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残り時間0.2秒で、断罪を回避する

掲載日:2026/06/16

 私、公爵令嬢エルメリア・ローゼンバーグは、前世の記憶を思い出した。

 ――よりにもよって、最悪のタイミングで。


「あっ」


 私が短く、間の抜けた声を漏らした瞬間。目の前で意地悪く口角を上げた男爵令嬢ミア・レーシェルが、自ら大理石の階段へと背中から身を投げ出した。


 ふわりと、彼女の体が宙に浮く。重力に従ってゆっくりと後方へ傾いていく彼女の姿を前にして、私の体感時間は異様なほどに引き伸ばされていた。極限状態に陥った脳が、生存本能から情報処理速度を異常なまでに引き上げているのだ。そして、そのスローモーションの世界の中で、私の脳内に「私のもの」ではない、別の人生の記憶が濁流のように流れ込んできた。


(……思い、出した!)


 前世の記憶。日本の女子高生として生き、交通事故であっけなく散った前世。そして、親友が熱中していた乙女ゲーム『月下に咲く恋の協奏曲』の記憶。

 確か、華やかな王立学園を舞台に、平民上がりの男爵令嬢が特待生として入学し、身分差を乗り越えて高位貴族のイケメンたちと恋に落ちるという、王道中の王道シンデレラストーリー……だったはず。

 記憶がパズルのピースのようにカチカチとはまっていく。豪華絢爛な金髪に、少しキツめの紫の瞳。公爵家という絶大な権力を持ち、ヒロインを徹底的に虐める嫌われ者のライバルキャラ。


(私、このゲームの悪役令嬢、エルメリア・ローゼンバーグじゃない!!)


 前世の記憶を取り戻したことで、これまでの私の人生における数々の「理不尽」に対する明確な答えが出た。どうりで、何もかもうまくいかないわけだ……。すべては、ゲームの「悪役令嬢」としてのシナリオの強制力、あるいはヒロインを引き立てるための舞台装置として動かされていたのだから。


 そもそも、私の最大の不幸は、この国の王太子であるギルバート・フォン・オルディス殿下と婚約したことだ。王家と筆頭公爵家という、誰もが羨む政略結婚。私が十歳の時に結ばれたこの婚約は、しかし、私にとって孤独の始まりでしかなかった。婚約の顔合わせの日に一度お茶を飲んで以来、私は彼と「一度も」会えていない。


『王太子としての公務が多忙ゆえ、お茶会は辞退する』

『視察のため、本日の夜会にはエスコートできない』


 送られてくるのは、常に事務的な冷たい手紙だけ。学園に入学してからも、彼は生徒会室にこもりきりで、婚約者である私にすら会う時間を一切作ろうとしなかった。私は公爵令嬢として完璧であろうと、必死にマナーや教養、魔法の訓練に打ち込んだ。いつか彼に相応しい隣に立てるようにと。しかし、その努力はすべて空回りし、学園では「王太子に疎まれている哀れな公爵令嬢」というレッテルを貼られていた。


 そこにトドメを刺すように現れたのが、男爵令嬢ミア・レーシェルだ。彼女が編入してきてからというもの、私の学園生活は文字通り地獄に変わった。

 私は彼女に指一本触れていない。それどころか、関わることすら避けていたというのに、なぜか「エルメリアがミアをいじめている」という身に覚えのない噂が、瞬く間に学園中に広まったのだ。


「王太子殿下と親しくするミア様に嫉妬して、エルメリア様が嫌がらせをしているらしいわ」


 そんなヒソヒソ話が、私が廊下を歩くたびに聞こえてくる。会ったこともない婚約者に、どうやって嫉妬しろというのか。そもそも、ギルバート様とミアが親しくしているところすら、私は見たことがない。


 しかし、私がいくら否定しても、いじめの「事例」は勝手に積み上げられていった。


 ある時は、ミアの教科書が泥水にまみれており、そのすぐ横に、あろうことか私専用に刺繍が施された特注のハンカチが「わざとらしく」落ちていた。私はその時間、図書館にいたというのに、誰も信じてくれなかった。

 またある時は、お茶会の直前にミアのドレスがズタズタに引き裂かれるにされる事件が起きた。「エルメリア様のメイドを近くで見た」と証言する見知らぬ生徒まで現れ、私はまたしても主犯に仕立て上げられた。


 極めつけは、中庭での出来事だ。私が本を読みながらベンチに座っていると、数十メートル離れた場所から突然ミアが「ごめんなさい!私が身の程知らずでした!どうかお許しを!」と大声で泣き叫びながら崩れ落ちたのだ。周囲にいた生徒たちは、私が何か残酷な言葉を投げかけたのだと勘違いし、冷たい非難の目を私に向けた。


 怖かった。まるで得体の知れない何かに監視されているようだった。私がどれだけ距離を置こうと、物理的に近づかないように動線を工夫しようと、彼女は不自然なほど完璧なタイミングで私の死角から現れ、有無を言わさず私を「加害者」に仕立て上げた。


 精神的に追い詰められた私は、ついに両親に「学園を辞めたい」と泣きついた。しかし、厳格な公爵である父は冷酷に言い放った。「公爵家の娘が、根も葉もない噂から逃げ出すなど言語道断。堂々と胸を張って登校しなさい」と。逃げ場など、どこにもなかった。



 ーーそして現在。人気のない旧校舎の階段で、私は最悪のタイミングでミアと鉢合わせてしまった。逃げようと踵を返した私に向かって、彼女は「これで最後よ、悪役令嬢さん」と言って意地悪く笑い、自ら階段へと身を投げ出したのだ。


 あの記憶の濁流を抜けた今ならわかる。目の前で繰り広げられるこの光景は、紛れもなく乙女ゲーム『月下に咲く恋の協奏曲』における、悪役令嬢エルメリアの決定的な破滅イベント「階段突き落とし事件」そのものだ。……エルメリアがヒロインを階段に突き落とすのではなく、ヒロインが自ら身投げしていることを除いては。


 ゲームのシナリオでは、ヒロインであるミアはここで重傷を負う。そして、エルメリアが直接的に手を下した殺人未遂事件として処理され、王太子ギルバートからの婚約破棄、公爵家からの勘当、そして修道院への幽閉という最悪のバッドエンドを迎えるのだ。


(冗談じゃない!なんで私が、身に覚えのない罪で一生を棒に振らなきゃいけないのよ!)

 激しい怒りと生存本能が、私の脳をさらに加速させる。しかし、思い出すのが遅すぎた。すでにミアの体は宙に浮き、後方へ落ち始めている。地面に叩きつけられるまでの猶予は、たったの0.2秒。


 だが、0.2秒で人間はいろんなことができる。例えば、会話において話者が交代する平均的な時間は、たった0.2秒だ。その間に、人間の脳内では高度な言語処理や駆け引きが行われている。文脈の理解、言葉の構造分析、意味の検索、そして次にくる言葉の予測という膨大なタスクを無意識にこなしているのだ。


 ーー話がそれた。ともかく、この超常的なシチュエーションで、私の脳はフル回転し、たった一つの「最適解」を弾き出した。


 今からできる挽回……これしかない。

 目には目を、歯には歯を。

 ーー被害者ムーブには被害者ムーブだ!


「きゃあああああああ!!」


 私は鼓膜を破らんばかりの悲鳴を自ら上げながら、ドレスの裾を蹴り上げ、ハンムラビ法典もびっくりな土壇場の脚力で大理石の床を強く蹴った。そして、重力に従って落ちていく空中のミアよりもさらに速く、地面スレスレの弾道で自ら階段へと飛び込んだのである。


「えっ……?」


 自分が被害者として無様に落ちていく様を空中でニヤニヤと楽しんでいたミアは、自分を通り越して、彼女の背中の下へと凄まじい勢いで滑り込んできた私の姿に、素っ頓狂な声を漏らした。私は階段の途中で体を捻り、彼女の体を下から完全にクッションとなって受け止める形になる。


ガタタタガシャーン!!


 鈍い衝撃が背中を走り、派手な音を立てて私たちは階段を転がり落ちていった。全身の骨が軋み、どこかで思い切り頭を打ったような熱い痛みが走る。それでも、私は必死に腕を回し、ミアの頭部だけは硬い石の角からガードし続けた。彼女に少しでも怪我をさせれば、私の「殺人未遂」が成立してしまうからだ。


「痛っ……」


 階段の下まで転がり落ち、ようやく回転が止まった。凄まじい音を聞きつけて、旧校舎のあちこちから生徒たちが集まり、あっという間に人だかりができた。


「嘘……なんで……」


 私の上に重なるようにして倒れていたミアが、無傷の体を起こし、ポカンと口を開けて言葉を失っている。

 一方の私は、全身の痛みで立ち上がることもできなかった。なんとか力を振り絞って上半身を起こすと、額からぬるりとした生温かい感触が伝わり、視界の端が赤く染まった。どうやら、転げ落ちる途中で頭を切ったらしい。

 頭から血をポタポタと流している公爵令嬢。あまりのホラーな光景に、駆けつけた数人の線の細い令嬢が悲鳴を上げて気絶しそうになっていた。


「何があった!!道を開けろ!!」


 ざわめく人混みを強引に掻き分けて飛び出してきたのは、深い群青の髪を持つ長身の青年だった。


「ギルバート様!!」


「痛っ」


 その姿を見るや否や、ミアはハッとして我に返り、私を押しのけて立ち上がると、彼のもとへ駆け寄った。なるほど、あれが私の婚約者のギルバート王太子なのか、と血塗れの頭でぼんやりと理解する。何年も会っていなかったため、成長した彼の顔を私は今の今まで知らなかった。

 前世の親友は王太子推しでは無かったため、ゲームでもどんな顔をしていたか上手く思い出せなかったのだ。


 ギルバート様は、顔を青ざめさせ、王族とは思えないほどにめちゃくちゃに必死で焦った表情をしていた。


(あぁ、やっぱり愛しのヒロインが心配なんだわ……)


 私がそう思い目を伏せた瞬間、ミアのお決まりの演技が始まった。


「ギルバート様ぁっ!エルメリア様が、私を階段から突き落としたのです!本当に怖くってぇ、私、死ぬかと思ったのです〜!!」


 目に嘘泣きの涙を浮かべ、王太子の腕にすがりつこうとするミア。しかし、次の瞬間。


「触るな。黙れ、この脳無し女が!!」


 旧校舎の空気が凍りつくような、絶対零度の声が響き渡った。

 ん?今、「脳無し女」って言った?殿下、口悪すぎません?え、相手は愛しのヒロインじゃないの?


「……え?」


 ミアの動きがピタリと止まった。彼女がすがりつこうとした腕は無惨にも払いのけられ、ギルバート様は彼女を一瞥すらせず、私の元へと一直線に駆け寄ってきた。


「エルメリア!大丈夫か?!血が出てるじゃないか!!」


「……えっと、殿下?」


 ギルバート様は泥や血で汚れるのも構わず大理石の床に膝をつき、震える手で私の体を抱き起こした。


「俺の選択が間違っていたのか……すまない、こんなに怪我をさせてしまって……!」


「え、あの、本当に殿下、ですよね……?」


 痛む頭で状況が飲み込めず唖然とする私をよそに、ギルバート様の瞳に冷酷な怒りの炎が宿った。彼は私を優しく抱えたまま、ゆっくりとミアを睨みつけた。


「ギルバート様……?なぜ、その女を庇うのですか?私、突き落とされたんですよ!?ギルバート様は私のことが好きで、その悪役令嬢を嫌っているはずじゃ……!」


 混乱したミアが金切り声を上げる。しかし、ギルバート様は鼻で笑った。


「好き?嫌っている?妄想も大概にしろ、ミア・レーシェル男爵令嬢。俺は貴様をただの一介の同級生として、最低限の礼儀で接していたに過ぎない」


「なっ……!?」


「行く先々で待ち伏せをし、公衆の面前で過剰に付き纏ってくる貴様に、俺がどれほど迷惑していたか。……まさか、俺が何度注意しても全く通じなかったのは、それすらも『自分に惹かれている』と都合よく脳内変換していたからか?」


「そんな!だって私、ヒロイン……ッ!いえ、これまでだってエルメリア様は私をいじめて……」


「白々しい嘘をつくのもいい加減にしろ。貴様が故意にエルメリアの評判を落とそうと暗躍していたことなど、とうの昔に調べがついている」


「なっ……!?」


 ギルバート様の氷のような視線に射抜かれ、ミアは後ずさる。


「教科書が汚された事件。あれは貴様が金で雇った下働きのメイドにエルメリアのハンカチを盗ませ、現場に置かせたものだったな。そのメイドはすでに拘束し、自白も取れている。お茶会のドレスの件も、貴様が自分でハサミを入れた痕跡が残っていた。中庭の件に至っては、複数の死角からの目撃証言を集め、エルメリアが一切口を開いていなかったことを確認済みだ」


「ち、違います!全部エルメリアさんがやったんです!私は被害者です、ギルバート様、信じてください!私たち、結ばれる運命なんですよ!?」


「運命だと?虫唾が走る。貴様のような自己中心的な虚言癖の女と、俺が結ばれるなどあり得ない」


 ギルバート様は汚物でも見るかのようにミアを冷たく見下ろした。


「大体、エルメリアがお前をいじめる理由がどこにある?家柄も、容姿も、教養も、お前より遥かに優れている彼女が、わざわざ自分の手を汚してまで底辺の男爵令嬢に構うメリットが一つでもあるとでも思っているのか?」


「あ……あぁっ……」


「お前の浅薄な工作など、とっくの昔に見透かされていたのだ。証拠が完全に揃うまで泳がせておいただけのことも理解できず、いい気になって悲劇のヒロインを演じていた気分はどうだ?」


 容赦ない正論と事実の刃で何度も切り刻まれ、誇りをズタズタにされたミアは、ついに床にへたり込んだ。私も驚きのあまり声が出なかった。ギルバート様はずっと私を避けていたはずなのに、なぜそこまで詳細に私の無実を裏付ける証拠を集め、私を庇ってくれるのだろうか。


「そ、そんなの捏造です!今だって私、本当にエルメリアさんに殺されそうになったんですよ!!」


 往生際悪く喚き散らすミアの前に、絶妙なタイミングでギルバート様の侍従が息を切らして駆けつけてきた。その手には、両手ほどの大きさの水晶玉が抱えられている。


「殿下、学園長から『記録水晶』をお持ちいたしました!」


「ご苦労。……さて、言い逃れはここまでだ、ミア・レーシェル」


 ギルバート様が指を鳴らすと、水晶が淡い光を放ち、空中に映像が投影された。生徒会長に就任したギルバート様が、学園内の死角をなくすために極秘で設置を進めていたという防犯用の魔導具だった。


「な、何それ?!そんなアイテム、シナリオにないわよ!!」


 パニックに陥ったミアが、意味不明な言葉を喚き散らす。投影された映像には、先ほどの階段の上のやり取りが、音声付きで生々しく映し出されていた。


『これで最後よ、悪役令嬢さん』


 そう言って、自ら後方へ飛び降りるミア。そして、すさまじい悲鳴を上げながら床を蹴り、ミアの下へと滑り込んで彼女の頭を必死に庇いながら転がり落ちる私の姿。


「見ろ。これが貴様の言う『突き落とされた』という事実か?」


 ギルバート様の声が、怒りで震えていた。


「自分が被害者ぶるために自ら階段に身を投げ出し、あろうことか、身を挺して助けてくれた相手に罪を擦り付けようとするとは。……エルメリアはお前を庇って、こんなにも血を流しているというのに!」


「ち、違う!私は悪くない!だってゲームの通りに……!」


「男爵家の分際で、公爵家の娘であり未来の王太子妃であるエルメリアに危害を加え、名誉を不当に貶めた罪は重い。学園の退学は免れない。いや、貴様のような危険人物は、修道院の地下牢で一生祈りを捧げさせるのが妥当だろうな」


「い、嫌よ!離して!!嘘よ、私はヒロインなのよ!!ギルバート様は私と結ばれる運命なんだから!!」


 衛兵たちに取り押さえられ、狂乱状態で見えない何かに叫びながら引きずられていくミア。周囲の生徒たちからは、もはや同情ではなく、確かな軽蔑と嫌悪の眼差しが向けられていた。その哀れな声は、やがて遠くへと消えていった。


「……エルメリア、大丈夫か?今すぐ医務室へ運ぶからな」


 嵐が去った後、ギルバート様は先ほどまでの冷酷さが嘘のように、ひどく甘く、心配そうな声で私に話しかけてきた。


「ギルバート、様……」


 私を見つめる彼の瞳は、ひたすらに優しかった。ああ、あなたが私の婚約者なのね。ずっと冷たい人だと思っていたけれど、本当は私のこと、ちゃんと見ていてくれたのね。誤解も解けたし、もう少し、あなたとおしゃべりしてみたかっ……。


 張り詰めていた糸が切れたように、視界が急速に暗転していく。「エルメリア!」と私の名前を呼ぶ彼の焦った声を最後に、私は深い意識の底へと沈んでいった。



*****



 エルメリアが気を失った後、ギルバート・フォン・オルディス王太子は、生きた心地がしなかった。


 救護室の清潔なベッドで、規則正しい寝息を立てるエルメリアの寝顔を見つめながら、彼は深く、深く安堵の息を吐き出した。包帯を巻かれた額が痛々しいが、学園の専属医によれば軽い脳震盪と頭部の浅い裂傷だけで、後遺症の心配はなくすぐに目覚めるだろうとのことだった。血だらけの彼女を抱き上げた瞬間は、心臓が凍りつくかと思った。


 ギルバートには、前世の記憶があった。日本のしがない男子学生だった彼は、前世の姉が『月下に咲く恋の協奏曲』という乙女ゲームを狂ったようにプレイしているのを、横でずっと見せられていた。おかげで、シナリオから隠しイベントに至るまで、内容をすっかり記憶してしまっている。


 自分がその乙女ゲームのメイン攻略対象である「王太子ギルバート」として転生したと自覚した時、彼の脳裏には『ヒロインとの甘い恋』など微塵も浮かんでいなかった。 彼の心を歓喜と共に支配したのは、ただ一つの事実だけだ。


(……本物の、エルメリア・ローゼンバーグだ!!)


 十歳の顔合わせの日。ギルバートは内心、歓喜のあまり狂喜乱舞していた。前世の彼は、ヒロインをいじめる高飛車で不器用な「悪役令嬢・エルメリア」のビジュアルとキャラクター性が、たまらなく好きだったのだ。いわゆる「推し」である。その最愛のキャラクターが、今世では自分の婚約者として目の前にいる。まさに天にも昇る心地だった。


 問題は、その後だ。学園に入れば、ゲームのシナリオが動き出す。ヒロインと王太子が親しくなり、悪役令嬢が嫉妬に狂い、断罪イベントへ進む。


 ギルバートは考えた。だったら、自分が彼女と距離を置けばいいのではないか、と。

 政略結婚である以上、婚約が簡単に覆ることはない。エルメリアが嫉妬に狂わず、学園でヒロインを虐めなければ、彼女が断罪されることはないのだ。学園を卒業してシナリオ期間さえ終われば、あとは好きなだけ婚約者として、将来の妻として、エルメリアを大切にできる。


 ところが、しばらくして妙な噂が流れ始めた。「エルメリアが、男爵令嬢ミアをいじめている」といったものだ。あまりにテンプレートすぎる話に、ギルバートは頭を抱えた。もしや強制的にシナリオが始まってしまっているのか、と。


 だが調べさせると、すぐにおかしな点がいくつも出てきた。目撃証言は数多くあるものの、肝心の『エルメリアが直接手を下す瞬間』を見た第三者が誰一人としていないのだ。ミアの被害だけが一方的に語られ、それなのにエルメリア側の行動には一貫性がある。むしろ、意図的に接触を避けている節すらあった。


 決定的だったのは、ミアが時折漏らす言葉だ。『攻略対象』『イベント』『好感度』――。前世持ちである可能性は高かった。しかも、その知識を利用して他人を陥れようとしている。

 ギルバートは不快感を隠せなかった。だが同時に、シナリオの強制力も怖かった。前世の知識がある自分ですら、どこまで抗えるのかわからない。だからギルバートは、ミアに対してはただの一介の同級生として、最低限の礼儀で接し続けた。行く先々で待ち伏せをし、あからさまに付き纏ってくる彼女にウンザリしていたが、下手に手を出してシナリオが暴走するのが恐ろしかったのだ。


 表向きは無関心を装いながら、裏で確実な証拠を集め続けた。いざという時にエルメリアを完璧に守り抜けるよう、生徒会長の権限を乱用して”防犯目的”の「記録水晶」まで学園に設置し、万全の態勢を整えていた。


 だが、今日。旧校舎の階段の底で、エルメリアが血を流して倒れているのを見た瞬間、ギルバートの冷静な計算はすべて吹き飛んだ。


 ゲームのシナリオ通りなら、突き落とす側のエルメリアは無傷のはずだったのだ。自分が距離を置いたせいで、彼女をあんな危険な目に遭わせてしまったのか。激しい後悔と自己嫌悪が押し寄せた。だからこそ、あそこですべてを終わらせた。公爵令嬢であり未来の王太子妃に冤罪を着せ、あまつさえ怪我まで負わせたのだ。男爵家の娘風情が犯した罪としては、退学はもちろん、修道院行きでも生温かいほどの重罪である。


 それにしても……。ギルバートはベッドの傍らに座り、回収した記録水晶の映像を思い返して、思わず口元を手で覆った。


(なんでいきなり、エルメリアも身投げしたんだ?)


 常日頃から悲劇のヒロインを気取り、周りを巻き込んで被害者ムーブをかますミア。そんな彼女に対し、わざわざ自分から階段へダイブし、身を挺して彼女のクッションになるという「さらに上をいく大・被害者ムーブ(物理)」を叩きつけたエルメリア。


 痛快だった。不器用ながらも自分なりの悪知恵をフル回転させ、強引に運命のシナリオをねじ伏せた彼女の姿。泥臭く、なりふり構わず、それでも決してただではやられないその気高さは、ギルバートの愛する「悪役令嬢」としての解釈と完全に一致していた。

 最高だ。やはり自分の目に狂いはなかった。


「ん……」


 不意に、ベッドの上でエルメリアが身じろぎをして、ゆっくりと美しい紫の瞳を開いた。


「気がついたか、エルメリア」


「ギルバート、様……?ここは……」


 寝起きのぼんやりとした顔で、戸惑うようにギルバートを見つめるエルメリア。あぁ、可愛い。今すぐ抱きしめたい衝動をなんとか理知で押さえ込み、ギルバートはできるだけ優しく彼女の手を握った。

 これまでは彼女を守るために、心を鬼にして会わないようにしてきた。だが、邪魔者はもういない。隠す必要も、我慢する必要もなくなったのだ。


「すまなかった、エルメリア。ずっと君に寂しい思いをさせて」


「え……あ、あの……」


「これからは、今まで会えなかった時間を埋めるように、君の傍にいるよ。……覚悟しておいてくれ。俺は君が思っている以上に、君のことが好きなんだ」


 突然の甘い言葉に、エルメリアの顔がポンッと音を立てるように真っ赤に染まった。 前世からの最愛で、世界で一番愛おしい彼だけの悪役令嬢。彼女が二度と不安な顔をしないよう、これからは思い切り甘やかして、たっぷり溺愛してあげないとな。


 ギルバートは、愛しい婚約者の手の甲に、深い誓いの口づけを落とした。


お読みいただきありがとうございました!

少しでも面白かった!と思っていただければ、★評価、ブクマしていただけると大変励みになります!


(補足)

いくら断罪回避のためとはいえ、ガン無視はひどくね・・・?とも思うのですが、王家と筆頭公爵家の政略的な婚約はかなり強固なもので、本人の気持ちや多少の事でどうこうなるものではありません。だからこそ「シナリオの強制力」を何よりもギルバートは恐れていました。無視した結果、好感度氷点下からのスタートを覚悟で。でも、エルメリアの前世の記憶&階段事件で好感度もリセットされ、結果的に救われたのはギルバートの方でしたね。

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― 新着の感想 ―
記録水晶! そんな文明の利器があったのなら、エルメリアはしなくても良い怪我をした事に…… なんて事だ(´;ω;`)
流石に避けすぎだろやりすぎだよと思ってましたけど、元々一介の男子学生だったなら自分の影響力を低めに見積もっちゃっててもおかしくはない…かなあ…。 エルメリアが強制力とかの話が通じる転生者になってなかっ…
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