第3話 胃袋は最強のインフラ
第3話 胃袋は最強のインフラ
六月に入ったばかりの土曜日の朝だった。
窓を開けると、少し湿った初夏の風がリビングへ流れ込んできた。遠くで小鳥の鳴き声が聞こえる。
一ノ瀬舞は珍しく午前七時に起きていた。
ダイニングテーブルの上にはノートパソコン。
証券会社の画面ではない。
料理動画だった。
「だしは沸騰させないことが重要です」
講師の声が流れる。
舞は真剣な顔でメモを取っていた。
「なるほど……」
企業分析をするときと同じ目だった。
昆布だし。
かつおだし。
合わせだし。
温度管理。
塩分濃度。
火加減。
相場の研究に費やしてきた集中力が、今はすべて料理へ向いている。
スマートフォンが鳴った。
Jからだった。
「進捗どう?」
「勉強してます」
「料理?」
「はい」
「どこまで?」
「だしの取り方です」
電話の向こうで盛大なため息が聞こえた。
「あのねえ、舞ちゃん」
「はい」
「あなた今まで何作ってたの?」
「冷凍チャーハン」
「却下」
「カップ麺」
「却下」
「ウーバーイーツ」
「論外」
舞は笑った。
Jはさらに続ける。
「いい? 男を落としたいなら高級フレンチじゃないの」
「はい」
「毎日食べても飽きないご飯よ」
「ご飯」
「味噌汁」
「味噌汁」
「炊き立てのお米」
「お米」
「復唱しなくていいわ!」
電話越しに笑い声が響いた。
舞もつられて笑う。
昔はこんなふうに誰かと話しながら料理をしたものだった。
結婚したばかりの頃。
狭いアパートのキッチン。
二人で並んでハンバーグを作った。
拓海が玉ねぎで涙を流しながら笑っていた。
あの時間は楽しかった。
思い出すだけで胸が温かくなる。
昼過ぎ。
舞は近所の商店街へ向かった。
白いブラウスにベージュのロングスカート。
Jに選ばれた服だった。
まだ少し気恥ずかしい。
しかし鏡を見るたびに少しだけ自信が湧いてくる。
商店街は活気に満ちていた。
魚屋からは潮の香り。
八百屋には色鮮やかな野菜が並ぶ。
肉屋ではコロッケが揚がる音がしている。
舞は野菜を見つめた。
じゃがいも。
人参。
玉ねぎ。
しらたき。
牛肉。
今夜のメニューは決まっていた。
肉じゃが。
拓海の大好物だ。
「お姉さん、料理するの?」
八百屋の店主が笑う。
「はい」
「珍しい顔だね」
「そんなに来てませんでした?」
「三年くらい見てない」
図星だった。
舞は苦笑する。
買い物袋はあっという間にいっぱいになった。
夕方。
キッチンには甘い醤油の香りが漂っていた。
鍋の中で肉じゃがが静かに煮えている。
昆布とかつおで取っただし。
丁寧に面取りしたじゃがいも。
炒めた牛肉。
黄金色の煮汁。
湯気と共に優しい香りが立ち昇る。
隣のコンロでは味噌汁。
豆腐とわかめ。
刻みねぎ。
そして炊飯器からは炊き立てのご飯の香り。
部屋全体が温かい匂いに包まれていた。
舞は額の汗を拭う。
「緊張する……」
トレードでは億単位の資金を動かしても平気なのに。
今は心臓がうるさい。
午後七時。
玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
拓海だった。
その瞬間。
彼は立ち止まった。
「え?」
空気が違う。
鼻をくすぐる香り。
懐かしい匂い。
「舞?」
「おかえり」
キッチンから顔を出した舞に、拓海は目を瞬いた。
白いニット。
髪は整えられている。
薄くメイクもしていた。
「どうしたの?」
「何が?」
「いや……」
拓海は戸惑っていた。
舞は照れ臭そうに笑う。
「ご飯できてるよ」
ダイニングテーブルに料理が並ぶ。
肉じゃが。
味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
炊き立てご飯。
焼き鮭。
まるで旅館の朝食のようだった。
「すごい……」
拓海が呟く。
「いただきます」
肉じゃがを口に運ぶ。
その瞬間だった。
拓海の箸が止まる。
「どう?」
舞が不安そうに聞く。
拓海はゆっくり飲み込んだ。
「うまい」
その一言だった。
だが舞には十分だった。
「本当に?」
「本当に」
拓海はもう一口食べる。
じゃがいもはほろりと崩れる。
牛肉の旨味が染み込んでいる。
だしの香りがふわりと鼻へ抜けた。
「これ店出せる」
「大げさ」
「いや、本当に」
拓海は夢中で食べていた。
舞の胸が熱くなる。
食事をしながら二人は久しぶりにたくさん話した。
仕事のこと。
大学時代のこと。
最近見た映画のこと。
笑い声が絶えない。
こんな夕食はいつ以来だろう。
食後。
拓海が食器を運びながら言った。
「今日さ」
「うん」
「莉子と会ったんだ」
舞の心が少し揺れる。
しかし顔には出さない。
「そうなんだ」
「また相談に乗ってほしいって」
「へえ」
「でも今日は断った」
舞が顔を上げた。
「え?」
「早く帰りたかったから」
拓海は少し照れたように笑った。
「ご飯楽しみだったし」
その言葉に舞は息を呑む。
胸の奥が温かくなる。
嬉しい。
本当に嬉しい。
勝ったわけじゃない。
まだ始まったばかりだ。
それでも。
確かに何かが動いた。
チャートなら小さな反発。
底打ちの兆候。
そんな感覚だった。
食器を洗い終えたあと。
拓海はソファでくつろいでいた。
舞はキッチンを片付けながら微笑む。
そのときスマホが震えた。
拓海のスマホだった。
画面が一瞬見える。
『拓海くん、今度は二人でご飯行こう♡』
送り主。
緑川莉子。
舞の笑顔が少しだけ消える。
胸の奥で小さな火が灯る。
まだ終わっていない。
むしろここからが本番だ。
だが不思議だった。
以前ほど怖くない。
今日の食卓を思い出す。
拓海の笑顔。
美味しいと言ってくれた声。
温かな時間。
それは数字では測れない価値だった。
舞は静かにエプロンを外す。
そして小さく呟いた。
「負けないからね」
窓の外では夜風がカーテンを揺らしていた。
その香りは、まだ少しだけ肉じゃがの甘い匂いを残していた。




