↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/11

第1話 優良銘柄の暴落

第1話 優良銘柄の暴落


 五月の終わりの夕方だった。


 一ノ瀬舞は、自宅マンションの書斎で六枚並んだモニターを見つめていた。


 窓の外では雨が降っている。灰色の空に覆われた東京の街はどこか沈んで見えた。


 モニターには無数の数字が流れている。


 赤。


 緑。


 白。


 チャートが上下し、板情報が激しく動く。


 舞は黒いジャージ姿のまま椅子に座り、無造作にまとめた髪をかき上げた。


 テーブルの上には飲みかけのブラックコーヒー。


 昼食代わりのコンビニのおにぎりの包装紙。


 相場が動く日は、食事さえ忘れる。


 それが彼女の日常だった。


「よし」


 小さく呟く。


 数分後。


 保有株が急騰した。


 利益確定。


 画面に表示された数字を見て舞は満足そうに息を吐く。


「今日も勝ち」


 数百万円の利益。


 しかし舞にとっては珍しくもない数字だった。


 トレーダー歴八年。


 今では億単位の資産を運用している。


 勝つことにも慣れていた。


 だが、その日の夜。


 舞は人生で初めて、自分の見落としに気付くことになる。


 玄関のドアが開く音がした。


「ただいま」


 夫の拓海だった。


「おかえりー」


 舞はモニターから目を離さないまま返事をする。


 拓海はスーツの上着を脱ぎながら苦笑した。


「まだ仕事?」


「うん。あとちょっと」


「その"あとちょっと"、三時間前も聞いたぞ」


「えへへ」


 舞は笑った。


 拓海も笑った。


 いつもの夫婦の光景だった。


 だが、どこか違っていた。


 拓海が夕食を食べる間も、舞はモニターの前から動かない。


 食卓にはスーパーで買った総菜。


 唐揚げ。


 ポテトサラダ。


 カット野菜。


 味噌汁はインスタントだった。


 以前は違った。


 結婚したばかりの頃、舞は料理が好きだった。


 休日には二人で買い物へ行き、キッチンに並んで夕食を作った。


 それが今では相場が最優先になっている。


 舞自身も気付いていなかった。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 夫婦の時間が減っていたことを。


 そのとき、拓海のスマートフォンが鳴った。


 通知音だった。


 拓海が画面を見る。


 そして少し笑った。


 ほんの一瞬。


 けれど舞は見逃さなかった。


「誰?」


「え?」


「今笑った」


「別に」


「怪しい」


 舞が椅子を回転させる。


 拓海は観念したようにスマホを見せた。


 そこには女性からのメッセージ。


『今日はありがとう! 久しぶりに会えて嬉しかった♡』


 送り主の名前は――緑川莉子。


 舞は眉をひそめた。


「あれ? この人って」


「幼馴染」


「離婚したって言ってた?」


「ああ。先月戻ってきたらしい」


 拓海は何気なく答えた。


 だが舞の胸の奥に、小さな違和感が生まれた。


「今日会ったの?」


「会社の近くで偶然」


「ふーん」


 舞は再びモニターへ視線を戻した。


 しかし数字が頭に入らない。


 なんだろう。


 この感覚。


 チャートを見続けてきた人間の勘。


 何かがおかしい。


 翌週。


 その違和感はさらに大きくなる。


 拓海の帰宅時間が少し遅くなった。


 スマホを見る回数が増えた。


 何気ない会話の中で莉子の名前が出る。


「莉子がさ」


「莉子が言ってたんだけど」


「莉子も建築好きらしくて」


 舞はモニターを見つめながら黙って聞いていた。


 数字なら分かる。


 業績も分かる。


 企業価値も分かる。


 だが人の心は分からない。


 金曜日の夜。


 拓海が珍しく外食だと言った。


「莉子と?」


 舞が聞く。


 拓海は少しだけ困った顔をした。


「他にもいるよ」


「へえ」


「同級生の集まり」


「ふーん」


 その返事を聞きながら、自分でも驚くほど心がざわついていた。


 そしてその夜。


 舞は久しぶりに鏡を見た。


 洗面所の白い照明。


 そこに映る自分。


 ぼさぼさの髪。


 寝不足の目。


 伸びきったジャージ。


 肌も荒れている。


 大学時代。


 拓海が一目惚れした頃の自分とは別人だった。


「……あ」


 舞は呟いた。


 ようやく気付いた。


 相場ばかり見ていた。


 利益ばかり追っていた。


 その間に、自分は何を失っていたのだろう。


 ふとリビングを見る。


 拓海がいない部屋は静かだった。


 冷蔵庫のモーター音だけが響いている。


 胸が痛かった。


 それは株で損をした時とは全く違う痛みだった。


 涙が滲む。


「やだな……」


 舞は蛇口をひねった。


 冷たい水で顔を洗う。


 そして鏡を見つめた。


 トレーダーとしての自分ならどうする。


 感情で売買しない。


 事実を分析する。


 問題を把握する。


 改善策を考える。


 それだけだ。


 舞は深呼吸した。


 そしてノートパソコンを開く。


 新しいファイルを作成する。


 タイトル。


『一ノ瀬家 改善計画』


 そこへ箇条書きを始めた。


 生活習慣。


 美容。


 料理。


 夫婦時間。


 健康管理。


 次々に文字が並ぶ。


 書きながら、舞の目に少しずつ光が戻っていく。


 そのとき玄関の鍵が開いた。


「ただいま」


 拓海が帰ってきた。


 ほろ酔いらしく少し機嫌がいい。


 舞は立ち上がった。


 そして拓海を見つめる。


 拓海は不思議そうな顔をした。


「どうした?」


 舞はしばらく黙ったあと、小さく笑った。


「ねえ、拓海」


「ん?」


「私ね」


 胸の奥で何かが燃えていた。


 悔しさ。


 不安。


 嫉妬。


 そして愛情。


 全部が混ざっている。


 舞はゆっくりと言った。


「この銘柄だけは売らないから」


「は?」


「損切りしない」


「何の話だよ」


 拓海は吹き出した。


 舞も笑った。


 でも目だけは本気だった。


 人生で最高の投資。


 人生で最高の優良銘柄。


 一ノ瀬拓海。


 この勝負だけは負けない。


 舞はそう心に誓った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。