第10話 独り勝ち
第10話 独り勝ち
七月の夕方だった。
西日が商店街のアーケードをオレンジ色に染めている。
舞は買い物かごを提げながら歩いていた。
最近は相場が終わると外へ出るようになった。
以前なら考えられない変化だった。
市場が閉まってもパソコンの前に座り続け、海外市場を眺めながらコンビニ飯を食べる生活だったのだ。
だが今は違う。
商店街には夕飯の匂いが漂っている。
肉屋のコロッケ。
焼き鳥屋の煙。
八百屋に並ぶ夏野菜。
それらを眺めながら歩く時間が好きになっていた。
「舞ちゃん!」
魚屋の前を通った時だった。
威勢のいい声が飛んでくる。
魚屋の若い店員だった。
日に焼けた顔で笑っている。
「今日はハモあるよー!」
店頭を見る。
氷の上に美しい鱧が並んでいた。
銀色の皮が夕日に光っている。
「おお」
舞は思わず足を止めた。
「いいの入ったんだ」
「今朝のやつ!」
店員が胸を張る。
「骨切りするよー!」
その言葉に舞は少し笑った。
以前なら素通りしていただろう。
けれど今日は違う。
ふと思った。
たまには刺身もいい。
今日は少し贅沢をしてもいいじゃないか。
「じゃあ」
舞は魚を眺めながら言った。
「ハモと、お刺身の盛り合わせください」
「まいど!」
店員の声が響く。
包丁がまな板を叩く軽快な音が聞こえた。
舞はその間に八百屋へ向かう。
きゅうり。
なす。
茗荷。
青じそ。
瑞々しい夏野菜を選ぶ。
そして生姜。
ぷっくりと太った新生姜を手に取る。
今夜の献立はもう決まっていた。
マンションへ帰る頃には空が少しずつ茜色に染まっていた。
キッチンに立つ。
白いブラウスに薄いブルーのロングスカート。
エプロンを結ぶ。
窓から入る風が少し涼しい。
まず野菜を刻む。
包丁がまな板を叩く小気味よい音。
きゅうりの青い香り。
茗荷の爽やかな香り。
青じその清々しい匂い。
細かく刻んでいく。
「がごめ昆布なんてないしなあ」
舞は苦笑した。
冷蔵庫を開く。
めかぶがある。
「代打、めかぶ選手」
一人で言って笑う。
刻んだ野菜と混ぜる。
最後にすりおろした生姜。
爽やかな香りが立ち上る。
山形のだし風の箸休めが完成した。
その頃。
玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
拓海だった。
「おかえり」
舞が顔を出す。
拓海はネクタイを緩めながら微笑んだ。
「なんかいい匂い」
「今日は魚の日です」
「魚?」
「ちょっと豪華」
しばらくして食卓が整う。
大皿に盛られた刺身。
マグロ。
鯛。
サーモン。
イカ。
そして湯引きした鱧。
梅肉が添えられている。
ガラス鉢には山形のだし風の一品。
冷奴。
枝豆。
味噌汁。
そして冷えた缶ビール。
食卓の上だけで夏祭りのようだった。
拓海が目を丸くする。
「すごいな」
「たまにはね」
舞は照れ臭そうに笑った。
缶を開ける。
プシュッという音。
泡が立ち上る。
「乾杯」
「乾杯」
缶が軽く触れ合う。
一番搾りの冷たさが喉を通る。
「うまい!」
拓海が嬉しそうに言った。
舞も笑う。
「おっさんみたい」
「今日は許して」
まず刺身を食べる。
鯛は甘く。
マグロは濃厚。
鱧はふわりと柔らかい。
梅肉の酸味が絶妙だった。
「うまいなあ」
拓海が感心する。
「魚屋さんが勧めてくれた」
「大正解だな」
続いて山形のだし風。
シャキシャキしたきゅうり。
とろりとしためかぶ。
生姜の香り。
冷奴にかけると最高だった。
「これ好き」
「私も」
食事が進む。
ビールも進む。
窓の外では夕焼けが少しずつ紫色に変わっていく。
その時だった。
拓海がふと舞を見た。
そして笑った。
「何?」
舞が首を傾げる。
「最近さ」
「うん」
「干物女がいなくなった」
一瞬静かになる。
そして舞が目を細める。
「喧嘩売ってる?」
「違う違う」
拓海は慌てる。
「褒めてるんだよ」
「どこが」
「だって昔の舞」
拓海は指を折り始めた。
「ジャージ」
「うるさい」
「三日同じ髪型」
「やめろ」
「冷凍チャーハン」
「黙れ」
「夜中に株価見ながらカップ麺」
舞は箸で拓海の腕を叩いた。
「痛い!」
「当然です」
二人で笑う。
けれど拓海は真面目な顔になった。
「でもさ」
「うん」
「今の舞、すごく楽しそう」
舞は少し驚いた。
考えたことがなかった。
自分が楽しそうかどうかなんて。
「そうかな」
「そうだよ」
拓海は頷く。
「前はいつも数字と戦ってた」
その言葉に舞は黙る。
確かにそうだった。
利益。
損失。
上昇。
下落。
毎日そればかりだった。
もちろん仕事は好きだ。
今でも好きだ。
だが。
人生はそれだけじゃなかった。
「ねえ」
拓海が言う。
「ありがとう」
舞は微笑む。
「何が?」
「戻ってきてくれて」
その言葉に胸が温かくなった。
戻ってきた。
本当にそうかもしれない。
昔の自分に。
好きだった暮らしに。
大切な人との時間に。
食卓の上にはまだ鱧が残っている。
ビールも少し残っている。
笑い声も残っている。
舞は缶を持ち上げた。
「じゃあ」
「うん」
「これからも長期保有で」
拓海が吹き出した。
「まだ投資なのかよ」
「投資です」
「俺、銘柄?」
「人生最高の優良銘柄」
拓海は大笑いした。
そしてビールを掲げる。
「じゃあ俺も」
「うん?」
「一生ホールドします」
窓の外では夏の夜が始まっていた。
蝉の声。
遠くの花火の音。
優しい灯りの下。
二人の笑い声はいつまでも続いていた。
市場は明日も開く。
けれど。
舞にとって本当の独り勝ちは、もう手の中にあった。




