第6話 仕手筋の最後の勝負
第6話 仕手筋の最後の勝負
七月最初の金曜日だった。
夏の気配が街を包み始めている。
夕方のオフィス街には仕事帰りの人々が行き交い、居酒屋からは焼き鳥の香ばしい匂いが漂っていた。
拓海は会社の歓送迎会に参加していた。
大きな居酒屋の個室。
生ビールの泡。
焼きたての串焼き。
枝豆。
唐揚げ。
賑やかな笑い声。
「拓海さん、飲んでますね!」
「今日は飲まされてるんだよ」
苦笑しながらジョッキを置く。
最近の拓海は以前より明るかった。
同僚たちもそれに気付いている。
「奥さんと何かあったんですか?」
「え?」
「最近めちゃくちゃ機嫌いいですよ」
「そう見える?」
「見えます」
拓海は照れ臭そうに笑った。
舞の顔が浮かぶ。
毎朝の朝食。
帰宅した時の灯り。
食卓に並ぶ料理。
それだけで家へ帰るのが楽しみになっていた。
そんな時だった。
個室の扉が開いた。
「お邪魔しまーす」
聞き覚えのある声。
緑川莉子だった。
拓海の表情が固まる。
「莉子?」
「近くで飲んでたの」
にこやかに笑う。
同僚たちは事情を知らない。
「幼馴染?」
「可愛いじゃないですか」
そんな声が飛ぶ。
莉子は自然に席へ入り込んだ。
そして拓海の隣へ座る。
その距離が近い。
近すぎる。
拓海は少し居心地の悪さを覚えた。
一方その頃。
舞は自宅で夕食の準備をしていた。
今夜の献立は鶏肉のトマト煮込み。
玉ねぎを炒める音が心地よい。
オリーブオイルの香り。
にんにくの香ばしい匂い。
鍋の中ではトマトソースが静かに煮えていた。
時計を見る。
午後八時。
まだ拓海から連絡はない。
歓送迎会だから当然だ。
それでも少し気になった。
「飲み過ぎてなきゃいいけど」
苦笑する。
以前なら気にもしなかった。
それだけ自分も変わったのだろう。
その頃。
居酒屋では宴会が盛り上がっていた。
拓海もかなり飲まされていた。
普段は酒に強い。
しかし今日は空腹のまま参加していた。
酔いが回るのが早い。
「大丈夫?」
莉子が心配そうな顔をする。
「ちょっと飲み過ぎたかも」
「送るよ」
「いや……」
「幼馴染なんだから遠慮しないで」
その笑顔は優しかった。
だが拓海は気付いていなかった。
その裏にある執着を。
夜十一時。
宴会が終わる頃には拓海は完全に酔っていた。
足元も少しふらついている。
「拓海くん」
「ん?」
「休める場所あるから」
「え?」
「少し横になろう」
朦朧とした意識。
判断力はほとんど残っていない。
拓海はそのまま莉子に支えられながら歩いた。
そして――。
ホテルの一室。
柔らかな照明。
白いベッド。
静かな空間。
拓海は意識を失ったまま眠っていた。
莉子はベッドの端へ腰掛ける。
そしてスマホを取り出した。
震える指。
胸の鼓動が速い。
「ごめんね、拓海くん」
そう呟く。
だがその顔に後悔はない。
スマホを構える。
自分が拓海の肩へ寄り添う。
角度を調整する。
まるで恋人同士が一夜を共にしたような写真。
カシャ。
シャッター音が鳴った。
莉子は写真を確認する。
完璧だった。
誰が見ても誤解する。
そして舞の連絡先を開いた。
少しだけ指が震える。
しかし送信した。
『ごめんなさい』
『でも、もう隠せないので』
写真が送られる。
数秒後。
既読。
莉子は息を呑んだ。
ついに送った。
もう後戻りはできない。
一方。
舞はダイニングテーブルで待っていた。
トマト煮込みは冷めている。
時計は午前零時を回っていた。
心配になり始めた頃。
スマホが震えた。
莉子からだった。
嫌な予感がする。
メッセージを開く。
そして。
写真を見た。
世界が止まったようだった。
拓海。
ベッド。
莉子。
寄り添う姿。
誰が見ても誤解する写真。
「……」
舞は動けなかった。
頭が真っ白になる。
心臓だけが激しく脈打つ。
胸が痛い。
息が苦しい。
涙が込み上げる。
「うそ……」
声が震える。
手も震える。
視界が滲む。
好きだった。
本当に好きだった。
だからこそ苦しい。
涙がぽたりと落ちた。
しかし。
その時だった。
舞の中で別の自分が目を覚ます。
トレーダーとして生きてきた自分。
暴落相場。
金融危機。
大損失。
幾度も経験してきた。
そのたびに学んだことがある。
パニック売りは負ける。
感情で動くな。
事実を見ろ。
舞は深呼吸した。
一度。
二度。
三度。
そして写真を拡大する。
「……あれ?」
涙が止まった。
違和感。
拓海の表情。
寝方。
腕の位置。
シャツの乱れ方。
もう一度見る。
さらに拡大する。
「待って」
舞の瞳が鋭くなる。
拓海は目を閉じている。
だが抱き合っていない。
服も乱れていない。
そして。
首元には居酒屋の紙ナプキンがまだ挟まっていた。
舞は静かにスマホを置く。
心臓はまだ痛い。
それでも冷静さが戻ってくる。
「これは……」
窓の外では夏の夜風が吹いていた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
舞は立ち上がった。
そしてノートパソコンを開く。
株価チャートではない。
新しい調査ファイルを作る。
タイトルを入力する。
『緑川莉子 最終局面』
その目にはもう涙はなかった。
あるのは静かな怒りだけだった。
市場を操ろうとする仕手筋は必ず失敗する。
なぜなら。
事実には勝てないからだ。
舞は静かにマウスを握った。
反撃の時間が始まろうとしていた。




