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第8話 信頼という資産

第8話 信頼という資産


 土曜日の朝だった。


 カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいる。


 昨夜はほとんど眠れなかった。


 拓海も舞も、夜明け近くまで話をしていたからだ。


 それでも不思議と嫌な疲れはなかった。


 舞はキッチンに立っていた。


 白いリネンのエプロン。


 淡いクリーム色のニット。


 髪は後ろでゆるくまとめている。


 鍋の中では粥が静かに煮えていた。


 鶏手羽から出た旨味。


 生姜の爽やかな香り。


 干しなつめの甘い香り。


 枸杞の実の鮮やかな赤。


 優しい湯気が立ち上っている。


 昨夜、拓海はかなり酒を飲んでいた。


 胃も弱っているはずだ。


 だから今日は薬膳粥だった。


 舞は木の匙でゆっくりとかき混ぜる。


 その時、後ろから声がした。


「いい匂い」


 振り向く。


 拓海だった。


 寝起きらしく髪が少し乱れている。


 灰色のスウェット姿。


 しかし表情は暗かった。


 目の下にうっすら隈がある。


 罪悪感。


 後悔。


 不安。


 そんな感情が滲んでいた。


「おはよう」


「おはよう」


 舞は微笑んだ。


「座ってて」


「手伝う」


「病人は座ってて」


「病人扱いかよ」


「二日酔いは立派な病気です」


 少しだけ笑いが生まれる。


 それだけで空気が柔らかくなった。


 しばらくして食卓に粥が並んだ。


 白い陶器の器。


 刻み葱。


 千切り生姜。


 優しい香り。


 添えられた小皿には梅干しと大根の浅漬け。


 拓海は手を合わせた。


「いただきます」


 一口食べる。


 熱すぎない。


 優しい。


 胃の奥へ染み込むようだった。


「うまい……」


 思わず呟く。


 舞もほっとする。


「よかった」


 しばらく二人とも黙って食べた。


 静かな朝だった。


 外では雀が鳴いている。


 近所の子供たちの声も聞こえる。


 どこにでもある朝。


 だが拓海にとっては特別だった。


 失いかけたものが、まだ目の前にある。


 その事実が胸に刺さる。


 やがて拓海が箸を置いた。


「舞」


「うん」


「ちゃんと話す」


 舞は黙って頷いた。


 逃げない。


 ごまかさない。


 そう決めた顔だった。


「最初は本当に懐かしかっただけなんだ」


 拓海がゆっくり話し始める。


「莉子が帰ってきて」


「うん」


「昔話して」


「うん」


「楽しかった」


 正直な言葉だった。


 舞は遮らない。


「会社の愚痴とかも聞いてくれた」


「そう」


「だから居心地が良かった」


 舞は静かに聞いている。


 責める気はない。


 真実が聞きたかった。


「でも」


 拓海は拳を握った。


「途中から変だった」


「変?」


「莉子と話してると疲れるようになった」


 舞は少し驚く。


 拓海自身も初めて言葉にしているようだった。


「なんで?」


「分からない」


 拓海は首を振る。


「会えば楽しいはずなのに」


「うん」


「帰ると妙に疲れてた」


 その理由は単純だった。


 莉子は拓海を欲しがっていた。


 理解したいのではない。


 手に入れたかった。


 だから会話も行動も無意識に奪う方向へ向かう。


 だが舞は違った。


 最近の舞は与えていた。


 朝食。


 夕食。


 会話。


 気遣い。


 安心できる空間。


 拓海はようやくその違いに気付き始めていた。


「俺さ」


 拓海が苦笑する。


「ずっと勘違いしてた」


「何を?」


「寂しかったのは俺だと思ってた」


 舞の胸が少し痛んだ。


「でも違った」


「……」


「寂しかったのは舞だった」


 静かな言葉だった。


 だが重かった。


 舞は目を伏せる。


 拓海は続けた。


「俺は仕事して」


「うん」


「帰れば飯があると思ってた」


「うん」


「家もある」


「うん」


「妻もいる」


 拓海は唇を噛む。


「でも舞はずっと一人だった」


 その言葉に舞の目が潤んだ。


 責められたわけじゃない。


 ようやく分かってもらえた。


 それが嬉しかった。


「ごめん」


 拓海が頭を下げる。


「本当にごめん」


 舞は首を振った。


「私も悪かったよ」


「え?」


「相場ばっかり見てた」


 苦笑する。


「あなたよりチャート見てたかもしれない」


 拓海も笑ってしまった。


「それはある」


「あるんかい」


 二人で笑う。


 涙が混じる笑いだった。


 その時だった。


 インターホンが鳴る。


 宅配便だった。


 受け取ると小さな箱だった。


 送り主を見る。


 緑川莉子。


 空気が変わった。


 拓海の表情が固くなる。


 舞は箱を開けた。


 中にはネクタイ。


 そしてカード。


『拓海くんへ』


『私の方があなたを理解してる』


『まだ間に合うよ』


 静まり返る。


 数秒後。


 拓海はカードを取った。


 そして真っ二つに破いた。


 舞が驚く。


「拓海?」


 拓海は真っ直ぐ舞を見た。


「もう終わりにする」


 その目には迷いがなかった。


「俺が向き合うべき相手は舞だから」


 舞は言葉を失う。


 ずっと欲しかった言葉だった。


 拓海は箱ごとゴミ袋へ入れる。


 そして深く息を吐いた。


「やっと分かった」


「何が?」


「信頼って」


 拓海は少し笑った。


「積み立てなんだな」


 舞は吹き出した。


「投資か」


「投資だよ」


 拓海も笑う。


「毎日積み立てるんだ」


「うん」


「会話とか」


「うん」


「優しさとか」


「うん」


「ご飯とか」


「それ大事」


「特に大事」


 二人は顔を見合わせる。


 窓から差し込む朝日が明るかった。


 薬膳粥の湯気がゆらゆら揺れている。


 生姜の香りが優しく広がる。


 昨日までの不安はまだ完全には消えていない。


 莉子の問題も終わっていない。


 だが。


 夫婦は初めて同じ方向を向いた。


 信頼という資産を守るために。


 そして育てるために。


 舞は残った粥をよそう。


 拓海は笑顔で器を差し出した。


「おかわり」


「はいはい」


 その何気ないやり取りが、何より幸せだった。




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