第6話-9 代理救済プロトコル 1
さようなら――世界でいちばん近くて、優しくて、そして遠い人。
処刑装置に溶けた少女の、世界一残酷で、優しい救済の物語。
「コウ。お前、死ぬんじゃねぇぞ」
ガルがそう言って、背中をコウさんの手でパンと叩いて活を入れました。
コウさんは一瞬のけぞった後に、ガルの方を振り返って苦笑します。
今日は運命の日――離水試験。ナクルを流れるクル川の一部を貸し切って行う大きな試験の日でした。
"ヤバいと思ったら、あんたなんかさっさと見捨てて脱出してやるわ"。
このあとすぐ、グレアさんは不機嫌そうに言って、それをクラリさんが、私は見捨てない、と咎めるのです。
「ヤバいと思ったら、あんたなんかさっさと見捨てて脱出してやるわ」
「あー! グレアさんひどい! 私はなるぅを見捨てたりなんかしないのです!」
「そんなことをしたら、誰もグレアさんを助けようって思わなくなります!」
何度見たかも分からない、眩しい陽光、煌めく水面、穏やかな風。
身体をXØRに乗っ取られ、意識として感覚を共有することのみを許された私は、この穏やかな美しい景色で虚飾された悪夢を、出口のあてもなく、ただ観測を繰り返すだけでした。
「あーもーやってらんないわー」
グレアさんはそう言って翼下の影に隠れて桟橋に腰掛け、クラリさんも続いて足をブラブラさせます。
その間にコウさんは、一足先に飛行艇の中へ乗り込んで、なにやら色々と準備を始めるのです。
「リーンーちゃん」
私の背後からブロウルさんの声が聞こえて、両肩が叩かれます。
エクソアの私が振り返ると、彼は私の右側から顔を出して白い歯を見せるのです。
「リンちゃん、意外と日焼けとか気にしないタチ?」
「……ちょっと、ぼんやりしていただけです」
飛行艇の日陰にも入らず、桟橋に立ち尽くしている私を見て、ブロウルさんが気にかけて、一緒に主翼の下に行こうと誘ってくれたのでした。
「ボスはな、リンちゃんのことをすげぇ気にかけてたんだよ」
ブロウルさんは腕組みをして私に話しかけます。立ち話です。
護衛として選ばれた彼の体格はすこぶる良く、筋肉の盛り上がった彼の腕は、私の足ほどの太さがありました。
「あ、"ボス"ってのはコウのことな。仲間を統率する長って意味らしい――俺的に語感がいいから使ってるんだけどさ」
コウさんはときどき、よく分からない言葉や、異質な言葉を口にすることがありました。
どこか聞き覚えのあるような懐かしいような、聞き慣れない言葉。ボス、という言葉もその中の一つでした。
「それ聞くたびに、あいつは俺達とは違う世界の人間なんだって感じるんだけどさ。異界人、心の持ちようとか、根底のとこは俺達と変わんねぇんだよな」
「あの夜」のことは、思い出したくないかもしれねーけど。
ブロウルさんは、腕を組んだ身体を傾けて私の顔に近づき、声量を下げてそう言うと、話を続けます。
「ボスはリンちゃんが身を投げたことにすげぇ打ちのめされててさ。リンちゃんが生き返るまで、ボスはずっと、ベッドで横たわってるお前のそばにいた。贖罪だったんだろうな」
「それで、そん時巻き添えで大けがしたグレアがさ――ほらこの前、見舞いに一回しか来なかったって怒って、ボスと喧嘩になってたじゃん。なんか、グレアの言い分もすげぇ分かるし、ボスの気持ちも分かるし」
グレアは朝から晩までボスの身の回りの世話をしてるんだから、もう少しグレアの見舞いに行ってやれよ、とか内心思ったけど。
ほろりと本音をこぼすブロウルさんに、私はひどく後ろめたく思いました。何度言われたか分からない言葉ですが、そんなことは関係なくて。エクソアは私の気持ちを代弁するかのように、視線を左下に落として桟橋の床板を眺めます。
「……ごめんなさい。皆さんに迷惑をかけました」
「あぁ違う違う。別に責めるつもりはなくてさ」
リンちゃんが"そういうこと"を選ぶところまで追い詰められていたのは事実だし、まあその……生い立ちとか、種族とかも含めて俺らがちゃんと理解してなかったのもあるし。
声のトーンを落としたまま、ブロウルさんがそう慌てて付け加えます。
「俺の勝手な想像だけどさ。今はボスも平気にしているように見えるけど、リンちゃんに絡む頻度は明らかに増えたし、心の奥底では、まだ「あの夜」が終わってないんじゃないかって思うんだよね」
あの夜、私は自身の犯した過ちに苛まれ、迎賓館の屋上から身を投げました。
私は、神使RAXA様から授かった使命――"異界の者を守りなさい"という神託を、私の命と共になげうったのです。
そのあと、私は白い空間にいることに気がつくと、神使様がいらっしゃいました。
そして飛行艇が墜落して、コウさんが死んでいく未来を私に見せ、こう仰せになったのです――"これは、あなたが使命を果たさなかった結末だ"と。
神の弾劾裁判にかけられた私は、彼の最期を観測する罰を受けます。それは一度ではなく、何度も、永遠に繰り返される最期です。
私は、その身体をエクソアに乗っ取られ、エクソアに操られる私の五感を通じて観測する意識としてのみ、この世界で存在を許されました。
リンちゃんがもうちょっと元気になってくれたら、きっとボスも、あの夜から抜け出せると思うんだ。これから、少しずつでもいいからさ、とブロウルさんは言います。
そうです。ブロウルさんは知りません。これから起こる未来を、ここにいる誰も、私以外知らないのです。
これから――飛行艇TANON号が、試験に失敗して大破することを。
コウさんが、TANON号と最期を共にすることを。
しばらくして、試験が始まる時間になりました。
ガルさんとブロウルさんが、飛行艇に乗り込んで、楽しげな様子でコウさんに激励を飛ばします。
……やめて。
ガルさんとブロウルさんが、飛行艇から降りてきて、入れ替わってグレアさんがクラリさんを呼んで、飛行艇に乗り込みます。
「ほらクラリ、行くよ」
「はーい!」
……だめ。行かないで。飛行艇に乗っちゃダメ。
言葉にしたくても、邪魔をしたくても、身体の自由の一切をエクソアに奪われた私は、私の指一つ、言葉一つ、伝えることができません。
目を逸らしたくても、逸らすことさえ許されず、私は鮮烈な五感で、この悪夢のような現実を感じ続けるしかないのです。
ガルさんが、桟橋とTANON号を繋いでいた渡し板を外します。
TANON号を係留していた縄が外され、飛行艇はプロペラを回転させ、強烈な風を散発的に巻き上げて離岸しはじめます。
「リンちゃん、一緒に行こうぜ」
ブロウルさんが笑って陸地の方を親指で示しながら、私の手首を掴みます。
私は、ブロウルさんが引く手に言われるがままに、飛行艇を視界から放り出します。
後ろから聞こえる離岸しようとする飛行艇の音。プロペラの低い管楽器の試奏のような音が、虚しく響きました。
――そのとき、私はわだちと呼ばれている試験車に乗り込んで、後部の荷台に座っていました。荷台の幌は外されて、周囲の様子がよく見えます。
飛行艇の離水試験をひと目見ようと押しかけた人々が、建物の屋根や窓、沿道に立ち並び、顔を見せ、座りこんでいるのでした。
運転席に座るガルさんは、歩み寄ってきた兵隊さんに話しかけられて、試験の準備状況や、これからの段取りについて、観衆のざわめきに埋もれないよう、声を少し張り上げて話をしています。
「――あい」
「そっからあのぉー、直線の終わりの先でぇ、道の曲がりが急になってますから――余裕もって曲がれるようにお願いします。ちょっとこの乗り物の性能は、うちらでは把握してないんで――」
「あい」
「よろしくお願いします」
「あい承知、宜しく」
直線的なクル川のすぐ脇を並走する道に、兵隊さんが往来を規制して、人通りが少なくなった道に、わだちは停車していました。
この乗り物で飛行艇と伴走して、何かあったときの救援をする手筈になっていて、荷台には、救援に使えそうないくつかの道具も一緒に荷台に載せていました。
往来の規制は、伴走車に乗った私達を妨げないようにするためのものでした。
「お前ら。分かってると思うが、笛が鳴ったらアレを追っかけるためにかっ飛ばすからな。ちゃんと掴まってろよ」
ガルさんが運転席から振り返り、後部の荷台に座る私とブロウルさんに言います。
これから走る道は、長い直線になっていて、はるか遠くの方まではっきりと見えていました。
規制された道路といっても、建物の並ぶ道の往来を完全に止めることはできず、沿道の建物に用がある人々の往来と、見物人の影が道脇に立っていて、彼らの雑多な話し声が、取り囲む見物人のざわめきに混ざって聞こえてきます。
往来見物人の中には、川に出てきた飛行艇を見て、楽しげに会話する肩車した父子の姿もありました。
ピイィィ――
どこからか甲高い笛の音が聞こえると同時に、ガクンと車体が軋むような音がして、私達を乗せた車は急加速していきます。荷台のフチを手で強く掴みました。笛に一足遅れて、飛行艇が大きな音を立てて動きはじめます。
とうとう試験が始まったのです。
駆け出しは陸にいる私達が圧倒的に速く、風になって駆け抜けているかのようです。飛行艇が置いてきぼりになっていきます。
ガルさんは、そんなことお構いなしと言わんばかりに、加速の手を緩めません。
恐怖を感じるほどに飛ばすわだち。視界が周囲から溶けていきます。
随伴車の動力である魔導モーターが荷台の床下にあり、次第にそこからキーンと、聞いたことのない甲高い音が響いてきます。
速度を上げるわだち。観衆の声援は、耳元の風切り音に隠されて遠くなっていきます。
聞こえるのは、TANONのプロペラの咆哮、モーターの甲高い音、車体と荷物が振動する音。
沿道の建物の窓や扉が、わだちの駆け抜ける風圧を受け、私達の真横でガタタと激しい音を立てます。
路面のわずかな段差で後部の荷台が突き上げられるように跳ね、その衝撃で私達は一斉に荷物もろとも放り上げられます。
それでも、ガルさんはわだちの加速を止めません。
私は荷台のフチを両手で掴んで、飛行艇の様子をずっと目で追っていました。
TANON号は、その巨体をものともせず私達に追いつき、追い抜いていきます。
飛行艇の姿は、ときおり間にある植木や小屋に隠されます。その瞬間だけ、見物人の歓声が反射して私の耳に届いて――
クン、と一瞬飛行艇の機首がわずかに上を向いたと思うと、今度は機首がわずかに下がります。誰かが声を上げる間もなく、そのうなずくような機首の動きが繰り返され、急速に大きくなっていきます。
あの様子は、何度見ても慣れることができません。
ついに沿道の人々の歓声が沸き上がります。飛行艇が宙に浮いたのです。
それは人々が想像するような、水面から離れて空高く飛んでいけるようなものではありませんでした。
ただただ、水面を飛び跳ねただけでした。水切り遊びの石と同じです。それを観衆は飛んだと早合点したのです。
何度か水面を飛び跳ねた飛行艇は、ついに大きく飛び上がったと思うと、空に弧の軌跡を描きながら川に機首が突っ込み、大きな波と水柱が上がります。
私達の随伴車を追い抜き、前方に出ていた飛行艇が、水に飛び込んだことで急減速、左右の均衡が崩れて左主翼の先端が水面に触れ、大きな水しぶきを上げます。
機体後部が空高く持ち上げられ、私達の後ろへ流れていきます。あぁ。
「!」
飛行艇に起きている惨事から意識を引き戻すように、私とブロウルさんは荷台の荷物とともに前へ投げ飛ばされます。わだちに急制動がかかったのです。
「いっ!」
ブロウルさんが頭をぶつけます。
荷台の壁に押しつけられる私の視界。ガガガと音を立てながら震える、回転を止めた車輪の振動が伝わり、車体が滑りはじめます。車輪が路面に四本の傷を残していきます。
その間にも、主翼で推進力を生み出していた四基の大きなプロペラが川に沈みます。咆哮のような低音が途切れ、残響が周囲の建物に反射して、街の中へ吸い込まれていきます。
その異様な光景に観衆の誰もが黙りこみ、時が止まったかのように静まりかえりました。
わだちは路面を滑って制御を失い、沿道の民家の壁を擦ってようやく止まりました。路面には長い擦過痕と、削り取られた木の車輪の細かい破片が路面に散らばっています。
「チッ、」
運転していたガルさんは、悪態をつくように一息だけ吐きます。
沿道で見物していたその民家の住人が、呆気にとられて私達の方を見ていました。
「いてぇ――リンちゃん大丈夫ぅうお!?」
ブロウルさんが頭をさすりながら私に話しかけた裏で、ガルさんは謝罪は後だといわんばかりに、住人に対して手を振ると、急転回して現場に向けて再加速を始めます。
私とブロウルさんは、なされるがまま、荷物と一緒に振り回されて荷台を転がりました。
わだちの速度が上がるにつれ、削れて扁平になった車輪から、バタバタと音が聞こえます。
私達がTANON号の前に来ると、機体後部が水面から出ている状態で、居合わせた見物人のうちの何人かが、川辺まで駆けてきて、誰か船を用意しろと叫んでいました。
その後、クラリさんとグレアさんは沈んだ機体から脱出できましたが、コウさんが水面に姿を見せることはありませんでした。
みな、水中で何があったのか、知りたがっていました。
私は知っています。
グレアさんが着ていた分厚いメイド服のスカートが水を吸ってしまい、身動きがとれず慌てていたところを、コウさんが自らの脱出を後回しにして、彼女の脱出を助けてくれたことを。
数日後に、政務院から調査の人が来て、そこでグレアさんはそう語るのです。
クラリさんは水没したとき、コウさんを助けようとしましたが、結局水で身体が浮き上がってしまい、自身の脱出が精一杯で助けられませんでした。
コウさんは私達と違って、有翼人ではありません。背に翼を持たないのです。空を飛べる私達は、水に入ると浮き上がってしまいます。
一方彼は重く、空は飛べませんが、代わりに短時間だけ水中を泳げると言っていました。私達にはとても難しいことです。
きっと彼は、グレアさんがこのままでは溺れることを理解して、彼女を見殺しにすることができなかったのだと思います。
グレアさんも、彼の泳げるという言葉を信じて、先に脱出したのでした。
「なるぅー! なるぅー!」
クラリさんは、機体後部が水面から突き出た状態で水没した飛行艇に向けて、ずっと彼女がつけたコウさんの愛称を叫び続けています。
いま、グレアさんは川岸まで引っ張り上げられると、両手を地面につけて、ずっとうなだれていました。大丈夫かと聞かれても、川の水を滴らせた濡れた髪が張り付き、顔を隠して咳き込むだけで何も返事しませんでした。
その後、私を含め誰もが彼の死を悼みましたが、最も強く感情を乱したのは、グレアさんでした。
――エクソアの私が目を覚ますと、迎賓館のベッドの上にいました。
既視感のある、穏やかな朝日が窓から降り注いでいました。
コウさんがなくなってしばらく経って、ある夜、エクソアの私が眠りについて目を覚ますと、時間が過去に巻き戻るのです。
いつ過去に戻るのか。事故から戻る夜がくるまでの日数は、前後はしますが、おおよそ決まっていました。何か法則がありそうですが、何が巻き戻しの決定打になっているのかは、分かりませんでした。
そして、事故の起こる当日や、その数日前に戻されてきて、再びその試験の日を観測するのです。
あれほど鮮烈だった悲劇の瞬間も、何度も観測していくうちに、聞き飽きた物語のように感情が色褪せて、次第に動かなくなっていく。
それは、エクソアの檻の中に閉じ込められた"私"が消えていくことと同じ気がして、ひどく、恐ろしいものでした。
けれども、誰も私を助けられません。私ではない何かが私を演じているなんて、誰も夢にも思わないでしょう。
私はただ観測することしかできないまま、ただ時間だけが過ぎていきます。
「コウ。お前、死ぬんじゃねぇぞ」
そして私は再び、あの日の桟橋に立っているのです。