病弱な幼馴染を優先する婚約者へ。で、彼女は何の病気ですの?
芳醇なダージリンの香りが、午後のサロンにゆるやかに満ちていた。
磨き上げられたティーテーブルを挟んで向かいに座る婚約者、オリバー・ジェラストンは、落ち着かない様子で何度も壁の時計へ視線をやっている。私とのお茶の席だというのに、その心はもう別の場所にあるのだと、隠そうともしない態度だった。
その行き先がどこなのか、私にはとっくに分かっている。
「オリバー様。今日も幼馴染のフェラシアさんのお見舞いに行かれるのですか?」
静かに問いかけると、彼は一瞬だけばつが悪そうな顔をしたものの、すぐに「仕方のないことだ」とでも言いたげな表情を作って頷いた。
「ああ。悪いね、ルリエラ。けれど、あの子は本当に身体が弱いんだ……今も熱が下がらず苦しんでいるらしい。僕が顔を見せないと、すぐ不安になってしまうんだよ」
「まあ」
「君なら理解してくれるだろう?病人を見捨てるような真似はできない」
慈悲深い自分に酔ったような言い回しに、私は心の中だけで冷たく笑う。
私との約束を何度も破っておきながら、よくもそこまで立派な台詞が吐けるものだ。
『フェラシアは俺がいないとだめなんだ』『ルリエラは強いから、僕がいなくても大丈夫だろう?』そんな尤もらしい事を言いながら、オリバーはいつも幼馴染を優先し、私を蔑ろにし続けた。以前は注意した事もあったが『ルリエラがそんな冷たい女だとは思わなかった!』と怒鳴られてから、私はもう彼を諭す事をやめた。
「ええ、もちろんですわ。オリバー様はお優しいのですね」
そう返しながら、私はティーカップをソーサーへ静かに戻した。
「ですから、今日はぜひお伺いしたいことがあるのです」
「……伺いたいこと?」
私は何気ない顔で首を傾げる。
「フェラシア様は、何のご病気ですの?」
オリバーはパチリと目を瞬いた。
「ですから、ご病名ですわ。そこまで熱心にお見舞いなさっているのですもの、当然ご存じなのでしょう?」
「いや、その……詳しいことは聞いていない。ただ、ずっと熱が続いていて、ひどく弱っていると……」
「まあ」
私はわずかに目を見開いた。
「何の病気かもご存じないまま、あれほど頻繁にお見舞いへ通っていらしたの?」
オリバーが口を閉ざす。そこで初めて、自分の答えがどれほど不用心なものだったか気づいたらしい。
「それは……フェラシアが僕を頼りにしているからだよ。病名なんて関係ないだろう。つらい思いをしている彼女を励ましたかっただけだ」
「本当に?」
私は穏やかな声のまま問い返した。
「もし、それが人にうつる病でしたら、どうなさるおつもりだったのかしら」
彼の表情がぴたりと固まる。
「たとえば空気感染するものだったら?あるいは原因不明で、まだ広がり方も分かっていない病だったら?貴方は何の警戒もなく彼女の部屋へ通い、そこからご自宅へ戻り、我が家へも顔を出し、社交の場にも出ていらっしゃるのよ」
「そ、そこまで大げさな話では――」
「大げさではありませんわ」
私は静かに言い切った。
「高位貴族の振る舞いは、そのまま周囲に影響を与えますもの。万が一、貴方が病を運び、屋敷や社交界へ広めるようなことがあれば、貴方お一人のお立場で済む話ではありませんでしょう?」
ようやく彼も、自分がただ「優しいことをしている」のではなく、ひどく軽率な行動を取っていた可能性に思い至ったようだった。目に見えて顔色が悪くなっていく。
「……フェラシアは、そんな……」
「でも、ご安心くださいませ」
私はにっこりと微笑んだ。
「あまりに心配でしたから、私の方で医師と調査できる者を手配して、フェラシアさんのご病気を調べさせていただきましたの」
「……は?」
オリバーの目が見開かれる。
「調べさせた?君が?」
「ええ」
私はあっさり頷く。
「感染の恐れがある以上、初動は早い方がよろしいでしょう?これは婚約者として当然の配慮ですわ」
彼の喉が、ごくりと鳴った。
顔色はすでに青を通り越して、灰色に近い。
「それで……結果が分かったのです」
「……っ」
「彼女も隠しておきたかったのでしょうね。お気の毒ではありますわ」
そこで私は、一拍だけ置いた。
「フェラシアさんの病は、花柳病(性病)でしたの」
がたん、と大きな音がした。
オリバーの手元で傾いたカップから、熱い紅茶が膝へと零れている。けれど、本人はそんなことも感じないらしい。ただ唖然としたまま、こちらを見つめていた。
「可憐で儚げな方に見えても、実際にはずいぶん華やかな交友関係をお持ちだったのですね。下町の酒場へも出入りし、複数の男性と深い仲になっていたとか」
「そ、そんな、馬鹿な……」
「ええ、公表できないのも無理はありませんわ。令嬢が性病だなんて、あまりに体裁が悪すぎますもの」
私はハンカチを取り出し、そっと膝の上に落ちた紅茶へ目を向けた。
「お召し物が濡れておりますわ。後でお着替えなさってくださいませね」
それから、まるでよい知らせを伝えるかのように、私は明るく言った。
「でも、本当に良かったですわ、オリバー様」
「……なに、が」
「花柳病は、空気でうつるものではありませんもの。飛沫感染もしませんし、ただ同じ部屋にいたとか、お見舞いに通ったとか、その程度ではまず感染しませんわ」
彼の喉仏が激しく上下する。
私はその変化を見つめながら、さらにやさしい声で続けた。
「つまり、『直接的な性的接触』さえなければ、何も問題はないということですわ。貴方はただ幼馴染を気遣って、お見舞いを続けていただけですものね。でしたら安心ですわ」
今度こそ、彼の顔から完全に血の気が失せた。唇がわなわなと震え、こめかみに汗が滲む。息の仕方すら分からなくなったのか、呼吸は浅く、肩が小刻みに上下していた。
その姿を見れば、もう十分だった。彼がフェラシアの部屋で何をしていたのか。
ただベッドのそばに座り、手を握って励ましていただけではないと、自白しているも同然だった。
「まあ……どうかなさいました?」
私は椅子から立ち上がり、彼のそばへ歩み寄る。
「ひどくお顔の色が悪いですわ。熱でもおありなのではなくて?」
「あ……あ、あ……」
「一応、明日にでも検査は受けてくださいませね。私の方でちゃんと手配しておきましたから」
「け、検査……」
「ええ」
私はそっと彼の肩に手を置いた。
「もちろん、疑っているわけではありませんのよ。でも、念には念を、ね?万が一、貴方がその病に罹っていたら……この婚約は即刻白紙になり、貴方はご実家からも勘当されるでしょうから」
びくり、と彼の肩が跳ねる。
私はそれを気にした様子もなく、するりと手を離した。
「それでは、私はこれでお茶会を失礼いたしますわ。フェラシアさんのお見舞い、どうかお気をつけて行ってらっしゃいませね」
私は優雅にカーテシーをして、その場を後にした。背後から聞こえてくるのは、乱れた呼吸と、歯の根が合わずにかちかちと鳴る、情けない音だけ。
けれど振り返りはしなかった。
彼がこれから一生抱える恐怖と後悔に比べれば、私のささやかな婚約破棄の手間など、安いものだ。
サロンを出た私は、廊下の窓から差し込む午後の日差しの中で、ひとつ静かに息を吐いた。あとは検査結果が彼を追い詰め、家同士の話し合いが婚約を終わらせる。私がわざわざ声を荒げて責め立てる必要など、最初からなかったのだ。
だって、最も彼を怯えさせるのは、私の怒りではない。
彼の体の中に、確かに入り込んでしまった“結果”そのものなのだから。
お読みいただきありがとうございます!短くサクッとざまぁシリーズです。自業自得ですね!
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---補足---
オリバーは伯爵家次男、ルリエラは伯爵家の一人娘。オリバーは婿入り予定でした。
フェラシアは男爵家令嬢、という設定でした。
「病弱な幼馴染を優先する男」って、寄り添ってる自分に酔ってるだけで、相手の病気とかそういうのに無頓着そうだなぁ・・・と思って生まれた作品です。




