第5話 ゴールデンクロス
第5話 ゴールデンクロス
拓海の誕生日は金曜日だった。
六月の終わり。
梅雨の雲が切れ、久しぶりに青空が広がっている。
朝から舞は落ち着かなかった。
いつものように相場は開いている。
モニターには株価が流れている。
だが今日は数字が頭に入らなかった。
理由は分かっている。
今日は拓海の二十九歳の誕生日だからだ。
「落ち着け、私」
舞は自分に言い聞かせた。
企業決算の発表前でもここまで緊張したことはない。
ダイニングテーブルには買い物リストが置かれていた。
牛フィレ肉。
真鯛。
アスパラガス。
トマト。
生クリーム。
バター。
そして小さなケーキ用の苺。
今日は特別な日だ。
舞は朝から市場を閉じることにした。
珍しく証券ソフトを終了する。
画面が暗くなったモニターに、自分の顔が映った。
髪は艶やかになった。
肌の調子も良い。
Jに言われたスキンケアも毎日続けている。
それでも少し不安だった。
「勝てるかな……」
思わず呟く。
するとスマホが鳴った。
Jだった。
「何よ、その声」
「緊張してます」
「決戦の日だものね」
「決戦って」
「恋愛市場の四半期決算発表よ」
舞は吹き出した。
Jは笑いながら続ける。
「いい? 今日は戦わないの」
「え?」
「居心地の良さで勝つの」
その言葉が胸に残った。
居心地の良さ。
それは確かに莉子にはない武器だった。
昼過ぎ。
舞はデパ地下へ向かった。
誕生日ディナーの食材を選ぶ。
鮮魚売り場には銀色に輝く真鯛。
精肉店には美しい霜降り牛肉。
パン屋からは焼き立てのバゲットの香りが漂う。
舞は一つひとつ丁寧に選んだ。
まるで長期投資先を吟味するように。
夕方。
キッチンには温かな香りが満ちていた。
牛フィレ肉のロースト。
真鯛のポワレ。
じゃがいものポタージュ。
彩り豊かなサラダ。
そして最後に苺のショートケーキ。
テーブルクロスも新調した。
白いクロス。
ガラスの花瓶。
小さな青い花。
キャンドル。
まるでレストランのようだった。
しかし舞が目指したのは高級店ではない。
帰りたくなる家だった。
一方その頃。
拓海は会社で残業をしていた。
パソコンを閉じようとしたとき、スマホが震える。
莉子からだった。
『お誕生日おめでとう♡』
その直後。
もう一通。
『今夜二人でお祝いしない?』
拓海は画面を見つめた。
さらに送られてくる。
『予約してあるの』
『昔みたいにゆっくり話したいな』
少し前の自分なら迷ったかもしれない。
だが今は違う。
拓海は返信を打つ。
『ごめん』
『今日は家に帰る』
送信した瞬間、莉子から既読がついた。
しかし返事はない。
拓海はスマホをしまった。
胸の中に妙な違和感が残る。
最近、莉子といると疲れる。
以前はもっと自然だった気がする。
だが今は何かが違った。
その理由を考えながら会社を出る。
夜風が気持ちいい。
駅前のケーキ屋では家族連れが笑っていた。
小さな男の子が父親に抱きついている。
その光景を見た時、不意に思った。
早く帰りたい。
舞の顔が浮かぶ。
それが自分でも意外だった。
マンションの前に着く。
エレベーターを上がる。
玄関の前で鍵を取り出す。
そしてドアを開いた瞬間だった。
ふわりと香りが広がる。
肉の焼ける香ばしい匂い。
バターの甘い香り。
スープの優しい香り。
思わず足が止まった。
「ただいま……」
声が少し上ずる。
リビングから光が漏れていた。
「おかえり」
舞が現れる。
淡いネイビーのワンピースを着ていた。
髪は柔らかく巻かれている。
耳元には小さなパールのピアス。
拓海は言葉を失った。
「どうしたの?」
舞が首を傾げる。
「いや……」
拓海は呆然としていた。
綺麗だった。
本当に綺麗だった。
だが見た目だけではない。
その笑顔が懐かしかった。
大学時代。
自分が恋に落ちた頃の笑顔だった。
「誕生日おめでとう」
舞が言う。
その声を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
食卓には料理が並んでいた。
キャンドルの灯りが揺れている。
「すごい……」
「頑張った」
「頑張りすぎだろ」
拓海は笑った。
二人で席に着く。
ワインを少しだけ注ぐ。
「乾杯」
「乾杯」
グラスが触れ合う。
澄んだ音が響いた。
料理はどれも美味しかった。
真鯛は皮が香ばしく焼かれている。
ポタージュは滑らかで優しい。
牛フィレ肉は柔らかく、噛むたびに肉汁が溢れる。
「うまい」
拓海は何度も言った。
舞は嬉しそうに笑う。
食事が進むにつれて会話も弾んだ。
学生時代の話。
初デートの話。
新婚旅行の話。
忘れていた思い出が次々によみがえる。
そしてケーキの時間になった。
蝋燭の火が揺れる。
拓海が吹き消す。
拍手をする舞。
その姿を見ながら、拓海は不意に思った。
いつから忘れていたのだろう。
舞はずっとここにいた。
自分の隣に。
苦しい時も。
嬉しい時も。
何年も一緒に。
その当たり前を、自分は見失っていたのではないか。
「舞」
「ん?」
「ありがとう」
舞が少し驚いた顔をする。
「どうしたの急に」
「いや」
拓海は笑った。
「俺、幸せだなって思った」
舞の目が少し潤む。
そして照れ隠しのように笑った。
「今さら?」
「今さら」
二人で笑った。
その夜。
ソファに並んで座る。
窓の外には夜景が広がっていた。
拓海のスマホが震える。
莉子からのメッセージだった。
『今からでも来ない?』
しばらく画面を見る。
そして静かに閉じた。
返信はしない。
必要ないと思った。
隣では舞が眠そうに目をこすっている。
柔らかな灯り。
温かな部屋。
穏やかな空気。
それらが妙に愛おしかった。
投資の世界では短期の上昇と長期の上昇がある。
そして今、拓海の心の中では二本の線が交差し始めていた。
忘れかけていた愛情と。
新しく芽生えた感謝が。
静かに。
確かに。
ゴールデンクロスを描き始めていた。




