エピローグ 人生最高の長期投資
エピローグ 人生最高の長期投資
九月の終わりだった。
表参道の並木道には、少しだけ秋の気配が混じり始めている。
青空は高く澄み、街路樹の葉が風に揺れていた。
舞は拓海と並んで歩いていた。
白いブラウスにネイビーのロングスカート。
足元はベージュのパンプス。
昔のジャージ姿を知る人が見たら驚くだろう。
拓海はライトグレーのジャケットに白いシャツ。
休日らしい柔らかな服装だった。
「本当に入るの?」
拓海が少し緊張した声で聞く。
「入るよ」
舞は笑う。
「予約したし」
「いや、そうじゃなくて」
拓海は目の前の建物を見上げた。
ガラス張りの美しい店舗。
洗練された外観。
表参道の街並みに溶け込む高級感。
そこはロレックス ブティック 表参道だった。
「俺には早い気がする」
「何が?」
「ロレックス」
「そんなことない」
舞は即答した。
すると拓海は苦笑する。
「その即答が怖い」
「トレーダーだから」
「関係ある?」
「ある」
舞は胸を張った。
店内へ入る。
落ち着いた照明。
磨き上げられた木のカウンター。
ほのかに香る高級な革の匂い。
静かな空間だった。
まるで高級ホテルのラウンジのようだ。
スタッフが丁寧に迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
舞は少し緊張しながらも微笑んだ。
「予約していた一ノ瀬です」
案内された席へ座る。
冷たいミネラルウォーターが運ばれてくる。
拓海は落ち着かない様子だった。
「場違いじゃない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「私なんかジャージで株やってた女だよ」
「それを言われると反論できない」
二人で笑った。
しばらくしてスタッフが時計を持ってくる。
黒いトレーの上。
静かに置かれた一本の腕時計。
コスモグラフ デイトナ。
シンプルで美しい。
無駄がない。
洗練されている。
舞は思わず見惚れた。
「綺麗……」
拓海も息を呑んでいた。
スタッフが説明を始める。
だが途中から舞は半分も聞いていなかった。
代わりに思い出していた。
去年の自分。
モニター六台。
ジャージ。
カップ麺。
冷めた夫婦関係。
あの頃。
こんな日が来るとは思わなかった。
「試着されますか?」
スタッフが尋ねる。
拓海は戸惑った。
「いや、俺なんかが」
「してください」
舞が言った。
「お願いします」
時計が拓海の腕へ載せられる。
カチリと留め具が閉まる。
その瞬間。
妙に似合っていた。
舞は思わず笑った。
「いいじゃん」
「そう?」
「うん」
拓海は照れ臭そうだった。
何度も時計を見る。
まるで子供みたいだった。
「高いぞ」
小声で言う。
「知ってる」
「かなり高い」
「知ってる」
「株なら何株買えると思う?」
「その計算やめよう」
舞は吹き出した。
そして少しだけ真面目な顔になる。
「でもね」
「うん?」
「投資だと思ってる」
拓海が首を傾げた。
「時計に?」
「違う」
舞はゆっくり言った。
「人生に」
拓海は黙った。
舞は続ける。
「株も好き」
「うん」
「お金を増やすのも好き」
「うん」
「でも最近思うの」
店内の照明が時計を優しく照らしている。
「一番大事な投資って、お金じゃないなって」
拓海の表情が柔らかくなる。
「舞」
「あなたとの時間とか」
「……」
「一緒に食べるご飯とか」
「うん」
「こういう思い出とか」
舞は笑った。
「そっちの方が配当大きい」
拓海は吹き出した。
「配当なのか」
「配当です」
「全部投資で考えるな」
「職業病だから」
結局。
購入は決まった。
スタッフが手続きを進める。
拓海は最後まで落ち着かなかった。
店を出た時には夕方になっていた。
表参道の空が黄金色に染まっている。
並木道を歩く。
腕には新しい時計。
拓海は何度も眺めていた。
「そんなに嬉しい?」
舞が聞く。
「嬉しい」
即答だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「大事にする」
「一生使って」
拓海は頷いた。
「一生使う」
その後、二人は近くの和食店へ入った。
木の香りがする落ち着いた店だった。
カウンター席へ座る。
まず生ビール。
秋刀魚の塩焼き。
松茸ご飯。
だし巻き卵。
土瓶蒸し。
湯気と共に広がる出汁の香りがたまらない。
「乾杯」
「乾杯」
グラスが触れ合う。
拓海は腕の時計を見た。
そして舞を見る。
「俺さ」
「うん」
「昔、莉子に言われたことがある」
舞が箸を止める。
「何て?」
「舞は仕事しか見てないって」
少し沈黙が落ちた。
「その時はそう思った」
拓海は正直に言う。
「でも今は違う」
「……」
「俺がちゃんと見てなかっただけだった」
舞は何も言えなかった。
ただ胸が温かかった。
土瓶蒸しの蓋を開ける。
ふわりと広がる香り。
秋の匂いだった。
拓海が笑う。
「結局さ」
「うん?」
「人生最高の投資は」
舞が先に答えた。
「私と結婚したこと?」
「違う」
「違うの?」
「舞が俺を損切りしなかったこと」
その言葉に。
舞は少しだけ涙ぐんだ。
窓の外では表参道の灯りが輝いている。
時計は時を刻む。
穏やかに。
確実に。
まるで二人の未来のように。
長期保有中。
売却予定なし。
人生最高の優良銘柄は、今日も隣で笑っていた。
**完**




