第3話-15 音楽祭と妹 10min+α
「お兄ちゃん、朝だよ、お出かけしないの?」
そんな美羽の声とともに、俺は目を覚ました。
昨夜、「さすがに楽譜が読めねえのはやばいよな」と思った俺は、
家事を済ませた後、パソコンでネット検索しながら勉強していたのだが、
どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。
キーボードに顔面を押し付けて寝ていたようで、顔が痛い。
「うーわ、最悪、跡残ってやがる」
寝ボケつつ試しに顔を触ってみると、
キーボードの凸凹の跡ががしっかりと顔に残っている。
明後日の方向を向いたキーボードを元に戻したとき、
手首がマウスに当たってパソコンのスクリーンセーバーが解除された。
表示された画面右下の時計を見て俺ア然。
緊急事態発生。
「ウォォォォオオッ!
美羽、今日はいつ起きた?」
「きょうは朝のテレビは美羽一人でみたよ」
「そんとき何故俺を起こさなかったんだテメー!」
「お兄ちゃんもみたかった?」
「んな訳があるかっ!」
時刻は午前九時五十分。
練習開始の約束の時間十分前じゃねえか!
これはマジでやばいぞ、チカに殺されるぞ!
俺はイスを倒す勢いで飛び上がり、
洗面所で顔に水をぶっかけ、歯ブラシを高速シェイクしながら着替える。
それと同時に着替えとパンを焼き、美羽に行く準備をするように言う。
人間本気になれば一度に三つぐらい同時に作業できるってもんよ!
もちろん、美羽は遅刻した際の免罪符代わりだ。
美羽の扱いがひどいだ?もう何とでも言え!チカにぶん殴られるよりかは断然マシだ!
「もうきがえてるよ!」
美羽は服の裾を引っ張りアピール。
裏表よし、前後よし、靴下よし、完璧だ。
「でかしたぞ美羽!」
「へへへ……」
照れる美羽をよそに俺は洗面所にとんぼ返り、
歯ブラシを元の収納場所に突っ込むと、チーン、とパンの焼き上がる音。
ベストタイミング!
「美羽!今パンが焼けたからテーブルの上に置いてある
ジャムなりバターなり好きなもんを塗りたくって食せ!」
「はーい!」
美羽はこの緊急事態を理解しているのかどうかは知らんが、
とりあえず俺は財布に千円札があるかどうかを確認し、ポケットに突っ込む。
壁に掛けてある電波時計を見れば約束の時刻まであと七分!
これはアレを使うしかない!
「いただきまー…「美羽、出かけっぞ!」」
見れば苺ジャムを文字通り塗りたくったパンを美羽がかじりつこうとしている最中だった。
「まだ美羽これ食べてなーい!」
「構わん!俺の修羅場を見たくなければついて来い!」
強引に美羽の手を引いた俺は家を出て鍵を閉め、エレベーターのボタンを押す。
しかしエレベーターは階下《5》で▲印のまま止まっている。
下からはおばさんの雑談。
エレベーター貸し切りで雑談すんなババア!
「そうだ美羽、お前はコアラになる自信はあるか?」
「こあら?」
「そうだ、コアラだ」
「……コアラ、なりたい!」
「ヨッシャ!俺という大木に掴まれ!」
……ポム☆
「そっちじゃねー!」
確かにそっちも比喩表現で使われることもあろう!
だがしかし、今こんな状況で掴んでどーする!?
つーか、ガキの分際で心得てるんじゃねえよ!
「なにがそっちじゃないの?」
「あーもう理解出来てようが出来てまいが何でもいい、とにかくおんぶだおんぶ!」
俺は屈んで背中を見せると、美羽は喜んで飛び乗った。
「いいか、しっかり掴まっておけよ!」
エレベーターは来る気配を今だに見せない。
ならば階段を下りる他方法はない!
俺は美羽を背負ったままエレベーター横の階段を駆け降りる。
おばさんの話し声がそれに連れて大きく、明瞭になる。
「ウォリャリャリャリャリャリャア―――――!
そこの奥さん!エレベーター占領すんなボケ―――!」
階段を駆け降りながらそう叫び、
エレベーターが停止している五階のエレベーターホールをチラ見すると、
キョトン顔の主婦二名。
俺は構わず階段を駆け降りる。
まあ確かに、いきなり幼女を背負った青年に、
階段を駆け降りながら注意され、颯爽と消えていくというシチュエーションは、
なかなかあったものではないだろう。
とにかく、遅刻時間をどれだけ短くできるか、それだけが俺の頭を占領している。
ようやく一階にたどり着き、駐輪場で美羽を下ろして自転車を出す。
コイツでどれだけ時間短縮ができるか分からないが、徒歩よりは早いはず!
「ほれ、背中に乗れ!」
美羽はニコニコした様子で俺にしがみつく。
「いいか、ぜってえに俺から手を離すんじゃねえぞ?」
「うん!」
「よーし!行くぞ!」
俺は美羽を背負ったまま自転車に飛び乗って、急発進。
頭の中でチカの家までの最短ルートならびに最速ルートを弾き出し、
自転車をそのルートに乗せた。
「わー!お兄ちゃん速ーい!」
背中の美羽は相当喜んでいるようだ。
お前は恐怖心というものを忘れたのか?
俺が競輪スタイルで自転車を漕いでるから、
背中の美羽の負担は少ないだろうが、
高速で流れてく地面を見て怖がらないとは、肝が座ってやがる。
時間がどれだけ経ったかは分からない。
俺はチカの家の前に到着、自転車に乗ったままインターホンを押した。
ピンポーン
……ガチャ(インターホンの音)
「おう、俺だ」
《……………………》
「もしもし?」
《……………………》
「悪い、寝坊した」
《…………コウ、アウト》
インターホンからチカの声がした。
「ゴメン」
《まあいいわ、
自転車の音が聞こえてきたってことは、今日はあんた一人で来たんでしょ?
まだ遅刻三分ってとこだし、軽い罰ぐらいで許してあげるわ》
「残念、俺一人じゃねえ。美羽もいる」
免罪符の存在を忘れてはならない。
《二人乗りしてきたの?》
「厳密には1.5人乗りだ」
《それどういうこと?》
「美羽を背負ってきたんだよ」
《よくそんなアクロバティックな技を……》
「人間本気になりゃ少しぐらい無茶こいてもどうってことねえよ」
《美羽ちゃんが落ちるとか、そういう心配はしなかったの?》
そうこう会話してると、匠先輩が出てきた。
チカはそれに気がついたらしく、
インターホンからガチャリという音が聞こえ、通信は途絶えた。
「おう、我が後輩D!
妹を背負って自転車とは、なかなかポイントが高いね」
何のポイントだよ。
「遅刻してすみません、先輩」
「なあに、これぐらい死刑で済むから安心しろ」
「………………。」
「……冗談だ、本気にするな。
俺は千賀とは違ってそういう血生臭いのは嫌いでな、
これぐらい時計の誤差の範囲だ」
匠先輩は笑って柵を開けてくれた。
「自転車は適当に花壇の隅にでも置いといてくれればそれでいい」
例の地下室に入ると、ジョーと零雨と麗香は壁に寄り掛かって雑談。
飛び起きてからここまでの俺の中のどっかの制御スイッチがパンクしてたらしい。
今思い返せばテンションが異常だった。
一言で言うなら、「寝過ごした俺(笑)」。
「おっす、コウ」
「おう」
壁に寄り掛かって一息つくと、チカと匠先輩が下りてきた。
匠先輩は手ぶらで、チカはノートパソコンを持っている。
どうもチカは匠先輩のアシスタント役になっているらしい。
イスの一件が響いたか。
「お前ら、ちゃんとCDは聴いてきたよな?」
匠先輩はチカにノートパソコンのセッティングをさせながら聞いた。
「はい、聞き過ぎて親に
『何回同じ曲聞くんだ?こっちも歌詞覚えちゃったぞ?』って怒られました」
ジョーは笑いながら答えた。
イヤホン着けて聴けばいいものを、わざわざ部屋に垂れ流すからだろ。
そういう俺も、暇がありゃ垂れ流しまくってたが。
「それぐらいやれば十分だ。
さて、耳コピさんと作曲さんは誰だったかな?」
「…………私」「作曲は私です」
「どうだい?進捗状況は」
「……楽器別の……楽譜は全曲全て……作成済み……です」
「私も、一応全部書き上げました」
零雨が敬語を話すのを聞くのは初めてだ。
前回ここに来たときにそうするよう俺が教え込んだのだ。
匠先輩は目を丸くした様子で言った。
「はぁー!作業早いね!
耳コピなら俺でもこのぐらいの時間があればできるだろうけど、
何、大分前から作曲してたのかい?」
「いえ、昨日一晩で書き上げました」
麗香はそういいながら、洒落たショルダーバッグから楽譜ノートを先輩に渡す。
「これが作曲した曲です」
そういや、夕べ麗香にCDを貸すのを忘れてたが、大丈夫だったのだろうか?
匠先輩は受け取ったそれをペラペラめくると一言、
「かなり複雑な曲だね、これ本当に一晩で書き上げたのかい?冗談だろう?」
と、麗香に疑いの目を向けた。
麗香は嬉しいような困ったような、そんな表情を浮かべた。
「本当に一晩で書き上げたんです!」
「まあ、とにかくここに完成品があるわけだし、
どれぐらいの期間で作り上げたのかは問題ではないか。
問題なのは、『この曲の質はどうなのか』ということだな」
匠先輩は麗香の楽譜ノートを扇いで顔に風を送りながら、
チカが用意したノートパソコンの前に座った。
「作曲した子、名前何ていうのかな」
「神子上麗香です」
「はいはい、神子上さんね、作ってもらったメロディーをパソコンに打ち込んで、
想像通りの曲になっているか、ちょっと確認しよう」
匠先輩は三十分待ってくれれば打ち込みは終わるからといったが、
麗香が作った曲は予想以上に打ち込みしにくい曲だったらしく、
結局打ち終わるのに一時間以上かかってしまった。
その間、俺達は事前に兄から教わったらしいチカに、
地下室にある楽器の扱いを全部一通り教えてもらった。
まあ実物を使って教えてもらったわけだし、そりゃ分かりやすかった。
……ただ、チカ先生が噛み噛みだったのが残念ではあった。
「さてさてさて、打ち込みも終わったし、
ちょっと神子上さんの作った曲を流してみようか。
ヴォーカルは打ち込んでないから、そこのところ頼んだぞ」
麗香は顔を赤らめうつむいて、小さく「……はい」と答えた。
「それじゃ、好きなタイミングでこのボタンを押してくれ」
匠先輩はパソコンのイヤホンジャックを通してアンプに繋ぎ、
麗香に再生ボタンを押させた。