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第2話 人生最大の自己投資

第2話 人生最大の自己投資


 月曜日の朝。


 一ノ瀬舞は珍しく午前六時に目を覚ました。


 いつもなら深夜まで相場を見続け、昼近くまで寝ていることも珍しくない。しかし今日は違った。


 カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。


 隣を見ると、拓海はまだ眠っていた。


 穏やかな寝顔だった。


 長い睫毛。


 整った横顔。


 大学時代、一目惚れした時と変わらない。


 舞の胸が少し痛んだ。


「私、何やってたんだろう……」


 思わず呟く。


 相場には敏感だった。


 株価が一%下がればすぐに気付く。


 企業の業績悪化も見逃さない。


 なのに。


 夫婦関係の下落チャートだけは見落としていた。


 舞は静かにベッドを抜け出した。


 洗面所の鏡の前に立つ。


 蛍光灯の白い光が容赦なく現実を照らす。


 ぼさぼさの黒髪。


 目の下の薄い隈。


 荒れた肌。


 伸びきったジャージ。


 どこからどう見ても二十八歳には見えなかった。


「うわぁ……」


 自分で引いた。


 スマホで昔の写真を開く。


 大学時代の自分。


 白いワンピース。


 艶やかな髪。


 笑顔。


 隣には若い拓海。


 今よりずっと幼い顔で笑っている。


「戻ろう」


 舞は小さく言った。


「いや、もっと良くなる」


 トレーダーは夢を見ない。


 現実を見る。


 そして改善する。


 それだけだ。


 朝食にトーストとスクランブルエッグを作った。


 久しぶりの料理だった。


 バターの香りがキッチンに広がる。


 コーヒーの湯気が立ち昇る。


 拓海が起きてきた。


「えっ?」


 目を丸くする。


「舞が朝ご飯作ってる」


「失礼だなあ」


「一年ぶりくらいじゃない?」


「そんなに?」


「そんなに」


 二人で笑った。


 久しぶりの食卓だった。


 拓海がトーストをかじる。


「うまい」


 その一言だけで舞は少し嬉しくなる。


 こんな気持ちも忘れていた。


 拓海が出勤したあと、舞はパソコンを開いた。


 だが株価を見るためではない。


 検索窓に入力する。


『東京 美容プロデュース』


『パーソナルカラー診断』


『骨格診断』


『女性 トータルプロデュース』


 その中で目に止まった名前があった。


 J。


 芸能人も通うという有名サロンオーナー。


 予約は三か月待ち。


 料金も高額。


 しかし舞は迷わなかった。


 株なら一日で数百万円が動く。


 人生を変える投資なら安いものだ。


 その日の午後。


 舞は銀座へ向かった。


 高層ビルの一角。


 大理石の床。


 ほのかに漂う高級な香水の香り。


 緊張しながら受付へ進む。


「ご予約の一ノ瀬様ですね」


「はい」


 案内された個室はホテルのラウンジのようだった。


 しばらくすると扉が開く。


 現れた人物を見て舞は思わず目を瞬いた。


 身長は百八十センチ近い。


 鮮やかな紫色のスーツ。


 完璧なメイク。


 大ぶりのピアス。


「いらっしゃい」


 低い声が響く。


「アタシがJよ」


「は、初めまして」


 Jは舞を頭の先から足の先まで見た。


 三秒。


 沈黙。


 そして。


「もったいない」


 開口一番だった。


「え?」


「素材はAランクなのに運用が最悪」


「運用?」


「そうよ」


 Jは腕を組む。


「あなた、数億稼ぐトレーダーなんでしょ?」


「はい」


「なのに自分には投資してない」


 図星だった。


 舞は言葉に詰まる。


 Jはさらに続けた。


「肌、睡眠不足」


「はい」


「髪、栄養不足」


「はい」


「姿勢、最悪」


「はい……」


「でも骨格は綺麗。目も大きい。首も長い」


 Jはニヤリと笑った。


「面白いわね」


「面白いですか?」


「十年放置された優良株みたい」


 舞は思わず吹き出した。


 初めて会ったのに話が通じる。


 Jはタブレットを開いた。


「じゃあ始めるわよ」


「何をですか?」


「再上場」


 その言葉に舞は笑ってしまった。


 数時間後。


 髪の診断。


 肌の診断。


 姿勢の測定。


 パーソナルカラー。


 骨格分析。


 あらゆるデータが並ぶ。


 まるで企業分析だった。


「なるほど」


 舞は真剣にメモを取る。


 Jが呆れたように言う。


「美容サロンで決算書みたいな顔しないで」


「でも楽しいです」


「重症ね」


 夕方になる頃には大量の改善プランが完成していた。


 睡眠時間。


 食生活。


 運動習慣。


 スキンケア。


 ヘアケア。


 服装。


 すべて数値化されている。


 舞はそれを見て目を輝かせた。


「最高です」


「え?」


「攻略法があるなら勝てます」


 Jは大笑いした。


「好きよ、その根性」


 帰り道。


 舞はデパ地下へ寄った。


 鮮やかな野菜。


 艶やかなトマト。


 香りの良いバジル。


 新鮮な鶏肉。


 今日はちゃんと料理をしよう。


 袋を抱えながら歩く。


 そのときだった。


 通りの向こうに見覚えのある姿が見えた。


 拓海だった。


 そして隣には女性。


 長い茶色の髪。


 華やかなワンピース。


 楽しそうな笑顔。


 緑川莉子だった。


 二人はカフェへ入っていく。


 舞の足が止まる。


 胸が少し痛む。


 嫉妬。


 不安。


 焦り。


 様々な感情が押し寄せる。


 だが。


 舞は深呼吸した。


 トレーダーは感情で売買しない。


 パニック売りは破滅を招く。


 まだ終わっていない。


 むしろここからだ。


 舞は買い物袋を握り直した。


「待っててね、拓海」


 夕焼けが街を赤く染めていた。


 人生最大の自己投資が、今まさに始まろうとしていた。




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