第4話 空売りする女
第4話 空売りする女
六月の雨は静かだった。
朝から降り続く細かな雨粒が、マンションの窓を薄く濡らしている。
舞はダイニングテーブルで朝食を食べていた。
焼きたての鮭。
ほうれん草のおひたし。
具だくさんの味噌汁。
炊き立てのご飯。
湯気とともに広がる出汁の香りに、自然と気持ちが落ち着く。
向かい側では拓海が嬉しそうに箸を動かしていた。
「最近、朝ご飯が楽しみなんだよな」
そう言って笑う。
舞は少し照れた。
「食べ過ぎないでね」
「無理」
「即答だ」
二人で笑う。
ほんの数週間前にはなかった空気だった。
しかし、その頃。
別の場所では違う空気が流れていた。
緑川莉子は駅前のカフェで女友達と向かい合っていた。
アイスカフェラテをストローで混ぜながら、わざとらしくため息をつく。
「拓海くん、大変みたい」
「そうなの?」
「奥さんがねぇ」
莉子は困ったような顔を作った。
「家事もしないし、ずっとパソコンばっかりなんだって」
「えー」
「寂しそうだったなぁ」
友人たちは気の毒そうな顔をした。
莉子は内心でほくそ笑む。
舞を直接攻撃する必要はない。
印象を下げればいい。
株価を下げるのと同じだ。
少しずつ。
じわじわと。
その手口は巧妙だった。
自分は被害者。
舞は冷たい妻。
そんな構図を周囲に植え付けていく。
そして数日後。
その噂は舞の耳にも届いた。
きっかけはJだった。
「舞ちゃん」
「はい」
「あなた最近、何かした?」
美容サロンの個室。
ローズの香りが漂う中でJが眉をひそめていた。
「何かって?」
「あなた、冷酷な鬼嫁扱いされてるわよ」
舞は瞬きをした。
「え?」
「仕事しかしない」
「旦那を放置してる」
「愛情がない」
「全部聞いたわ」
舞はしばらく黙った。
普通なら怒る。
反論する。
泣く人もいるだろう。
しかし舞は違った。
コーヒーカップを持ち上げる。
一口飲む。
そして静かに聞いた。
「情報源は?」
「まずそこ?」
「まずそこです」
Jは呆れたように笑った。
「本当にトレーダーね」
「感情は後です」
「嫌いじゃないわ」
舞はスマホを取り出した。
メモを開く。
誰が言ったのか。
どこで言ったのか。
いつ言ったのか。
聞き取りを始める。
Jはその様子を見ながら苦笑した。
「普通の妻なら修羅場になるところよ」
「まだ事実が分からないので」
「冷静ねぇ」
「相場で鍛えられました」
その日の夜。
舞はパソコンの前に座っていた。
だが株価チャートではない。
ノートに情報を書き出している。
噂の発信源。
経路。
内容。
関係者。
矢印でつなぐ。
まるで事件の捜査だった。
「やっぱり」
舞は小さく呟く。
中心にいる名前は一つだった。
緑川莉子。
予想通りだった。
しかし証拠はまだ足りない。
舞はそこで手を止めた。
焦らない。
感情で動かない。
それがトレーダーの鉄則だ。
翌週。
拓海の会社では昼休みだった。
社員食堂には香ばしいカレーの匂いが漂っている。
拓海が席へ向かうと、同僚の佐伯が笑った。
「最近愛妻弁当だな」
「まあね」
拓海は少し照れる。
弁当箱を開く。
白米。
卵焼き。
鶏の照り焼き。
ブロッコリー。
彩りも綺麗だった。
「うまそう」
「本当にうまいんだ」
拓海は笑った。
その時だった。
近くを通った女性社員が話しかける。
「あれ? 奥さんって料理しない人じゃなかったんですか?」
拓海が顔を上げる。
「え?」
「なんか聞きましたよ」
「仕事しか興味ないって」
周囲が気まずそうに黙る。
拓海は驚いていた。
「誰から?」
「えっと……」
女性社員は口ごもる。
その反応だけで十分だった。
拓海の中に違和感が生まれる。
夜。
帰宅した拓海はその話を舞に伝えた。
夕食は鯖の味噌煮だった。
甘辛い香りが食卓に漂っている。
舞は話を聞きながら静かに頷いた。
「そう」
「気にならない?」
「気になるよ」
「なら」
「でも」
舞は箸を置いた。
「事実じゃないから」
拓海は目を瞬いた。
「怒らないの?」
「怒っても事実は変わらないでしょ」
「それはそうだけど」
「だから調べる」
拓海は思わず笑った。
「怖いなあ」
「市場調査です」
「相場かよ」
二人で笑う。
その頃。
莉子は自分の優勢を信じていた。
舞への悪評は広がっている。
拓海との距離も縮まっている。
そう思っていた。
しかし彼女は知らない。
舞が既に動いていることを。
数日後。
舞は偶然を装い、莉子がいるカフェへ入った。
白いブラウス。
淡い水色のスカート。
髪は艶やかに整えられている。
以前の舞とは別人だった。
莉子は一瞬、誰か分からなかった。
「え?」
思わず声が漏れる。
舞は微笑んだ。
「こんにちは」
「ま、舞さん?」
「久しぶり」
莉子は動揺した。
聞いていた話と違う。
地味で冴えない妻ではない。
むしろ美しい。
余裕すら感じる。
舞はコーヒーを注文すると、向かいの席に座った。
「拓海がお世話になってるみたいね」
「べ、別に」
「そう?」
舞は笑う。
怒りも敵意も見せない。
だからこそ莉子は落ち着かない。
しばらく雑談したあと、舞は何気ない口調で言った。
「私、聞いちゃった」
莉子の肩が揺れる。
「何を?」
「私の噂」
一瞬だけ空気が凍った。
カフェのコーヒーの香りが妙に濃く感じる。
だが舞は笑顔のままだった。
「面白かったなぁ」
「え?」
「私が家事しないって話」
莉子は言葉を失う。
舞は続けた。
「誰が言ってるのかも大体分かってる」
その瞬間。
莉子の顔色が変わった。
舞は静かに立ち上がる。
「でもね」
「……」
「私は事実しか見ないの」
柔らかな声だった。
だがその奥に鋼のような強さがあった。
「だから嘘は必ず分かるよ」
そう言い残して店を出る。
窓の外では雨が上がり始めていた。
舞は空を見上げる。
まだ戦いは終わらない。
けれど確信していた。
緑川莉子という銘柄は、見た目ほど価値がない。
そしてその化けの皮は、もうすぐ剥がれる。
舞は小さく微笑みながら家路についた。
今夜の献立は、拓海の大好きな生姜焼きだった。




