第3話-2 音楽祭と妹 美羽の欲求
「あっ!おにーちゃんだ!」
背中に身長の割には合わない大きなキャラクター付きのリュックサック、
一泊用のキャリーバッグを持っている美羽が俺を指差して笑った。
あまり人を指差すのは良くないことなんだが、小一のチビだ。今言ったって分かりやしない。
空港職員は、俺の顔を見るなり軽く一礼。
俺はまず、付き合ってくれていた空港職員と話をせねばならん。
顔も名前も知らない連中と話をするのは苦手だ。
「ああ、どうもありがとうございます」
敬語はどうしても慣れない。
「この子のご家族様でしょうか?」
聞いてきたのは若い女の職員。
男の職員の方は、そろそろいかねばならぬ用事があるからと、場を去っていった。
「はい、美羽の兄の光秀といいます」
俺の口から美羽の名前が出てきたことで家族と認識したらしい。
職員は美羽を俺の隣に持ってきた。
「さようでございますか」
「仕事中に迷惑をかけてしまい、すみません」
「とんでもないです、あまりにも小さい子が一人で出口から出てきたので、
最初迷子かなと思っていたんですが、
『着いたらお仕事してる人に渡してって言われた』って、メモを渡してくれたので」
職員はそのメモを俺に差し出す。
なるほど、親が出口で美羽を待たせるよう、お願いしてたってわけか。
「とても大人しく待っててくれていたので、感心しました。
うちにも小学二年生の息子がいるんですけど、やんちゃばっかりして言うこと聞かないんです。
帰ったらこんな子もいるって、教えます」
俺は携帯電話の時計をちらりと見て、そろそろ失礼しますと言った。
向こうは深々と一礼をして、俺達が去るのをただニコニコして爽やかに見つめているだけだった。
飛行機に乗っている時、客室乗務員が機内販売をするのを見かけると思うが、
その時の乗務員の笑顔の中には、どこか作られたような機械的笑顔の人がいる。
表情筋を笑顔モードにしたとしても、それが心からの笑顔なのか、
マニュアルで規定された笑顔なのか、何となく察しがつく。
心からの笑顔は、俺の腐りかけの心に響かせる何かが存在するが、
機械的な笑顔は、俺の心には何も感じない。
ただ不気味なだけである。
麗香も笑顔を見せるが、あれは感情的笑顔なのか策略的笑顔なのか分かりづらい。
それだけ精巧な笑顔を麗香は持ってるわけで、
そこまでの完成度の笑顔を彼女達が作れるならば、
誰も何も言わないはずであるが、俺がこのように言及していることからも明確なように、
そこまでの品質は残念ながら到達していない。何とかしてほしいものである。
俺は美羽の手を引きながら、そんなことを考えていた。
「にいちゃん、ジュース!」
「俺はジュースじゃねえよ」
一年数ヶ月ぶりの再会を果たし、美羽と最初に交わした会話がこれである。
「美羽、俺に渡すものはないか?」
「えっとね、おかねをわたしてってね、お母さんから言われた」
「それはどこにある?」
「えっと……」
美羽は立ち止まって背中のリュックを下ろし、ガサゴソと探しはじめた。
まったく、小一の娘に大金を持たせる親の心理が掴めない。
「あった!」
美羽は緑色の銀行の名前が入った封筒を俺に渡した。
なかなかの厚みがある。中を覗くと一万円札がみっちり。
それから、俺に向けてと思われる、メモ紙が一枚。
【光秀へ
相談も何もせずに勝手に決めてごめんね。
美羽がどうしても会いたいって言って聞かないから、
ついこっちで話を進めちゃって……】
親バカだな。
【でも、「かわいい子には旅をさせよ」って諺もあるぐらいだし、結果的には良かったかな?
美羽が帰るタイミングはこっちから連絡して教えるから、それまでは仲良くしてあげてね
母より】
かわいい子には旅をさせよ、その諺を適用するのは数年ばかり早過ぎだと思うのは俺だけではないはずだ。
「おなかすいた〜」
リュックを背負った美羽は俺に第二の欲求を伝える。
「オイオイ、リュックのチャックが開いたままじゃねえかよ。
そのうちリュックからモノ落っことすぞ」
俺は美羽の後ろに回ってチャックをしっかり閉じながら、辺りを見回す。
売店はあるが、レストラン的なものは見当たらない。
とはいっても空港だ。どこかにレストランがあるはず。
レストランがあるとしたら、恐らく見晴らしのいいところ、最上階もしくは屋上か。
上の階に上がると、俺の予想通りの場所にあった。
値段的にもそこそこで、高すぎもせず、安すぎもせず。
「昼飯はここでいいな?」
美羽と連れてレストランに入る。
田舎暮らしの美羽にとって、レストランはあまり行ったことがないのだろう、ものすごく喜んでいた。
外食ごときで喜ぶなんて、いつの時代の人間だよ、と心の中で突っ込んでいる
俺であるが、実のところ、俺も嬉しい。
もちろん、それは今までモヤシで命をつなげてきた俺にとっての
久しぶりのまともな食事だからであり、隣で騒いでるチビとは理由が違う。
店の人に案内されたテーブル席は、窓から飛行機の離着陸がよく見える、見晴らしのいい席だった。
店の人が水とおしぼりを持ってくると、美羽は早速水を飲む。
俺がメニューを見ながらどれにしようか考えている間、
美羽はデザートのメニューを見ながら、俺にチラチラと視線を送ってくる。
要はデザートが食べたいのだ。
喉が渇いた、腹が減ったという欲求はどうしようもないものであるが、
デザートが食べたいという欲求は、贅沢の部類に入る。
美羽は小さいながらも、そのあたりは理解しているらしい。
そんな美羽の行動を俺はそれを知らんふりしてまずはメニューを決める。
もうこいつでいいか、値段もボリュームも悪くはない。
「美羽、お前は何を食べたい?」
美羽の食えるメニューはお子様ランチ程度であることぐらいは百も承知だ。
「えっとね、美羽はね、これが食べたい」
「お子様ランチセットBってやつか?」
「うん」
「注文はそれでいいか?」
「…………。」
美羽はデザートメニューを見つめるだけで、何も答えなかった。
分かりやすい奴だ。
「俺と約束してくれるか?
俺の言うことを聞いて、その通りにすること。
ここでは、俺は美羽のお父さんお母さんの代わりだ。
田舎とは違って、ここは都会だ。危険なものもたくさんある。
もし、言うことを聞かなかったら、死んでしまうことだってある。
だから、今俺が言っている約束は、美羽の安全に関わる大事なことだ。
俺の言うことを聞くと約束できるなら、そこのメニューから一つ、
好きなものを選んでいい」
美羽の顔がパアッと明るくなった。
「約束する!」
「なら欲しいものを一つ選んでいいぞ」
美羽はこれが食べたい、とチョコレートケーキを指した。
パフェとか言われたら堪んねえなとか思っていたが、そうでなくて良かった。
注文した料理が届き、口に入れている間、美羽は楽しそうに飛行機の中での出来事を述べていた。
俺は方耳で聞きつつ、どうやって俺の家まで帰ろうかと思案していると、
突然美羽が声を張り上げた。
「あっ!お母さんからもう一個わたしてっていわれてたのがあった!」
美羽はリュックから、茶封筒を俺に渡した。
封筒には、「往復の交通費」とだけ書かれており、四万円も入っていた。
こういうのがあるなら早く出せよ。
俺の家はそんなに金持ちじゃないのに、
どっからそんな金が沸いてくるのか不思議だとも思ったのだが、俺の知ったことではない。
とりあえず、これで帰りはなんとかなりそうだ。
会計を済ませ、近くの自動販売機で茶を二つ買って、駐輪場に自転車を取りに行った。
「お帰り」
駐輪場のオッサンは俺の隣にいる美羽を見つける。
「お兄ちゃんの妹さんかい?」
「はい」
オッサンは中腰になって美羽に話しかける。
美羽はおいといて、俺は自転車を取りに行くことにしよう。
背後から会話する声が響いてくる。
「お名前は?」
「足立美羽です」
「何才?」
「六才」
「どこからきたの?」
「お家から飛行機に乗ってきた」
「そうか、誰と一緒に来たのかい?」
「美羽一人」
「はぇ〜!一人かい!偉いねえ、おっちゃんビックリだよ!」
「エヘヘヘ……」
俺が自転車を引いて美羽の元に向かうと、オッサンはその場にはいなかった。
「美羽、さっきのオッサンはどこ行った?」
「どこかに行っちゃった」
オッサンは小走りで俺達の元に戻ってくると、美羽に駄菓子の沢山入ったビニル袋を渡した。
「いいんすか、もらっても」
「かまわんよ、俺の死んだ孫そっくりだったからな、これくらい惜しくはないよ」
孫が死んだとか、サラっとHeavyな話をしないでくれ。
オッサンは一瞬暗い顔を見せたが、すぐに元のとおり、陽気な顔に戻った。
傷はまだ癒えてないらしい。孫については触れない方が良さそうだ。
「ありがとうございます」
俺達は駐輪場を後にした。
「おにいちゃん、次はどこ行くの?」
自転車を引く俺と、キャリーバッグを引いて行く美羽は、空港まで戻る。
「家に帰る」
「もうお別れ?」
「バーカ、んなわけがあるか、俺の家だ」
「おにいちゃんの家はどこ?」
「ここから自転車でおよそ三時間の……っつっても分からんか」
「遠いの?」
「遠いな」
「美羽の家から空港までと、にいちゃんの家から空港までとどっちが遠い?」
「俺の家から空港までの方が遠いな」
空港前のタクシー乗り場に来た俺達は、タクシーをアイドリングさせ、
歩道の日陰でタクシー仲間と談笑している運転手の集団に向かった。
「すみません、ちょっと遠距離になるんですけど、いいっすか?」
「おっ、どこまで?」
俺が住所を教えると、運転手が口々にお化けだお化けだという。
遠距離客のことだろうか?
「おい新入り、お前行けよ、ノルマ達成率、営業所内で断トツ低いんだろ?」
「いいんですか、私が行っても」
「おう、行ってこい」
そんな会話の末、背中を押されて集団から出てきたのは、
若い男性の運転手、二十代後半ぐらいに見える。
「すみません、お待たせしました」
「自転車も載せられますか?」
「トランクに載せておきましょう」
美羽を先にタクシーの後部座席に乗せ、
運転手と二人掛かりで自転車を横倒しにしてトランクに載せるも、
案の定トランクが閉まらない。
自転車の車輪が二つ、バンパーのように飛び出している。
「仕方ないですね、このまま行きましょう」
振動で自転車が落ちないよう処置を施し、タクシーに乗り込んだ。