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第9話 強制ロスカット

第9話 強制ロスカット


 七月の空は高かった。


 梅雨が明け、真っ青な空が広がっている。


 その日の午後、一ノ瀬舞は静かにコーヒーを飲んでいた。


 窓から差し込む陽射しが白いカップを照らしている。


 向かいには拓海が座っていた。


 以前のような気まずさはない。


 だが二人とも緊張していた。


 今日が決着の日だからだ。


「本当に行く?」


 拓海が聞く。


「行くよ」


 舞は頷いた。


「逃げたら終わらない」


 テーブルの上には一冊のファイルが置かれていた。


 舞がまとめた証拠。


 時系列。


 メッセージ。


 証言。


 ホテルの記録。


 写真の解析結果。


 すべて整理されている。


 まるで企業買収の資料だった。


 拓海は苦笑する。


「怖いな」


「何が?」


「敵に回したくない」


「今さら?」


 二人で少し笑った。


 だがその笑顔の奥には覚悟があった。


 午後三時。


 待ち合わせ場所はホテルのラウンジだった。


 高い天井。


 大理石の床。


 静かなクラシック音楽。


 コーヒーの香りが漂っている。


 莉子は先に来ていた。


 白いワンピース。


 上品なメイク。


 完璧な笑顔。


 しかし舞の姿を見た瞬間、その笑顔が少し固まる。


 さらに。


 隣に拓海がいることに気付く。


「拓海くん……?」


 莉子は戸惑った。


 拓海は無表情だった。


 舞と拓海は向かい側へ座る。


 店員がアイスコーヒーを運んでくる。


 グラスの氷が小さな音を立てた。


 最初に口を開いたのは莉子だった。


「どうしたの?」


 笑顔を作る。


「二人とも怖い顔して」


 舞は穏やかに答えた。


「少し確認したいことがあって」


「確認?」


「うん」


 ファイルを開く。


 莉子の表情がわずかに変わる。


 舞は静かだった。


 怒鳴らない。


 感情的にならない。


 だからこそ怖い。


「まず最初」


 舞が一枚の紙を出した。


「私が家事をしないって噂」


 莉子の肩が揺れる。


「何のこと?」


「その噂の出どころを調べた」


 舞は淡々と続ける。


「最初に話したのはあなた」


 莉子が黙る。


「その後、四人に広がった」


「偶然じゃない?」


「偶然じゃない」


 舞は微笑む。


「証言があるから」


 さらに資料を置く。


 莉子の指先が震え始めた。


 だがまだ強気だった。


「そんなの証拠にならない」


「そうね」


 舞は頷く。


「だから次」


 ホテルの写真。


 莉子の顔色が変わる。


「この写真ね」


「……」


「解析した」


 舞はスマホを操作した。


 拡大画像。


 撮影情報。


 時間。


 位置。


 角度。


 次々に表示される。


「拓海は完全に意識を失っている」


「違う」


「違わない」


 舞は静かだった。


「瞳孔反応も筋肉の状態もそう示してる」


 莉子が息を呑む。


「さらに」


 もう一枚の紙。


 ホテルの防犯記録だった。


「ホテルに入った時」


「……」


「拓海はあなたに支えられていた」


「……」


「歩けないほど酔っていた」


 沈黙。


 ラウンジの空気が重くなる。


 拓海が初めて口を開いた。


「莉子」


 低い声だった。


「なんでこんなことした」


 莉子の目に涙が浮かぶ。


「だって……」


 唇が震える。


「だって私はずっと好きだった」


 その言葉は本音だった。


「学生の頃から」


「……」


「ずっと好きだったの」


 莉子は泣き始める。


「なのに選ばれたのは舞さんだった」


 涙が頬を流れる。


「私は負けた」


「莉子」


「結婚したのに失敗した」


 声が掠れる。


「戻ってきたら、まだ好きだった」


 舞は黙って聞いていた。


 莉子の苦しみは理解できた。


 だが許されることではない。


「だから奪おうと思った」


 莉子は顔を覆う。


「最低だよね」


 拓海は静かに言った。


「最低だ」


 その言葉に莉子が震える。


「でも」


 拓海は続けた。


「昔の思い出まで嫌いになりたくなかった」


 莉子が顔を上げる。


「だからやめてほしかった」


 涙が止まらない。


「俺たちの思い出を壊さないでほしかった」


 莉子は何も言えなかった。


 敗北だった。


 完全な敗北だった。


 舞はファイルを閉じる。


 怒りはなかった。


 ただ終わったのだ。


「もう終わりにしよう」


 舞が言う。


「私たちに近付かないで」


 莉子は俯いた。


 返事もできない。


 その時だった。


 拓海が立ち上がる。


 そして真っ直ぐ莉子を見た。


「最後に一つだけ言う」


 莉子の目が揺れる。


 わずかな希望を探すように。


 だが。


 次の言葉が全てを終わらせた。


「俺が選ぶのは舞だけだ」


 静かな声だった。


 しかし迷いは一切なかった。


「昔も」


「今も」


「これからも」


 莉子の瞳から大粒の涙が落ちる。


 もう何も言えなかった。


 終わったのだ。


 完全に。


 舞は立ち上がる。


 拓海も隣に並ぶ。


 二人はそのままラウンジを後にした。


 外へ出る。


 真夏の陽射しが眩しい。


 蝉が鳴いている。


 風が吹く。


 しばらく二人とも黙って歩いた。


 やがて拓海が言った。


「腹減った」


 舞は吹き出した。


「このタイミングで?」


「緊張してたから」


「子供か」


「子供です」


 二人で笑う。


 肩の力が抜けた。


「何食べる?」


 舞が聞く。


「舞のご飯」


 即答だった。


「外食じゃなくて?」


「帰りたい」


 その言葉が嬉しかった。


 本当に嬉しかった。


 家に帰る。


 同じ食卓を囲む。


 同じ時間を過ごす。


 それは特別なことではない。


 けれど何より大切なことだった。


 舞は青空を見上げる。


 長かった戦いが終わった。


 そしてようやく。


 本当の未来が始まろうとしていた。




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