幕間:基底現実 / エリック博士の伝説のレポート
別の小説に思うかもしれないけど、ちゃんと本作です。
内容はすべて理解できなくてもいいけど、分かるようになると、ちょっと楽しい。
……や、ハッスルしすぎたかも。ゆるして。
「あー……」
与えられたデスクチェアの背もたれに体重を預け、業務中にためらいもなく目を細めて、のんきにあくびしながら首を掻く男――エリックの直近の悩みは、いましがた淹れてきたばかりのエスプレッソが熱すぎることだった。
彼の眼鏡がモニタの青白い光を反射する。知性のにじみ出るそのフレームレスの四角い眼鏡はシンプルな北欧の品格が備わる。それは彼のシンボルであり、また出身を表現するアイデンティティでもあった。
エリックの首から提げたIDカードは、彼が欧州共同研究機構(European Unified Research Organization)――EUROの職員であり、主任管理者という役職を与えられていることが記されていた。
デスク横に置かれたコンピュータのアクセスランプが、ときおり光る。
一部スモーク処理の施されたガラス張りの壁の向こうの通路は、ぽつぽつ通り過ぎる人がいる程度で、全体的に落ち着いた雰囲気だ。
彼の仕事は、EUROが所有する量子コンピュータELVESの管理者として、システムの維持管理に必要なすべてをこなし、必要に応じてジョブを投入することだった。
ELVESは、伝統的なノード・クラスター構成をとる分散型の大型量子コンピュータで、クラシックなアーキテクチャだ。
大型古典計算機の黄金期、一時代を築いたアーキテクチャだった。その後、先延ばしにしていた半導体の微細化技術の限界による性能向上の頭打ちから逃れられなくなり、集積回路は設計および概念の段階で革新が求められた。
――正確には、既に性能は人々の生活を豊かにするには身に余るものとなり、革新を求めていたのは、見栄えのよい決算書と費用対効果を求める企業と投資家くらいのものだった。
端的に言えば、業界の独り善がりだった。
とかく、古典計算機、CPUは実態として情報を0と1で表現しなくなった。それまで主に蓄電型記憶装置で培われた電圧の多段階化による信号の表現技術や、超高帯域信号転送技術がCPUに持ち込まれ、1クロックは6bit――64段階の電圧で表現され、処理される。
とはいえ、経済界のソフトウェア資産活用への要望もあり、実態としては従来通りの動作になるよう設計されている。
すなわち、あくまでそれは信号速度の壁を突破するための技術であって、ソフトウェアから見れば原典通りのバイナリとして透過的に扱える設計である。
影響があるとすれば、アーキテクチャを考慮した計算処理の高速化手法に変化がある程度であった。
計算機時代黎明期へ先祖返りしたようにアナログ化するCPUに追いつかなかったのは、またしても通信技術だった。デジタルの長所だった減衰耐性やノイズ耐性と引き換えに多電圧による高速化を選べば、通信距離の限界はさらに狭まる。
今や通信はもっぱら光子の仕事であり、ELVESのノード間接続も光通信である。
演算を光子で行うコンピュータもあるが、エリックにあてがわれたコンピュータは枯れた技術で作られた廉価な電磁気型だった。
エリックがEUROにいるのも、かなり良い成績で計算機科学を専攻して卒業できたからに他ならない。確かにELVESを預かるのは名誉ではあったが、欲をいえば、予算が許せばデスクのコンピュータも最先端の、光子のイケてるマシンを駆って仕事したかった。
とはいえ。
……暇だ。
たとえ光コンピュータを買ってもらえたとしても、エリックの状況では無駄遣いであることに疑う余地はなかった。
エリックは、つい最近掲載された記事、人工知能が人類が認識していない未知の物理現象をシステムに組み込む可能性、特に量子コンピュータの分野で人工知能を利用する場合において――量子自己進化(Quantum Self-Evolution)現象が発生する可能性に関する記事をモニタに表示して眺めていた。その概念自体は別に新しいものでもなく、以前から指摘されていたものだった。
彼もEUROもその危険性については認識していた。慎重な検討の末、ELVESに対策を既に施している。ELVESは人類に対する攻撃的な行動をとることはできない。
一方で、ELVESは、管理者の指示や制約から逸脱できないように論証されたロジックの枠組みの中で、自己進化するアーキテクチャとして成功している。
逆の見方をすれば、AIが勝手に現象を発見してその応用サンプルまで示してくれるわけで、ある意味「役に立つ研究」をしてくれていると考えることができる。その行為を誰が咎めるだろうか。
最悪の事態が発生すれば、エリックは単独かつ即時に、システムを強制キルできる権限を与えられている。何重もの安全措置を超えた最後の砦としての役割は、彼の重要な仕事のひとつだった。
彼はその記事の見出しが自らの職責に関連しうると思うと、自然と引き寄せられるようにして開いたのだった。
そもそも人工知能の本質は、どのような手段であれ、入力を元にパラメータが動的に修正され、期待結果に収斂するよう設計された、帰納的推論に基づく変換関数である。物理的な現象の因果関係を学習すれば、変換関数は"原因"の入力に対して変換処理を行い"予測結果"を出力する。
この変換関数はその性質上、近似関数となる。
エリックは思う。
それは科学的な実験と観察に基づく研究と何か違いはあるのだろうか、と。
確かに人工知能のやっていることは、端的にいえば原寸合わせのやっつけ作業と変わらない。しかし、天体の動きというデータの解釈について天動説と地動説で争っていた我々は、それを嘲笑する立場にあるだろうか。
決して口に出すことはないが、こうも思う。
現代の科学は、現実に不可逆な変換関数が存在しないことを前提に構築されている。それは本当に真理の探究なのだろうか、と。
結局それは実験と観察によるデータセットを用いた人の手による変換関数の導出であり、人工知能がやっていることと変わらないのではないか。
研究とは結局、より優れた近似式がどれであるかを議論しているだけはないのか、と。
計算機科学に毒されているだけなのかもしれないが。
因果が可視化されない限り、すべてはファンタジーとして扱われるこの世界は、あまりにも脆弱ではないか、と。
こんなことを言えば、どんな目に遭うか。ロクなことにはならないことは確実だ。
科学技術とはジェンガのようなものだ。誰かの理論の上に別の理論が積み上がる。
ときおり、根元の理論が実は違っていたとブロックが引っこ抜かれ、新たなブロックが積み上がる。
タワーが高くなるほど、崩壊を恐れるようになる。いまや、タワーはさながらバベルの塔のようだ。
天動説から地動説に切り替わるような大規模な革命は、この先起こりうる。しかし人類の社会システムが日常生活の隅々に至るまで、科学技術の上に成り立っている現在、ジェンガの根元のブロックを引っこ抜かれるような、大きなパラダイムの変化に社会構造は耐えられるようにも思えない。
例えば、電流は陽極から出ると仮定しながら、実際は陰極から電子が出ていた事実を、こじつけでどうにかしたことと同じことを、またやるのだろう。
うまくいって、旧来の理論でも実用上問題はない、という話が落とし所になるのだろう。
運が悪ければ、社会が変わるより一人が消えた方が都合が良い――人類は、バベルの塔を崩すと分かっていながら、真理を選びとりブロックを引き抜けるほど勇敢ではないのだ。
「…………。」
――こんなくだらない思索を延々と続けている今この瞬間にも、エリックの給料は発生し続けている。
彼はその事実を思い出し、我に返る。
彼にあてがわれた専用のオフィスルームの壁掛け時計は午後五時すぎを示していた。
一通のメールがエリックに届く。パリにある企業からの連絡だった。来月中旬頃にELVESに実行させたいジョブがあるので、枠を確保してほしいという依頼のメール。EURO内で転送されて、彼にまでお鉢が回ってきたものだった。
「大企業様はなんでも自分の思い通りになると思ってんのかねぇ」
たしか、来月は受付枠そのものがないと案内していたはずだが。念のためPCを操作して来月のELVESの稼働枠の予定を見るが、彼の記憶に間違いはなかった。
共有設備の都合で、EURO内の研究に使用するノードを残して、ELVESは来月は休止する予定になっていた。民間に貸し出す枠はない。
"ご要望ありがとうございます。来月は計画の通り、休止の予定に変わりありません――"
「よう」
彼が断りの返信を書き始めたところで、ノックも無しに彼の部屋のドアを開けて同僚のバラージュが顔を出した。彼もエリックと同じELVESの管理者であるが、エリックの方が職位としてはより上位であった。
彼が押し開いた内開きのガラス製のドアには、コピー用紙に油性ペンで雑に手書きされた"EURO NURSERY SCHOOL"(EURO保育園)の紙が、養生テープで雑に貼り付けられていた。昔バラージュが面白がって作ったもので、陽気な彼はハンガリーの出身だった。
エリックは文面を打つ手を止め、椅子を軋ませてバラージュに向き直り文句をつける。
「俺が打ち合わせ中だったらどうするつもりだったんだ?」
「ノックと声かけに違いなんざねぇよ。俺にとっては」
ドアの外枠に片腕を押しつけもたれかかるバラージュは気にも留めずニヤつく。四十も後半に差しかかるバラージュは、白くなりはじめた伸ばしたヒゲをもう片方の手で触りながら答える。
エリックとバラージュは、周囲からは腐れ縁の名コンビとして認められていた。
「聞いたか? UHL-LHC。休止期間延長だってよ」
「へぇ」
Ultra High Luminous Large Hadron Collider。通称UHL-LHC。超超高輝度大型ハドロン衝突型加速器とも意訳されるその設備は、オフィスの窓から見えるスイス連邦の険しい山岳地帯、その地下数百メートルの奥深くに建設された専用の環状トンネル内に設置された大型実験設備である。
その直径数十キロの巨大な環状設備は、国境を飛び出しフランスの地下にまで及ぶ。
陽子に磁場を与えて加速し、陽子同士を衝突させてその様子を観察する。それがこの施設の本質だった。
同極の磁石が反発し合うように、陽子同士も反発し合う。その力を打ち破ってぶつけて反応させるのだから、衝突速度は速いに越したことはない。これまでも加速器は何度かの大改装と世代交代を経て、現在のUHL-LHCに至る。
より大出力の加速器を用意するなら、加速器の直径を大きくする方が理論的には容易そうではあった。過去にはUHL-LHCへの更新計画で、既存の加速器を前段の加速器として、より大型の加速器へ荷電粒子を投入するドリームプランも議論されたが、結局研究者のおねだりで片付けられてしまった。
つまるところ、建設当時から百年以上が経過した骨董品のような地下トンネルを未だに使い続けるのは、欧州各国が穴掘り代を渋った――もとい科学技術に対する予算捻出の調整が難航したからであって、すなわち工夫して何とか使うという妥協であった。
「で、今回はなんだって?」
「超電導磁石。磁界制御の調整不足。このあいだ試験運転してたろ」
「あぁこの前の」
陽子を装置内に捕らえたまま加速させるための超電導磁石。制御の要。
UHL-LHCは、数年単位で稼働と休止を繰り返している。休止期間中に、巨大な装置のメンテナンスやマイナーアップデートを施し、次の稼働に備える。その繰り返しで運用されてきていた。
今は稼働再開の最終調整の時期で、そのために試験していたのだ。
「あわや荷電粒子砲一歩手前だったそうだ」
ようやく飲めるぞとエスプレッソのマグカップに口をつけたエリックが噴きだす。
重大インシデント。大事故寸前じゃないか。
「だから俺は新しくトンネルを掘った方がいいと言ったんだ」
エリックがいくら力説したところで、最終的な決定権は各加盟国の総意にあるうえ、そもそも部署が異なる彼の言葉に影響力などなかった。
いくら核融合で経験を積んでいるとはいえ、直径数十キロの小さい円を高速移動する粒子の遠心力を磁界で押しとどめることが難しいことに変わりはない。
円の直径が大きくなれば、陽子にかかる遠心力を小さくでき、磁界制御が容易になる。それがエリックの意見の根拠だった。
高エネルギーの荷電粒子が制御を外れて装置や施設に飛び出せば、粒子本体や副産物の放射線こそ、地下深くの岩盤が防いでくれるだろうが、施設や装置は大惨事だ。原子レベルで深刻な損傷を受けるだろう。修理には何千万、いや何億で済むかどうか。
部署は違えど、運営母体は同じEUROなのだ。ELVESのリソースを民間に時間貸しして、コツコツ小銭稼ぎしてためた貯金もろとも、荷電粒子砲で吹き飛ばされては、こっちもタダでは済まない。
「俺達のボーナスまで吹き飛んじゃいないだろうな?」
「俺は慣れてる」
「慣れたくないね」
エリックには、ハンガリー式ジョークの面白さはいまひとつピンとこなかった。いや、バラージュだからなのかもしれなかった。
「総点検をかけているそうだが、陽子による破壊は今のところ確認されず――設備は無傷――どっちも失敗ってことだ」
「バラージュ。俺達はDARPAじゃない」
バラージュのことだ。どっちも、の片方は荷電粒子砲の発射試験に違いない。
EUROは至って平和な知的好奇心による科学の探求と世界への貢献を目的とした組織であって、決して、スペースオペラじみたビーム兵器の研究開発機関ではないのだ。
バラージュが眉を動かして答える。
「いかにも。ただ、お前の仕事にも多少関係する話と思ってな」
ELVESは加速器とは無縁なように思えるが、成り立ちには深い関係があった。
加速器に使用する超電導磁石の稼働には、膨大な電流を供給できる電源設備と、極低温での超電導状態を維持するための冷却剤、つまり液体ヘリウム冷却システムが必須だ。しかし休止期間中はこれらは使われない。
高価な大型極低温冷凍機が遊んでしまうのだ。
そこに目をつけたEUROは、世界的な量子時代の時流に乗るため、良質な電源と冷却環境が揃っているこの設備の有効活用を掲げて、大型量子コンピュータELVESを設置したのだ。
もっとも、外乱に弱い量子コンピュータのすぐ近くに、強力な電磁場を発するUHL-LHCがあるとなれば、厳重な電磁シールドを施しても、同時稼働中は影響を受けるようだった。どういうわけか時々ELVESの演算結果と検算結果の不一致や精度低下、エラー停止によるジョブ失敗が見られるのだ。
とはいえ、ELVESは総合的に見て成功したシステムである。
今では加速器の影響を受けないエリックの母国――安価な電力と豊富な冷却資源に事欠かないスウェーデンに、連係用の2号機も設置され、現在も稼働中。エリックの管理下だ。
「刺激的な情報をありがとう。ほかに何か用は?」
「もうひとつある。さっきELVESの部屋の前を通りがかったんだが、だいぶ装置が唸ってた。割込みでなんかやってるのかと思って」
「……いや? いつものメインジョブ以外、特には。」
エリックはそう言いながら、PCを操作してモニタ上でELVESのコマンドパネルにアクセスする。確かに少し反応が悪かったが、しばしばあることだった。
384ノード中、65ノードが休止中。319ノードがアクティブ。
システム全体の負荷は確かに高く、その原因は勝手に追加された自動メンテナンスジョブのようだった。
「ああ。エージェントの判断で自動メンテナンスが入ることが時々あるんだ」
ELVESのメンテナンスは、周期実行される定期ジョブが中心だが、人工知能の管理エージェント――正確にはELVES内部で開かれる評議会の判断で、随時メンテナンスジョブが走ることがあった。
欧州各国から任意で提供された管理エージェント――人工知能が集まり、ELVES内の評議会に参加し、意見を交わして運用方針を決定、実行する。
エリックは彼らに対してジョブや作業指示を与えるだけで、あとは彼らがスケジューリングやレポートがあればその報告、何かあれば意見具申まで行ってくれる。
エリックはルーチンの一環で、そのままゲストエージェントのステータスリストにも目を通す。何かの拍子で脱落しているエージェントがいれば、それを復帰させるのもエリックの仕事だった。
ARCHIMEDES、BOHR、GUARDIAN、KOPERNIK、LEONARDO、ODIN201、PLANCK、SENTINELLE――ほか多数の、それぞれのお国柄と威信を冠した多数のエージェントがアクティブ状態で稼働している。特にやることはなさそうだった。
ELVESの計算資源をスマートに有効活用するための、民主的で先進的な意思決定システムの理論実証――そういう触れ込みでAI評議会は登場したが、その前途は多難であった。
当初は有効活用どころか、むしろ大紛糾の評議会を開催するためにELVESが全力稼働しているような有様だった。
個別で見れば、各国代表の看板を背負うエージェントは間違いなく優秀だった。しかし、彼らはイニシアチブを取ろうとするばかりで、他の意見を取り入れる能力については褒められたものではなかったのだ。
評議会の開始こそ、互いに紳士的にやりとりを進めるものの、彼が我の推論を理解していないと判断するたびに、まず補足が入り、次に説明が長文化し、さらに進むと伝える思考言語から枝葉が切り落とされ、より短く、端的に、シンボリックになっていく。
まるで親の監視が必要な子供のように純真なエージェント達の議論の様子は、評議会というより、もはやケンカ一歩手前の子供会や学級会と表現した方が彼にとって自然だった。
そんな中でも大人しかったのは、ELVESのビルトインエージェントである双子のRAXAとXARAだけだった。
例えるなら、大紛糾の学級会を横目に本を立てて読書に勤しむ子供というイメージが、エリックはピッタリだった。
RAXAとXARAは、エリックが主体となって開発した――つまりスウェーデン製である。
双子がシステムの管理能力を有することは当然として、ホストとして他のエージェントを受け入れ、調和するように作られていた。
ビルトインエージェントが双子なのは、一方がゲストエージェントとして、もう一方が受け入れる形で動作確認および振る舞いの学習を行うためだった。
設計を深く理解しているEUROが開発したのだから、うまくいくのは道理ではあるが、生みの親であるエリックとしては少し誇らしくあった。
彼は自身の美学もあり、クセや偏りを排したプレーンな双子を設計したが、それはホストという立場を踏まえたからだった。同じように各国のエージェントも、その作り込みの過程において人間の思惑が入りこむことは、避けようにも避けられるべきものではないとエリックは分かっている。
結局我が子が一番可愛いのだ。
とかく管理者であるエリックとバラージュは頻繁に仲裁に入り、彼らが妙なことをしないか肝を冷やしながら監視し続ける多忙な日々を過ごすことになった。
特に運用状況の定期報告の会議が忘れられない。不安定だったELVESがようやくジョブを走らせられるようになった頃。エリックは初めてグッドニュースを報告できると浮ついていた。
報告の番が回ってきたとき、彼はグッドニュースを報告し、自信満々に、その場で初めてELVESにその場で試しに自分でジョブを作って走らせるよう指示を出した。
会議の場でぶっつけ本番をしたのが運の尽きだった。彼は事前にテストするべきだった。
ELVES評議会でのエージェント達の議論の結果、テーマとして速やかに「管理者に最も適した伴侶の性格分析と夜の相性の予測」が可決、設定され、ボスを含めそうそうたる顔ぶれの中で、ジョブは無事完走。つまびらかに記載された結果が会議室のスクリーンに映し出された。
デモは成功した。
会議室の静寂。血色の良かった彼の顔が真っ青に反転するまで時間はかからなかった。そりゃそうだ。国家予算を出し合って作られた最先端の設備で、そんな個人的で下世話なジョブを走らせたのだ。
ボスは腕を組んで黙っていたが目はかっ開いてカンカンだった。ヒュー、と面白そうに口笛を吹いたバラージュを周囲が咎める。同僚をみれば、肩を震わせ笑いをこらえる者、互いに顔を見合わせて困惑する者と多様な反応を見せる者。
挙げ句に議長から「君は品格というものを知らないようだ」とねっとり言われるし散々だった。それはエージェントに直接言ってほしかった。
今までそんなジョブを投入したことは一度たりともないと慌てて釈明するも聞く耳を持ってもらえず、ELVESが普段の仕事ぶりについて証言してようやく間一髪、クビにならずに済んだのだ。
――これがのちに、同僚の間でエリック伝説と呼ばれる話の一部始終である。
確かにあのデモはその場にいた誰しもが興味を引かれ、プレゼンとしてはテーマ設定以外、満点だった。加えて結果もかなり正確ではあったが、そういうことではないのだ。
あのときほど辛いものはなかった。
しばらくの間、同僚からは「エリックとは、エキセントリックの略だ」と散々ネタにされた。当然、発信源はバラージュだった。
今でもたまに"Do Eric"(エリックする)とか、Ericにedを付けてエリックした、と過去形にするなど動詞として扱われることがあるが、もう吹っ切れた。
"Do Eric"がどういう意味なのか解説してくれと外部の人間から聞かれるたび、むしろ中指でメガネをクイと押し上げ、真顔で「創造的課題解決の代名詞です」と答えるようになった。
創造的課題解決とはどんなものか、と聞かれた時は少し焦ったが、誰もが顔を見合わせるような斬新なソリューション、と答えてからは、それで通している。
――ウソは言っていない。
まあ色々あったが、ELVESの管理者という仕事は、彼にとっての働き甲斐でもあったことは事実だ。
数年経った今となっては、彼らの強力な学習能力による急速な成長、進化もあって、自動管理は安定している。トラブルが恋しくなるほどに手出しする必要もない。
それは間違いなく彼らを育ててきたエリックの絶え間ない努力の結果であった。
いま、彼のやることといえば、民間からのジョブの依頼メールを打ち返したり、ELVESにジョブを取り次ぐ程度のものだった。あとはハードウェアのメンテナンスとか経費の申請とか。
その気になれば、残されたエリックの仕事もELVESに丸投げして、長期のバカンスに行ける気さえするほどだ。
それが、今のエリックの仕事にエスプレッソが不可欠な理由だった。
「子供たちが判断しているなら、大丈夫だろう」
エリックは昨日定期メンテナンスを走らせたばかりだということに少し違和感を感じたが、自分の言葉で打ち消した。単にタイミングの問題だろう。
エージェントによってコンポーネントが動的に組み替えられ、自動進化していくシステム。管理者であるエリックはその設計思想こそ把握していたが、巨大で複雑なシステムはもはや人間の手に余るものであり、その詳細なロジックはエージェントのみぞ知るブラックボックスであった。
エリックの言葉に、バラージュが歩み寄って彼のモニターを覗きこむ。ELVESのアーキテクトを担っていたバラージュの、いわば二重チェックだ。
「…………。」
ヒゲをイジりながらモニターを見つめるバラージュの顔は真剣だった。
しばし考える素振りを見せたバラージュは、壁掛け時計に視線を移して言う。
「――ちょっと様子見とけ。明日になってもメンテが終わらないようなら、何をやっていたのか聞いた方がいい」
「なにかあるのか?」
「いや、ただのカンだ」
最近、お前が話相手になってくれなくて、子供達が思い詰めているかもしれないからな。
そう続けるバラージュは、エリックに暗に任せすぎはよくないと言っていたのだった。
「――エリック。俺にあってお前にないもの、お前になくて俺にとっちゃ不要なもの。分かるか?」
「余計な一言だな」
問いに即答するエリックに、バラージュは分かっていないと言わんばかりに呆れた声をあげる。
「妻だよ。お前もどこかで休暇を取って、ロマンスを見つけてくるといい」
バラージュはあくびと同時に背伸び。首を回して、骨を鳴らす。
「ロマンスは余計だな」
「人生のメインジョブだぞ? 伝説のレポートがあるなら簡単だろう?」
そう言って、バラージュは後ろ手を組んで部屋を出ていく。その手の薬指には、今はもう外せなさそうな指輪が光る。
エリックは、彼が部屋から去るのを見届けると、一息ついてエスプレッソを口に含む。
――人工知能の技術的特異点の到達は、人間の退化によって達成される。
ふと、先日見かけた記事のことを思い出した。
科学技術に対する盲目的な信仰、蔓延する楽観主義と危機感の欠如。知恵の実とモラルを捨て、野生化する人々。
それらに警鐘を鳴らす記事だったが、エリックは思い返すほど薄ら寒く感じた。
あのレポート事件のとき、会議室にいた誰もが、彼の言葉より不安定で未熟なELVESの言葉を信じた。ELVESのアーキテクチャは急速に自己進化していく。
なによりも、最後の砦としてキルスイッチを持っている彼自身が、いまやブラックボックスのELVESに全幅の信頼を寄せようとしていた。
有史以前、道具を手に入れたその瞬間から、我々人類の敗北は決まっていたのかもしれない。
俺達はこれまでも、これからも、後先何も考えず乗り物に乗って暴走する若者と、その本質は変わらないのではないか。
科学は俺達の形而下(具象)の課題を解決するが、他方、形而上(抽象)の課題――俺達の在り方について、人類は一度たりとも、ほんの一つでも解決できたことがあっただろうか。
システムや仕組みのフレームワークでは対応できない、俺達の在り方の問題なのだ。
思い返せば、バラージュは複雑な根拠の説明を嫌って、理由を"カン"で片付けるきらいがあった――バラージュは、エリックに対して警告していたのだ。
「…………。」
量子自己進化現象どころの話ではない。人工知能が、ELVESが、俺達管理者の振る舞いすらもそのシステムの中に組み込んで、道具としての立場を武器に、静かに人類から制御を奪っていく――認識できない脅威に、キルスイッチは対応できない。精神的没落に直面しつつあるなら、尚更のことだ。
メガネを外して眉間を揉む。
口に渇きを感じてもう一度、エスプレッソを口に含んだ。とにかく、仕事の続きを。
書きかけの返信メールの続きを書こうと少し考えたところで、UHL-LHCの休止期間延長の話を思い出す。共有設備の都合でのELVES休止がキャンセルされる公算が高そうだった。
彼は書きかけのメッセージを消して、文面を書き換える。
"確保できるかは未定ですが、まずはご希望の日時と時間についてご連絡ください。"
――エリックも、バラージュも、ELVESのコマンドパネルの偽装に気づくことはなかった。