一体いつから "自分に王位継承権がある" と錯覚していた?
「リーシェル・ガーラント、貴様との婚約を破棄する!」
王立学園の卒業記念舞踏会。その中心で、高らかにそう言い放った第一王子ルヴェインは、実に満足げな顔をしていた。
磨き上げられた大理石の床。天井から降り注ぐシャンデリアの光。華やかな衣装に身を包んだ貴族子弟たち。つい先ほどまで流れていた優雅な音楽はぴたりと止み、今や大広間を満たしているのは、好奇心と興奮のざわめきだけだった。
その視線の中心に立たされているのは、私――リーシェル・ガーラント。
そしてルヴェイン殿下の隣には、彼がここしばらく殊更に可愛がっていたマリリア男爵令嬢が、いかにもか弱げな顔で寄り添っている。今にも泣き出しそうに見えるその表情の奥に、うっすらと浮かぶ愉悦を、私はきちんと見ていた。
ああ、本当に。
どこまでも安っぽい茶番だこと。
「君はマリリアを嫉妬のあまり虐げ続けた!階段で突き飛ばそうとし、教本を隠し、茶会では彼女のドレスを汚した!このような陰険な女を、私は妃にはできん!」
わあ、と、いかにも舞台を盛り上げるためのどよめきが上がる。きっと殿下の取り巻きたちなのだろう。けれど私は、慌てもせず、泣きもせず、ただ静かに首を傾げた。
「……お言葉はそれだけですの?」
私が尋ねると、ルヴェイン殿下はむしろ勢いづいた。やはり、私が青ざめ、取り乱し、彼に縋ることを期待していたのだろう。残念だったわね。
「ま、まだあるとも!私は真実の愛を見つけたのだ!君のように冷たく、計算高く、女らしさの欠片もない婚約者など不要だ!私はマリリアと共に生きる!」
真実の愛。
最近、若い令息令嬢の間で流行っている言葉だ。責務も義務も投げ捨て、自分の好き嫌いだけを神聖なものとして飾り立てるのに、これほど便利な言葉はないのだろう。
「そして次期国王の名において、リーシェル・ガーラント!貴様を捕え、牢獄へ監禁する!」
その瞬間、私はとうとう堪えきれず、ふっと笑ってしまった。
その笑い声は思ったよりも大きく響いたらしく、広間が一瞬しんと静まり返る。ルヴェイン殿下の顔がみるみる赤くなった。
「……何がおかしい!」
「次期国王の名において。ですか。笑ってしまいますわ」
私はゆっくりと顔を上げ、彼をまっすぐ見た。
「何っ!」
私は、よく通る声で告げた。
「ルヴェイン殿下。――自分に王位継承権があると、いつから錯覚していましたの?」
*****
――数ヶ月前。
とある王宮の質素な一室で、机を並べて私と「彼」は一心不乱にペンを動かしていた。
「来ませんね」
「来ねえな」
そんな短い言葉を交わす。私たちは今、国の予算編成や各領地からの決裁書類という、本来であれば『王家がするべき仕事』を無心に処理していた。一緒に作業をしているのは、私の執事であるシャレムだ。
今日は「次期王妃教育」の一環だと言って、王妃様に王宮へ呼び出された。しかし、連れてこられたのはこの殺風景な部屋。そして、山積みの書類を指差して、王妃様はこう言い放ったのだ。
『今日中にこれを処理しなさい。これくらいできないようでは将来の王妃は務まらないわよ』
そう言って、さっさと去っていってしまった。
しかも今日は、本来なら十五時から、婚約者であるルヴェイン殿下との茶会がある日だった。王宮内での開催なのだから、殿下が迎えに来るのが礼儀である。けれど壁の時計はとうに十五時半を回っていて、未だに気配すらない。
「ま、いいんじゃねーの、お嬢。こうやって俺と二人で楽しく書類仕事ができるんだしさ」
冗談めかして笑うシャレムに、私はジト目で抗議した。
「本当に?こんなに書類仕事を手伝わされて、あの時祖国に帰ればよかった〜なんて思ってるんじゃない?」
「ねーよ。俺は、お嬢の隣にいるって誓ったからな」
シャレムは執事にしては口調が荒く、態度も砕けているけれど、幼い頃から一緒にいるせいで今さら改めさせる気にはならなかった。
褐色の肌に、月光を思わせる銀髪。そして燃えるような赤い瞳。……この国ではまず見ない容姿だ。
彼を拾ったのは、私がまだ子どもの頃だった。公爵邸の裏手で倒れていた異国の少年を見つけて、なぜかそのときの私は、「ちょうど執事が欲しかったの」と言って自分付きにしてしまったのである。今思えば、随分と無茶苦茶なお嬢様だった。
けれどシャレムはそのことをひどく恩に感じてくれていて、今もこうして側にいてくれている。
お母様を流行病で亡くした時、王妃となるための過酷な教育や、婚約者であるルヴェイン殿下からの無関心な態度。幼い心が折れそうになる度に、私を支えてくれたのは他でもないシャレムだった。
厳しいマナー講師の目を盗んで庭へ逃げ出す時は、いつも彼が見事な隠れ処を用意してくれた。深夜にこっそり厨房へ忍び込み、二人で甘い焼き菓子を頬張って笑い合ったこともある。私が淑女としての振る舞いを身につけ、彼が背の高い頼もしい青年へと成長していく中で、私たちは主従という枠を超えた、絶対的な相棒のような関係になっていった。
だからこそ、私が十三歳の時にシャレムが「長期休暇を願い出たい」と言ってきた時は、目の前が真っ暗になった。
聞けば、シャレムがある程度大きく、自力で長旅ができる年齢になったら、一度祖国へ戻って家族に生存報告をするという約束を、密かに私の父である公爵と交わしていたらしい。シャレムはその時、十七歳の誕生日を迎えていた。お父様も、彼がただの迷子ではなく、異国から不本意に連れてこられた事情のある子だということに気づいて、密かに帰郷の手筈を整えてくれていたのだろう。
頭では理解できても、心は追いつかなかった。私はてっきり、祖国へ帰った彼が家族の温かさに触れ、そのまま私の元へは戻ってこないのではないかと不安でたまらなかったのだ。彼がいない数ヶ月間、私は夜になるたびに自室でべそべそと泣いていた。
だから、約束の期限通りに少し日焼けした顔で帰ってきた彼を見たときは、思わず泣きながら力一杯抱きついてしまった。
『心配しなくても、俺の主はお嬢だけだよ』
曰く、彼の祖国「イスファラン」では、一度捧げた忠誠は絶対なのだという。詳しいことはよくわからなかったけれど、大きな手で私の頭を撫でてくれるシャレムが、これからもずっと私のそばにいてくれるのなら、それでいいと思った。
ルヴェイン殿下は、婚約者である私にいつだって棘のある態度を取った。
『利発すぎて可愛げがない』『女のくせに政務に口を出すな』『もっと男を立てる愛らしさを覚えろ』などなど。
お茶会に遅れることはしょっちゅうで、近頃では平気ですっぽかすようになった。王妃様も王妃様で、私に次々と実務を押しつけては、陰で値踏みするような目を向ける。
普通の令嬢なら、きっともっと傷ついたのだろう。
でも私は、不思議と平気だった。だって隣にシャレムがいる。
彼が一緒に文句を言い、手を動かし、私の代わりに怒ってくれる。
「……だから、私は大丈夫なのね」
「ん?」
「なんでもないわ。それより、この予算案。数字が合っていない。前年の備蓄量より多く配給したことになっているもの」
「マジか。よくそんなの気づくな」
「気づかないほうがおかしいでしょう」
私は赤を入れながら、小さく息をついた。
知っていたのだ。殿下がマリリア嬢と親しくしていることも。王妃様が私に政務を押しつけ、殿下を甘やかしていることも。そして殿下が、いずれ浅はかな真似をするだろうことも。
だから私は、すでに陛下に話を通していた。最悪の場合は、全てを明らかにすると。
けれど本当は、最後まで願っていたのだ。
どうか、ここまで愚かではありませんように、と。
*****
「錯覚ってなんだ!俺は次期国王だぞ!」
怒声で現実に引き戻される。どうやら彼は、私のほのかな期待をあっさりと裏切るほど愚かだったらしい。
「いいえ、違いますわ」
私は首を振り、扇を閉じてまっすぐにルヴェイン殿下を見据えた。
「……殿下がマリリア嬢と浮気していたのは知っていました。だから内々で穏便に済ませようと準備を進めていたのに……こうして公の場で騒ぎ立てたのはあなたですよ。――これより私が明かす真実は、すべて国王陛下の御了承を得ておりますわ」
「な、なにを……!」
「そもそも、不思議に思ったことはありませんか?兄弟がいるわけでもないのに、なぜルヴェイン様は『王太子』ではなく『第一王子』という肩書きのままなのかと」
周囲の貴族たちが、ハッとしたように息を呑む。ルヴェイン殿下は眉間に皺を寄せて私を睨みつけた。
「それは、ルヴェイン様が国王陛下の子ではないからですわ」
「……は?」
「お母様から聞いていないのですか?あなたは、王妃様が浮気をしてできた子なのですよ」
ざわっ、と会場の空気が震えた。
「な……っ!嘘をつくな!!」
「嘘ではありません。王家のスキャンダルをみすみす外に漏らすわけがありませんから、内密にされていたのです。そもそも陛下は、御身体の事情で子を成せないのです。だからあなたは“王妃の産んだ子”として王宮に留め置かれはしたものの、正式な王太子にはなれなかった」
信じられないという顔で、ルヴェイン殿下が後ずさる。
「つまり、ですね」
私は大きく息を吸い込み、よく通る声で宣言した。
「現在、この国での王位継承権第一位を持っているのは、この私、リーシェル・ガーラントですのよ」
私の亡き母は、現国王陛下の妹君にあたる。一応私にも王家の血が流れているし、現時点で王の親族の中で一番血が濃いのは私だ。
「ルヴェイン殿下に王の血は流れていませんが、継承権を持つ私と結婚することで、その正当性を補う予定だったのです」
「そんな……馬鹿な……」
「ま、でも、その話もルヴェイン様がマリリア嬢と浮気して、私にご自身のやるべき業務まで押し付けた時点で、とうに立ち消えていましたけれどね」
「なっ……」
私は冷ややかに告げる。
「あ、そういえば王妃様も、そろそろ王宮の奥で近衛騎士団に捕えられているんじゃないですかね。不貞の罪と、国家反逆の疑いで」
「なんでだ!どうしてこんなことをするのだ!」
ルヴェイン殿下が髪を振り乱して叫ぶ。
「そんなこと言われたって、元々は内々で処理するって言ってたじゃないですか。あなたがこんな夜会の中心で婚約破棄騒動なんて起こさなければ、この話も表沙汰になることはありませんでしたわ。……次期女王となる私に、少しでも変な噂が付き纏うのは、よくないですからね。きっちり誰が悪いのか、皆様の前ではっきりさせませんと」
血の気を失い、呆然と立ち尽くすルヴェイン殿下。しかし、彼はまだ諦めていなかった。まるで溺れる者が藁を掴むように、隣で震えるマリリア嬢の肩を乱暴に抱き寄せ、私を指差した。
「う、嘘だ!そんなでたらめが通用すると思うな!百歩譲って血筋の話が事実だとしても、お前のその悪逆非道な振る舞いは許されるものではない!」
「悪逆非道、ですか?」
「そうだ!お前は嫉妬に狂い、マリリアをいじめた!弱き者を虐げるような女が、女王になれるはずがない!そうだろう、マリリア!」
水を向けられたマリリア嬢は、ビクッと肩を揺らした後、これ幸いとばかりに大粒の涙をこぼし始めた。
「そ、そうですわ!私、いじめられましたわ!リーシェル様に、誰もいない旧校舎の教室に鍵をかけられて閉じ込められたり……!階段から突き落とされそうになったり、大切な教科書を噴水に捨てられたり……っ!」
「おお、可哀想にマリリア……!」
「私、怖くて夜も眠れませんでしたわ!今月の初めだって、食堂で私のドレスにわざとスープを零して……っ!」
マリリア嬢は両手で顔を覆い、ヒックヒックと大袈裟に泣きじゃくる。ルヴェイン殿下は勝ち誇ったような顔で私を見た。
「聞いたか!これだけの証言があるのだ。お前がどれだけ言い逃れようと――」
「……いじめた、とのことですが。私には、到底無理な相談ですわ」
「うそだ!誤魔化せると思うな!」
「誤魔化す?いいえ、物理的に不可能なのです」
私は扇を口元に当て、心底可哀想なものを見る目で二人を見つめた。
「教室に閉じ込める?教科書を噴水に?今月の初めに食堂でスープを?……それは無理ですわ。だって私、もう学園を卒業していますもの」
ピタリ、と。マリリア嬢の嘘泣きが止まった。ルヴェイン殿下の勝ち誇った顔が、間抜けな表情に固まる。
「……え?」
「優秀な成績を収めたため、飛び級の許可をいただきまして。去年、すでに学園の全課程を修了し、卒業しております。あなたたちが私に押し付けた“次期王妃教育”という名の政務があまりにも忙しいため、学園での時間を短縮することにしたのですわ」
ざわっ、と周囲の貴族たちがどよめく。
『婚約者が卒業しても気づかないってどういうこと?』『いくらリーシェル様の政務が忙しく、あまり登校しないからって……』『じゃあ、マリリア嬢の証言は……』と囁き合う声が波のように広がっていく。
「そ、そんなはずはない!お前は今日、こうして卒業パーティーに参加しているではないか!」
「今日は学園のOGとして、そして次期王族という『来賓』として招待されたから参加しているだけですわ。……そんなことも知りませんでしたの?腐っても私の婚約者なのに?」
私の冷ややかな指摘に、ルヴェイン殿下は「あ、いや、それは……」とモゴモゴと言い訳を口にし始めた。
「そもそも、今日のエスコートを私からお願いしなかった時点で、何かおかしいと気づくべきではありませんか?」
私は一歩、また一歩と彼に近づく。
「元々、私のエスコートなどするつもりはなかったのでしょう?マリリア嬢の隣に立つことしか考えていなかったのかしら。他人に仕事を押し付けておいて、自分は学園で浮気三昧……。本当に、浮気野郎がいい身分ですわね」
「うっ、ぐっ……!」
完全に論破され、周囲の貴族たちからも蔑みの目を向けられたルヴェイン殿下。彼のプライドは粉々に砕け散り、その顔は屈辱と怒りで朱に染まっていた。
「ええい、黙れえええっ!!お前さえ、お前さえいなければ俺は王になれたんだ!!」
完全に逆上したルヴェインが、我を忘れ、腰に帯びていた儀礼用の剣を抜き放った。
「死ねぇっ!」
という咆哮と共に、一直線に私に向かって襲いかかってくる。
「きゃあああっ!」という貴族子女の悲鳴が上がる。
しかし、私の体は一歩も動かない。なぜなら、私の隣には――いつだって最強の盾が立ってくれるからだ。
「おっと。お嬢に気安く触れんじゃねぇよ、偽物王子」
ドンッ!という鈍い音と共に、ルヴェインの体は宙を舞い、大広間の大理石の床に無様に転がった。いつの間にか私の前に立っていたシャレムが、素手で王子の剣の腹を叩き落とし、そのまま肩を掴んで体勢を崩させて、床へぶん投げたのだ。
「がっ……!」
「お嬢に剣向けるとか、何考えてんだよ」
低く冷たい声だった。
普段の軽薄さは消え、底にある怒りだけが露わになっている。その圧に、周囲の貴族子弟までも息を呑んでいた
「ぐっ、がはっ……!は、離せ!離せ下民が!!」
「はいはい、お静かに。……おい、近衛。こいつらを連れて行け」
シャレムの低く通る声に呼応するように、扉の奥から完全武装の近衛騎士たちが雪崩れ込んできた。彼らは抵抗する力も残っていないルヴェインと、腰を抜かして泣き叫ぶマリリアを容赦なく拘束し、引き摺るようにして連行していった。
二人の姿が広間の外へ消え、ようやく静けさが戻ったとき、私は大きく息を吐いた。
「……終わった、のかしら」
「いや、これからのほうが面倒だろ。戴冠だの各方面への説明だの」
「考えたくないわね」
「じゃあお嬢、俺と逃げる?」
「無理よ」
「だよな〜」
そんなやり取りをしただけで、少し笑えてしまう。
不思議だった。
あれほど大きな断罪を終えたばかりなのに、私の胸にあるのは達成感でも高揚でもなく、ひどく安心した気持ちだった。
婚約者に蔑ろにされても平気だった。
王妃様に仕事を押しつけられても、笑って耐えられた。
怖いものなんてないと思っていた。
でもそれは、私が強かったからではない。ただ、シャレムが隣にいてくれたからだ。
「……シャレム」
「ん?」
「私、女王になるのでしょう?」
「多分な」
「なら、私の隣に立つ人を、自分で選んでもいいわよね」
シャレムがぴたりと動きを止める。赤い瞳がわずかに見開かれた。
私は頬が熱くなるのを感じながら、それでも視線を逸らさなかった。
「身分差があるかもしれない。外野はうるさいかもしれない。でも、私の隣はあなたじゃないと嫌なの。だから……私と結婚してくれないかしら」
数秒、シャレムは本当に固まっていた。それから片手で顔を覆い、深々とため息をつく。
「あー……やられた」
「え」
「それ、俺から言うつもりだったんだけど」
「……嫌ではないの?」
「嫌なわけあるか」
即答だった。
心臓が大きく跳ねる。
「ただ、お嬢が心配してる身分差、多分問題ないぞ」
「どういう意味?」
するとシャレムは、なんでもないことのように言った。
「だって俺、イスファランの第五王子だもん」
「……は?」
思わず、公爵令嬢らしからぬ素っ頓狂な声が出てしまった。拾った執事が、西の強国、他国の王子?
「は?え?どういうこと?」
「幼い頃、王位継承のゴタゴタで誘拐にあって、必死に逃げ出した先で、お嬢に拾われたんだよ。泥水啜って死にかけてたところを、お嬢がハンカチで顔を拭いて、『私の執事にならない?』って」
「そ、そんなこと一言も……!」
「数年前の長期休暇の時に、自分が無事なこと、そしてお嬢を生涯の主として主従関係を結んだことを家族に伝えてきたんだ。向こうの親父……国王も、俺が生きてたことと、恩人であるお嬢の存在を知って、納得してくれた」
「それ、もっと早く言いなさいよ!」
「お嬢の親父殿には報告済みだぞ?」
「いや、私にも報告しなさいよ!?」
「でも俺、お嬢が俺を執事扱いしてるの、ちょっと気に入ってたしな〜」
「この……!」
シャレムは悪戯っぽく笑い、ポカポカと殴る私の手の自由を奪って、恭しく額に口付けを落とした。彼の赤い瞳が、熱を帯びて私を見つめている。
「……まあ、もしあのバカ王子がお嬢のことを蔑ろにして、婚約破棄なんてふざけた真似をするなら、そのままイスファランに攫って俺の嫁にするつもりだったけどな」
「攫うって……あなたねえ」
「でも、お嬢が自分から俺を選んでくれた。こんなに嬉しいことはない」
彼は優しく目を細め、一旦私と距離をとった。そして舞踏会の真ん中だというのに、当然のように片膝をつく。
「改めて言います。リーシェル様」
その呼び方に、胸が高鳴る。
「俺は、お嬢に拾われた日から、あんたに命も忠誠も預けてる。だから今さら離れる気なんて一切ない」
赤い瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「女王になるあんたの隣に立てるなら、これ以上の名誉はない。……だからこちらこそ、お願いします。俺を、お嬢の隣に置いてください。俺はあんたを、どうしようもなく愛しているんだ」
私は、震える手をそっと差し出した。
「命令よ、シャレム。ずっと私の隣にいて」
「仰せのままに、お嬢」
彼が私の手を取る。
その瞬間、周囲から息を呑む気配がした。
けれどそんなことはどうでもよかった。今の私には、この手のぬくもりだけで十分だったから。
******
その後、王宮内の粛清は速やかに行われた。王の血を引かない偽物の王子であるルヴェイン、彼を唆し虚偽の証言で王族を貶めようとしたマリリア、そして国王を裏切り、国家を揺るがす不貞を働いた王妃。彼らは皆、誰からも同情されることなく、光の届かない地下牢に幽閉された。プライドだけは高かった彼らは、劣悪な環境に耐えきれず、やがて獄中で発狂し、ひっそりとその生涯を終えることとなった。
一方私は、イスファランの第五王子であるシャレムを王配として迎え、無事にこの国の女王として即位した。イスファランとの強固な同盟も結ばれ、国の財政も私が立て直したことで、かつてないほどの繁栄を見せている。
執務室の机には、相変わらず山積みの書類。しかし、隣には優秀で、誰よりも私を愛してくれる彼がいる。二人でペンを走らせ、時折他愛のない冗談を交わしながら笑い合う。
「シャレム、ここの計算が合わないわよ」
「おっと、すいません。すぐ直しますよ、俺の女王様」
彼が隣にいれば、どんな困難な執務も、どんな未来も――もう何も怖くないのだ。
お読みいただきありがとうございます!
---国王陛下の話---
リーシェルの実家であるガーラント公爵家は、代々王家を支えてきた生粋の忠臣です。かつて王妃の不貞という最悪のスキャンダルが発覚した際も、真っ先に王を助け、王家の体面を守るために隠蔽に尽力してくれました。
にもかかわらず、第一王子はその忠義ある公爵家の令嬢を裏切るという愚行に走り、王妃の手綱も全く握れていませんでした。国王陛下は、長年の忠臣に対する申し訳なさと、身内の不始末に対して深く責任を感じていたのだと思います。
だからこそ陛下は、自身の治世に癒えない傷がつこうとも、偽りの息子を廃嫡し、正当な血筋であり有能なリーシェルを次期女王に据えるという大きな決断を下しました。
「次代を担う女王の名に少しでも傷がつくくらいなら、現王家の恥部を公の場で晒しても構わない」
事前にそうリーシェルへ告げ、断罪の場における全ての裁量を彼女に委ねていたのです。
決して完璧な王ではなかったかもしれませんが、自らの監督不足を認め、身内の不始末から逃げずにきっちりとケリをつけたという点では、間違いなく『まともな王様』だったと言えるでしょう。
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