「結婚だけが女の幸せ!」って、一体誰が言ったのです?
"聖女"という響きから、人々はどのような姿を想像するだろうか。
純白のドレスに身を包み、神々しい光と共に奇跡を起こす……そんな夢物語を思い描く人も多いかもしれない。
しかし、王都の外れにあるこの教会で聖女として働く私、マリエッタ・ジールズに言わせれば、現実は全く違う。聖女の主な仕事は、怪我人や病人の看護、炊き出し、そして教会内の清掃といった、地道な体力仕事ばかりなのだ。
泥にまみれ、汗を流すのが私たちの日常である。
癒やしの力が使える者もいるにはいるが、万能ではない。軽い傷や熱ならともかく、重傷者ひとりを癒やせば一日動けなくなる者だって珍しくなかった。
だからこそ、高位貴族の令嬢が聖女になることはまずない。
在籍しているのは、平民か、よくて男爵や子爵家の次女や三女といったところだ。
それでも、聖女という職業は一定の人気がある。なぜなら、「神に仕え、人々に奉仕した」という経歴が、結婚の際の箔付けになるからだ。
もちろん、純粋に人々への奉仕と看護を目的として働く者もいる。私が尊敬してやまない現・聖女長様がそうだ。
御年五十を超える彼女は、生涯独身を貫き、深い慈愛をもってこの職務に全身全霊を捧げている。
私もいつか、あの方のような立派な聖女になりたいと願っていた。
……だが、同期の中には全く違う価値観を持つ者もいるわけで。
「やっぱり、女の幸せって結婚よね!」
教会の食堂。私と、もう一人の同期であり親友のシエラ・レイモンドが向かい合って昼食をとろうとしていた席に、招かれざる客が割り込んできた。クロエ・アボットだ。
彼女は最近、とある男爵家の跡取りに見初められて婚約したばかりで、すっかり有頂天になっていた。
むげに追い払うこともできず同席を許してしまったが、さっそく彼女の独壇場が始まってしまった。
「ねえ聞いて。こないだコルネル様のお母様に会ったのだけど、もう大変で。お茶の持ち方がどうとか、立ち居振る舞いがどうとか、細かくて細かくて」
ため息をつきながらも、その顔はニヤニヤと笑っている。見事なまでの自虐風自慢だ。
「まあでも、私は男爵家に嫁ぐんだもの。仕方ないのかもしれないけど。彼も彼で、早くきちんとしたマナーを身につけてほしい、なんて言うのよ。ひどくない?」
ひどいだろうか、と私は思った。
むしろ、男爵家の跡取りの婚約者になるのなら当然の話ではないか。
「将来領地を治めるなら、マナーを学ぶのは真っ当なことじゃない?」
私が正論を口にすると、クロエは面白くなさそうに唇を尖らせた。
「マリエッタってたまに、そういうところあるわよね。すぐ正論っぽいこと言うの。実際に選ばれる側になったことがない人には、わからないのでしょうけど」
その言葉に、隣のシエラが露骨に顔をしかめた。けれどクロエは気づかないふりで、わざとらしくため息をつく。
「あーあ。せっかく貴族になれるって婚約したのに、マナーだの何だの口うるさく勉強しろって言われるなんて、憂鬱だわ。領地経営なんて男爵様がやればいいじゃない。私は優雅にお茶を飲んでいればいいのよ」
いや、男爵夫人になるならそういうわけにはいかないと思うのだけれど……。私が反論する前に、クロエの矛先は別の方向へ向かった。
「もう、早く仕事から上がって結婚したいわ〜。女の幸せってやっぱ、結婚して家庭に入ることじゃない?いつまでもこんな泥臭い仕事してられないわ。……聖女長様みたいには、絶対になりたくないわよねぇ。あんな年まで一人身で働き詰めなんて、ちょっと可哀想〜」
「ちょっと、クロエ。聖女長様を侮辱するのはやめて。結婚だけが女の幸せじゃないわ。あの方はご自分の意志で……」
「はいはい、強がっちゃって。あんたたちも、早く相手を見つけないと行き遅れるわよ?私みたいに、器量で勝負できるうちにね!」
クロエは勝ち誇ったように鼻で笑う。シエラは困ったように微笑みながら、テーブルの上で私の袖を軽く引いた。波風を立てないようにという彼女なりの気遣いだろう。
「……あのね、実はマリエッタに報告しようと思っていたことがあるの」
シエラがおもむろに口を開いた。
「私、結婚することになったの」
「えっ」
私はぱっと顔を輝かせた。シエラは控えめな性格で、恋愛の話など聞いたことがなかったから、友達としてとても嬉しい報告だった。
「本当に?おめでとう、シエラ!」
「ありがとう」
シエラは照れくさそうに笑ったが、その笑みはすぐにぎこちなく曇った。隣のクロエが、目を見開き、矢継ぎ早に質問を重ねたからだ。
「相手は誰!?どんな人!?商人?それともどこかの騎士?」
身を乗り出して根掘り葉掘り聞き出そうとするクロエ。自分より格下の相手だと信じ切っているような響きがあった。シエラは少し言いにくそうに、しかし頬を赤く染めて答えた。
「先日、貧民街への炊き出しの任務に行った時にお手伝いしてくださった方で……その、ルーヴ子爵家の令息様なの」
「……は?」
クロエの顔が引きつった。男爵家より格上の、子爵家。しかも令息直々の申し出だという。
「ふ、ふーん、じゃあ、仕事は辞めちゃうんでしょ?貴族の妻になるんだし!」
「ううん。彼が家督を継ぐまでは、私も聖女としての仕事を続けたいって言ったら、彼も賛成してくれたの。少しでも多くの人を助けたいから」
「へ、ヘぇ〜……そうなんだ。物好きねぇ……」
クロエの笑顔は完全にピキッていた。目元がヒクヒクと痙攣している。その後の昼食は妙に気まずく、クロエばかりが喋っていた。
けれど、その笑顔の端に滲む苛立ちは、どう取り繕っても隠しきれていなかった。
*****
それから数日後。クロエは露骨にシエラを避けるようになり、私を捕まえては陰口を叩くようになった。
「シエラったら、子爵家に嫁ぐからって最近調子に乗ってるわよね!どうせ自分から必死に言い寄ったに決まってるわ。はしたない!」
(いや、向こうから見初められたって言ってたじゃない……)
内心でツッコミを入れつつ、私は適当に聞き流していた。
「仕事も続けます〜って。子爵家に嫁ぐなら、嫁ぎ先に専念すればいいじゃない。結局、欲張りなのよ。家柄も欲しいし、聖女としての評判も欲しい。ああいうのって、したたかって言うのよ」
私は手を止めた。
「あなた、自分が婚約した時に、女の幸せは結婚だと言ったでしょう。なら、シエラが望む形の結婚をすることに、どうして文句を言うの」
「だって、感じが悪いもの」
感じが悪いのはどっちだろう、と思ったが、口には出さなかった。
クロエは自分より"上"に行きそうなものが現れると、途端に落ち着きをなくす。きっと彼女は、祝福より先に比較してしまうのだ。
誰の婚約相手が上か。どの家に嫁ぐか。どれほど羨ましがられるか。その物差しでしか、自分の幸せを測れない。そう思うと、少しだけ哀れにも見えた。
しかし、クロエの機嫌はすぐに直った。いや、直ったというべきか、以前よりもさらにタチの悪い自慢を始めたのだ。
「困っちゃうのよねえ」
薬草の仕分けをしていた私とシエラのところに来るなり、彼女は頬に手を当ててみせた。
「また何かあったの?」
シエラが訊くと、クロエは待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「このあいだの任務先で、伯爵令息様と知り合ってしまって」
「……は?」
私は思わず素の声を出した。
「すごく素敵な方なの。物腰は柔らかいし、私が聖女だって知ったら、そんな清らかな人に初めて会った、なんて。もう、口説かれてるのかしらって思うくらいで」
「婚約者がいるのに?」
ぴしゃりと言うと、クロエは目を瞬かせた。
「だから困ってるって言ってるじゃない。モテる女も大変なのよ?」
まるで反省の色がない。
シエラは眉をひそめたが、何も言わなかった。私だけが、胸の底に小さな嫌悪を覚えていた。
男爵家の跡取りとの婚約を、自分の価値を示す勲章のように見せびらかしていたくせに、今度は伯爵令息に言い寄られていると吹聴する。
もしそれが本当なら、なおさら慎みが必要だろうに、なぜかクロエはむしろ誇らしげだった。
*****
悲劇(喜劇?)は、それから一ヶ月後に起きた。
ある晴れた日の午後。聖女の仕事の合間に教会の庭で休憩していた私たちの前に、見慣れない馬車が乱暴に停まった。中から血相を変えて飛び出してきたのは、クロエの婚約者であるコルネル男爵令息だった。
「クロエ・アボット!!そこにいるな!!」
怒号が教会の庭に響き渡る。周囲の聖女や神官たちが何事かと集まってきた。
「コ、コルネル様!?どうしてここに……」
驚くクロエに向かって、男爵令息は紙束を叩きつけた。
「とぼけるな!貴様が街で別の男と腕を組んで歩いていたという報告が、多数上がっている!探偵を雇って調べさせたら、見事に浮気三昧ではないか!」
「ち、違います!あれはただの友人で……」
「言い逃れはさせん!貴族としての自覚もマナーを学ぶ気もなく、あろうことか不貞を働くような女を妻に迎えるわけにはいかない。貴様との婚約は、たった今破棄させてもらう!!」
見事な婚約破棄宣言。周囲からざわめきが起こる。しかし、クロエは一瞬青ざめた後、すぐにふんぞり返って言い放った。
「っ……ふん、いいわよ!破棄でもなんでもすればいいじゃない!どうせ私には、もっと身分の高い方がいるんだから!」
「なに?」
「聞いて驚きなさい!私の新しい恋人は、伯爵家の令息様よ!あなたみたいなケチな男爵家なんか、こちらから願い下げよ!」
そう言い放った瞬間、タイミング良く教会の門から一人の若い男が入ってきた。身なりの良い、甘いマスクの青年だ。
「あっ、ルルー様!ちょうど良かったわ!」
クロエは満面の笑みで青年に駆け寄り、その腕に抱きついた。
「聞いてください!この男爵が、私を不当に婚約破棄してきたんです!やっぱり私にはあなたしかいないんだわ。真実の愛の力、見せつけてやりましょう!」
男爵令息は目を丸くして青年を見た。
「……お前が、伯爵令息だと?」
青年は、クロエと男爵令息、そして周囲の冷ややかな視線を浴びて、サーッと血の気を引かせていた。
「あ、いや、あの……」
「ルルー様?どうしたんですか?」
不思議そうに見上げるクロエ。青年は耐えきれなくなったように、クロエから距離をとった。
「ご、ごめん!嘘なんだ!」
「……え?」
「俺、伯爵令息なんかじゃなくて……伯爵家に出入りしてる商会の手伝いで。旦那様にはまあ、それなりに可愛がってもらってるけど……。クロエさんが勝手に勘違いしたっていうか、俺も、その場のノリで否定しそびれたというか……」
教会の庭が、水を打ったように静まり返った。「は……?」クロエの口から、間の抜けた声が漏れる。
「で、でも俺、君のことは本当に好きなんだ!俺と結婚してくれ!一緒に小さな店を持とう!」
偽・伯爵令息(ただの平民)は必死にプロポーズするが、クロエの耳には届いていないようだった。
「へ、平民……?嘘よ、だって、あんなに羽振りが良くて……」
「だからそれは、見栄を張って借金して……」
「いやあああああああああ!!」
クロエの悲鳴が王都の空に響き渡った。
「ク、クロエさん!泣かないで!借金は二人で働けばすぐに返せるから!ね!?」
「触らないでよ、この貧乏人!私に気安く話しかけないでぇぇ!!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして男を叩き出すクロエと、必死にすがりつく偽伯爵令息。
教会の神聖な庭で繰り広げられるあまりにも泥臭い痴話喧嘩に、集まった野次馬たちはドン引きし、誰もが静かにその場から後ずさった。
その日のうちに、事態はあっけなく幕引きを迎えた。
結局、クロエは男爵家からの多額の慰謝料請求を抱え、教会からも「不祥事による品位を貶めた行為」として解雇された。平民の彼からのプロポーズも当然のように断り、実家からも勘当され、どこか遠くの街へ夜逃げ同然で消えていったという。
私はというと、相変わらず忙しい日々を送っていた。
洗濯物は減らないし、薬草はすぐ足りなくなるし、診療所では今日も誰かが咳をしている。華やかさとは無縁の毎日だ。
けれど、不思議と前より心は軽かった。
同期が婚約したからといって、自分が取り残されたわけではない。結婚する者にはその道があり、働き続ける者にはその道がある。ただそれだけのことだ。
ある日の夕暮れ、仕事を終えた私は、中庭のベンチで一息ついていた。
そこへ、シエラが温かいお茶を二杯持ってやってくる。
「はい。今日もお疲れさま」
「ありがとう」
湯気の向こうで、シエラはふっと笑った。
「ねえ、マリエッタ。前にあなたが言ってくれたでしょう。結婚だけが幸せじゃないって」
「言ったわね」
「あれ、すごく嬉しかったの。わたし、婚約は嬉しいけど、仕事を手放したくはなかったから」
私は小さく目を見開いた。
「そんなふうに思ってくれていたのね」
「うん。だから、わたしも思うの。結婚するのも幸せ、仕事を頑張るのも幸せ。どっちかじゃなくていいんだって」
それは、私が心のどこかで欲しかった言葉だった。
見上げれば、夕焼けに染まる空の下、回廊を聖女長が歩いている。変わらず忙しそうで、けれど背筋はしゃんと伸びていた。
誰かに選ばれることだけが価値ではない。誰と生きるかも、どう生きるかも、自分で選べる。そのことが、今の私にはよくわかる。
「ねえ、今度のお休み、一緒に街へ行かない?」
シエラが言った。
「婚約祝い?」
「それも嬉しいけど、たまには普通に遊びたいの」
私は笑った。
「ええ、行きましょう」
結婚だけが女の幸せだと、あの人は言った。
けれど本当は、幸せはもっと静かで、もっと自由なものなのだろう。少なくとも私は、そう信じられるようになっていた。
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---追記---
勝手に伯爵令息だと勘違いしたのはクロエだけど、ルルーも否定せずデートを重ねていたし、コルネル男爵令息もそれを知ることになってしまったので、ルルーは商会をクビになりました。
コルネル男爵令息も不憫ですよね。マリエッタとくっついたりするのかな。




