプルだ。けれど、凝り固まった貴族の常識しか持たない彼女たちに、その答えが想像できるはずもない。本物のルリアが夜会で着飾って令嬢たちの輪に混ざっていないことにも、そして私が今夜ここでクロムにエスコートされていたことにも、それぞれ至極当然の理由があるのだから。
「なんなのよ……」
エリリー嬢は後ずさり、信じられないものを見るように私を指差した。
「じゃあ、あなたは誰なのよ!?クロム様とあんなに親しくしていたのに……!
ルリアじゃない、クロム様の別の恋人だとでもいうの?!」
悲鳴のような彼女の叫びに、私はこれ以上ないほど優雅に微笑んだ。
目の前の私が、「公爵令息の恋人」などという可愛らしい枠には絶対に収まらない存在であるということに、彼女たちはまだ気づいていない。これ以上パニックに付き合うのも可哀想なので、そろそろ正解を教えてあげることにしよう。
私はゆっくりとドレスの裾をつまみ、決定的な言葉を紡ごうとした。
「私は――」
バンッ!!
その時、重厚なバルコニーの扉が、蝶番が壊れんばかりの勢いで蹴り開けられた。大広間の喧騒と光が、雪崩を打ってバルコニーに流れ込んでくる。逆光の中に立っていたのは、数人の騎士を従え、血相を変えて息を切らしているクロムだった。
彼はバルコニーの惨状と、赤ワインで染まった私の姿を見るなり、悲痛な叫び声を上げた。
「大丈夫か、母さんーーー!!」
「「「は???」」」
エリリー嬢と、その取り巻きたちの間抜けな声が、見事にハモった。彼女たちの顔は今度こそ文字通り真っ青になり、カタカタと震え始めている。
無理もない。彼女たちが今まで「田舎貴族」「泥棒猫」と罵倒し、赤ワインをぶちまけた相手は、先ほど自分たちで「尊い血筋」「王家に匹敵する」と語っていたクロムの生みの親――ヴィーゼル公爵夫人その人だったのだから。
私は呆然と立ち尽くす彼女たちに向かって、完璧な淑女の挨拶を披露した。
「うふふ。昔から背が低くて若く見えるとは言われるけれど、まさか一回り以上も年の離れた可愛らしい令嬢に見間違われるなんて。光栄ですわ」
「……あ……、え……?」
「どうも、自己紹介が遅れましたわね。私、ミランダ・ヴィーゼルと申しますの。我が息子が、そしてヴィーゼル公爵家が大変お世話になっているようで……色々な意味で」
ガチャン、と。エリリー嬢の手から滑り落ちたワイングラスの残骸が、石の床に落ちて無残に砕け散った。
その破壊音は、彼女たちの明るい未来が粉々に打ち砕かれた合図だった。
夫が王都に不在の今、息子にエスコートを頼んで夜会に参加するのは当然のことである。しかし、恋敵を排除することしか頭になかった彼女たちには、そんなごく当たり前の可能性すら想像できなかったらしい。
私は隣国からの政略結婚で嫁いできた身だが、夫である公爵からはこれ以上ないほど深く愛され、夫婦関係は極めて良好。息子のことも親として深く愛しているし、息子からも大事にされている自負はある。また、先ほど彼女たちが得意げに語っていた通り、王妃とも親友であるため、この国での立場は盤石だ。
ただ、夫が外交官として各国を飛び回るため、私もそれに同行して国外にいることが多く、国内の夜会などにはほとんど参加してこなかった。そのため、私の顔を直接知る者は王都でも限られている。
同年代の貴族ならまだしも、社交デビューして数年しか経っていない若い令嬢が、私の顔を知らないのも無理はない。だが、「知らなかった」とはいえ、やってしまったことは取り返しがつかない。
開け放たれたバルコニーの扉の向こうでは、異音を聞きつけて集まってきた大勢の貴族たちが、こちらを息を呑んで窺っている。大広間の光に照らされたバルコニー。隣国の王女であり、現公爵夫人である私のドレスが赤ワインで無惨に染まり、対峙している令嬢たちの足元には割れたグラス。……誰の目から見ても、「無知な若手令嬢たちが、寄ってたかって公爵夫人にワインをぶちまけた」という、国家間の問題にも発展しかねない大事件の構図が完成していた。
「失礼します、公爵夫人」
不意に、クロムの背後に控えていた騎士の一人が静かに歩み寄り、自身の制服の上着をさっと脱いで、冷えた私の肩に優しく羽織らせた。
「クロム様、夫人は私が」
「うん、ごめんね。母さんをよろしく頼む。……俺は、この令嬢たちと少し『お話し』があるから」
クロムは、かつての温厚な彼からは想像もつかないような、絶対零度の冷たい瞳で令嬢たちを見下ろしていた。令嬢たちは恐怖のあまり腰を抜かし、床にへたり込んでいる。
「では、控え室にお連れします、奥様」
上着をかけてくれた騎士は、私を守るようにスッと腕を差し入れ、ふわりと軽々にお姫様抱っこで抱え上げた。至近距離で見上げるその騎士は、鼻筋がスッと高く、切れ長の瞳が美しい、さらりと流れる銀髪を後ろで一つにまとめている見事な美丈夫であった。騎士の制服越しにも、鍛え抜かれたしなやかな体躯が伝わってくる。
何も知らない人が見たら、「夫がいるのにも関わらず、息子の目の前で麗しい騎士に抱き抱えられて頬を染めている不義密通な公爵夫人」に見えるかもしれない。だが、まったく問題はない。なぜなら、私を抱き抱えているこの端正な顔立ちの騎士は、正真正銘の「女性」だからである。
「ねえ」
私は揺られながら、私を抱きかかえる逞しい騎士様に小声で話しかけた。
「なんでしょう、奥様」
涼やかな、しかし女性特有の柔らかさを持つ声が返ってくる。
「あなた、さっきまで、クロムと一緒にいたんでしょう?」
「左様でございますが……」
「ということは、あの子、いよいよ覚悟を決めてプロポーズしたのかしら。
――どうなの、ルリアちゃん?」
私を抱き抱えている女性騎士――近衛騎士であり、息子の最愛の女性であるルリア・ラズベルン子爵令嬢の端正な顔が、ぼんっと音を立てるように真っ赤に染まった。
「……っ!そ、それは……あの……っ!」
「ふふっ。照れなくてもいいのよ。ルリアちゃんなら、いつでもヴィーゼル家にお嫁に来てくれていいんだからね〜」
そもそも、令嬢たちが「ルリア」の正体を掴めなかったのも無理はないのだ。彼女は騎士団に所属する女性騎士だが、夜会などの公の場では常に制服に身を包み、壁際で厳格に警護の任務に就いている。一見すると、ただの端正な顔立ちをした中性的な美丈夫にしか見えないのだから。
息子がまだ「白豚令息」と呼ばれ、自堕落な生活を送っていた頃。頭の良さだけに胡座をかき、周囲を見下していた息子の天狗の鼻っ柱を、根元からへし折ってくれたのが、他でもないこのルリアだった。
チェスの名手であり、父親以外に負けたことがなかったクロム。彼が参加した国内大会の決勝戦で、家族以外で初めて彼を打ち負かしたのが、当時から騎士を目指していた彼女だった。聞けば、彼女はそれ以前の大会で一度クロムに惨敗しており、それから血の滲むような努力を重ね、クロムの戦術を徹底的に研究し尽くして再戦に挑み、見事勝利をもぎ取ったのだという。
代々騎士の家系に生まれた彼女は、「才能が足りないなら、努力で補う」という筋金入りの……言葉を選ばずに言えば「脳筋」の努力家だった。だが、彼女が恐ろしいのは、ただの努力家ではなく、努力を継続できる「才能」を持った天才だったことだ。
敗北の屈辱と、自分を打ち負かした彼女の真っ直ぐな瞳。そして、「努力もせずに才能に胡座をかくなど、騎士の家の娘として見過ごせません!」という容赦のない一喝。その日を境に、クロムは人が変わったように己を鍛え直すようになった。彼女に勝つために。……そして、その泥臭い努力の過程で、息子はルリアの気高く美しい魂に、どうしようもなく惹かれていったのだ。
「でも、奥様……私はただの子爵令嬢で、しかもこんな男勝りな騎士です。公爵家には不釣り合いで……」
「家柄なんて気にする必要ないわ。そんなもの、どこか高位の家の養女にでもなれば一瞬で解決する話だし」
私は、真っ赤な顔で俯く彼女の頬を、そっと撫でた。
「それに、女の嫉妬ややっかみからは、ちゃんと私が守ってあげるから。……だから、よかったらクロムのこと、前向きに考えてやってね」
「……はい。奥様、ありがとうございます」
そう答えるルリアの声は、かすかに上ずっていた。凛々しい騎士服を着て、私を軽々と抱き上げているくせに、頬はまだ赤いままだ。
その不釣り合いな可愛らしさに、私は思わず笑ってしまいそうになる。
強くて、真面目で、不器用で。
まったく、クロムは見る目だけはあったらしい。
*****
それから数日後。王都の社交界は、かつてないほどの大嵐に見舞われることとなった。
愛する妻が、無知な小娘どもにワインを浴びせられ、公衆の面前で侮辱されたと知った夫、ヴィーゼル公爵は、烈火の如くブチギレた。彼は「魔王」のような冷酷無比な笑顔を浮かべながら、公爵家の全権力と、隣国の王家(私の実家)のコネクションをフル活用し、徹底的な報復を開始した。
まず、「公爵夫人を子爵令嬢と勘違いしてワインをぶちまけた底抜けの馬鹿な小娘たち」の噂は、一夜にして王都中の笑い草となった。社交界の頂点に立っている気でいた彼女たちだったが、すべての夜会や茶会から出入りを禁じられ、たまに人前に出れば、かつて自分たちが見下していた者たちから、扇子の陰でクスクスと嘲笑される屈辱を味わうことになった。あの日バルコニーで彼女たちが放った底意地の悪い嘲笑が、そっくりそのまま特大のブーメランとなって彼女たち自身に突き刺さったのだ。
その上で、彼女たちの実家には、隣国の王族への不敬罪に等しいとして、天文学的な額の慰謝料が請求された。さらに、エリリー・ガイヴァスの父親が、職権を乱用してラズベルン子爵家の特産品の輸出を不正に妨害していた件についても、夫の差し金によって完璧な証拠が揃えられ、王宮の査問委員会へと叩きつけられた。結果として、首謀者であるガイヴァス侯爵家は爵位を降格され、多額の負債を抱えて領地も手放したという。
一方、理不尽な妨害を受けていたラズベルン子爵家への補填は、私が直々に手配させてもらった。可愛らしい未来のお嫁さんへの『結納金』も兼ねて、夫に掛け合い、慰謝料代わりに没収したガイヴァス家の豊かな土地をそっくりそのままラズベルン家へ譲渡させたのだ。さらに娘であるルリアが近衛騎士として王室を護衛している功績が高く評価され、ラズベルン家は異例のスピードで「伯爵」へと格上げされることとなった。
――そして一年後。
春の陽光が降り注ぐ王宮の礼拝堂には、見違えるほど精悍で逞しくなった息子・クロムと、純白のウェディングドレスに身を包んだ美しいルリアの姿があった。誓いのキスを交わし、照れくさそうに笑い合う二人。その周りには、祝福の真っ赤な薔薇の花びらが、まるで優しい雨のように降り注いでいる。
「……あの時降り注いだのは赤いワインだったけど、今日はこんなに綺麗な赤い薔薇なのね」
私は夫と腕を組みながら、心から幸せそうに笑う二人の姿を眺め、そっと呟いた。
「ミランダ、何か言ったかい?」
「ううん、なんでもないわ。ただ……二人があんなに幸せそうで、本当に良かったと思って」
私が微笑みながらそう答えると、夫は愛おしそうに私の肩を抱き寄せる。
「ああ、まったく同感だ。それにしても、あの時の慰謝料で新調したドレス、本当に君によく似合っているよ」
「もう。聞こえていたのね?」
顔を見合わせて笑い合う私たちの頭上にも、祝福の鐘の音が大空高く響き渡る。真っ赤な薔薇の雨に包まれながら、私はふと、愛する夫との間に生まれた大切な息子の軌跡に思いを馳せた。
部屋に引きこもり、周囲から「白豚」と心無い言葉を浴びせられていたあの頃。親として胸を痛め、一時はこの先あの子はどうなってしまうのかと、密かに涙した夜もあった。
けれど、あの子の根本にある優しさと賢さを、私と夫はずっと信じていた。
あの子は自らの足で立ち上がり、運命の女性と出会い、血の滲むような努力を重ねて自分を変えた。母である私を常に気遣ってくれる優しい心はそのままに、理不尽な悪意から愛する女性を立派に守り抜ける、強くて頼もしい男へと成長してくれたのだ。
不器用で意地っ張りだった私の小さな男の子が、今、あんなにも眩しい笑顔で愛する人の隣に立っている。
これ以上の幸せが、果たしてあるだろうか。
「……本当に、立派になったわね」
降り注ぐ薔薇の花びらが、ふたりの輝く未来を祝福するように舞い踊る。
私は目元に浮かんだ温かい涙をそっと拭うと、隣で優しく微笑む夫の体温を感じながら、最愛の息子と、新しくできた誇り高き娘の門出を、満ち足りた思いでいつまでも見守っていた。
お読みいただきありがとうございます!
久しぶりに叙述トリック?系の物語を書いてみました。ど、どうだったでしょうか……?
一応、伏線は色々貼っていました!
『滅多に参加できない本国の夜会のためにと、』→夫が外交官だからなかなか"本国の夜会"に出られない
『その小柄な背丈も相まって、当時は「妖精姫」と…』→小柄で美人だから、若く見られる
『ヴィーゼル公爵家に届く釣書の量は、それこそ毎朝暖炉の焚き付けにしても余るほどに膨れ上がった』→お前が焚き付けしてたんかい!夫人ならそりゃ公爵家の暖炉事情も知ってるわ、ってw
『公爵令息であるあのお方を呼び捨てにするなんて』→息子なんだからそりゃ呼び捨てだわな
『当事者でもない人間が、これほど(公爵家の事情を)熱弁する姿を見るのも滑稽な気分だ。』→そりゃあ、公爵夫人は当事者ですよね!
ネタバレされた状態でもう一回前半部分を読んでみると、またモノローグが違って見えるかもしれません^^
少しでも面白いと思っていただけたら、★評価、ブクマして頂けると嬉しいです!!




