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第7話 パニック売り禁止

第7話 パニック売り禁止


 午前一時を過ぎていた。


 リビングには静寂が広がっている。


 テーブルの上には冷めた鶏肉のトマト煮込み。


 赤いソースの表面には薄い膜が張り始めていた。


 白い皿に添えたバゲットも固くなっている。


 舞は椅子に座ったまま動けなかった。


 スマートフォンの画面には、あの写真が表示されたままだ。


 ホテルのベッド。


 眠る拓海。


 寄り添う莉子。


 胸の奥が締め付けられる。


 呼吸が苦しい。


 涙が次々と溢れてきた。


「なんで……」


 震える声が漏れる。


 頬を涙が伝う。


 大好きだった。


 今も大好きだ。


 だから苦しい。


 株なら簡単だった。


 損失が出れば切ればいい。


 数字なら諦められる。


 だが人間は違う。


 愛情はチャートにならない。


 気持ちは数値化できない。


 舞は両手で顔を覆った。


 声を殺して泣く。


 肩が震える。


 時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。


 どれくらい泣いただろう。


 三十分。


 一時間。


 それとも数分だったのか。


 やがて涙が少し落ち着く。


 舞は洗面所へ向かった。


 冷たい水で顔を洗う。


 鏡を見る。


 目が赤い。


 酷い顔だった。


「落ち着け」


 自分に言い聞かせる。


「落ち着け」


 もう一度言う。


 トレーダーになったばかりの頃を思い出した。


 大暴落の日。


 恐怖で震えながら売買した。


 結果は大損だった。


 その時、師匠に言われた言葉がある。


『恐怖は判断を狂わせる』


『数字を見ろ』


『事実を見ろ』


『感情はあとだ』


 舞は深く息を吐いた。


 そしてリビングへ戻る。


 ノートパソコンを開く。


 画面に写真を表示した。


 今度は妻としてではない。


 分析者として見る。


 冷静に。


 徹底的に。


 何度も拡大する。


 拓海のシャツ。


 腕時計。


 髪型。


 首元。


 ホテルのベッド。


 照明。


 カーテン。


 すべてを確認する。


 すると違和感が次々に見えてきた。


「服が乱れてない」


 小さく呟く。


 さらに見る。


 ネクタイもそのまま。


 シャツのボタンも留まっている。


 髪も宴会帰りのままだ。


 そして。


 拓海の顔。


 完全に眠っている。


 いや。


 眠っているというより。


「酔い潰れてる……?」


 舞は写真をさらに拡大した。


 瞳孔。


 表情筋。


 口元。


 どれも意識がある人間の顔ではない。


 それに。


 莉子だけがカメラを意識している。


 拓海は完全に無防備だ。


 舞の中で何かが変わる。


 怒りだった。


 悲しみではない。


 怒り。


 利用された。


 拓海が。


 そして自分も。


 その時だった。


 玄関の鍵が回る音がした。


 午前二時。


 舞は立ち上がる。


 ドアが開いた。


 拓海だった。


 顔色が悪い。


 スーツは少し乱れている。


 酒の匂いもする。


 しかし本人は困惑していた。


「舞……?」


 舞は黙って見つめる。


 拓海の顔が青ざめる。


「ごめん」


 真っ先に謝った。


「本当にごめん」


 舞はまだ何も言わない。


 拓海は苦しそうな顔をした。


「気付いたらホテルで寝てて」


 舞の瞳が揺れる。


「ホテル?」


「俺も意味が分からない」


 拓海は頭を抱えた。


「宴会のあとまでは覚えてる」


「うん」


「その後が曖昧なんだ」


 舞は黙ったまま写真を見せた。


 拓海の顔から血の気が引く。


「なっ……!」


 声にならない。


 何度も写真を見る。


 そして顔面蒼白になった。


「違う!」


 叫ぶように言った。


「舞、違う!」


 舞は静かに聞く。


「何が違うの?」


「何もしてない!」


 拓海の声が震える。


「本当に何もしてないんだ」


 必死だった。


 嘘をついている人間の顔ではない。


 舞には分かった。


 何年も一緒にいたのだ。


 そのくらい分かる。


「覚えてる?」


「ホテルにいたことは」


「それだけ?」


「それだけだ」


 拓海は唇を噛んだ。


「気付いたらベッドだった」


 舞は少し考える。


 そして冷蔵庫へ向かった。


 取り出したのはスポーツドリンク。


「飲んで」


「え?」


「脱水してる」


 拓海は呆然とした。


「怒らないの?」


「怒ってる」


「え?」


「すごく怒ってる」


 舞は正直に言った。


「でもあなたじゃない」


 拓海が顔を上げる。


「舞……」


「莉子さんに怒ってる」


 その言葉を聞いた瞬間。


 拓海の目に涙が浮かんだ。


「信じてくれるのか」


「まだ調査中」


 舞は答えた。


「でも」


「でも?」


「あなたが浮気したとは思ってない」


 拓海はその場に座り込んだ。


 力が抜けたようだった。


 しばらくして。


 舞はキッチンへ向かう。


 鍋を温め直す。


 トマト煮込みの香りが広がる。


 にんにく。


 トマト。


 鶏肉。


 優しい香りだった。


「食べる?」


 拓海は目を見開く。


「今から?」


「お腹空いてるでしょ」


 実際、空いていた。


 酒ばかり飲んでいたのだ。


 温め直した料理を食卓へ並べる。


 二人で向かい合う。


 午前三時近い食事だった。


 拓海が一口食べる。


 そして泣きそうな顔になった。


「うまい」


 舞は少しだけ笑う。


「よかった」


 しばらく沈黙が続く。


 やがて舞が言った。


「ねえ」


「うん」


「これは罠だと思う」


 拓海は静かに頷いた。


「俺もそう思う」


「だから」


 舞の目が鋭くなる。


「徹底的に調べる」


 その顔は恋する妻の顔ではなかった。


 市場を分析する投資家の顔。


 真実を追う人間の顔だった。


 窓の外では夜明けが近づいている。


 東の空が少しずつ明るくなり始めていた。


 暴落したように見えた相場。


 だが実際には違った。


 誰かが意図的に仕掛けた罠だった。


 ならばやることは一つ。


 事実を集める。


 証拠を集める。


 そして真実を暴く。


 舞は温かいスープを飲みながら静かに微笑んだ。


「パニック売りは禁止だからね」


 拓海は苦笑する。


「それ、今言う?」


「今だから言うの」


 二人は顔を見合わせた。


 そして小さく笑った。


 夜明けの光が窓から差し込み始めていた。


 反撃の朝が、もうすぐやって来る。




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