第2話-13 ハウス・クリーニング 隠し事
「じゃあね〜!また明日〜」
「アディオース(ADIOS)!」
夕方、セミがジーコ、ジーコと超サラウンドな鳴き声で大合唱している中、
チカとジョーが先に帰ると言い、
俺はマンションのロビーまで見送りに行くことになった。
見送りに行くのはあれだ、俺の中に存在する、《親しき仲にも礼儀あり》の精神からだ。
ジョーとチカは、俺の家に居残る零雨と麗香にそう挨拶する。
一つ言っておくと、ジョーが今言った《アディオス》、
これって再会が望めそうにない相手に対して言う言葉なんだな。
……アディオス、ジョー。
どこへ旅立つ気なのかは知らんが、まあ達者でな。
「¿Eh?
Joe se ha ido a alguna parte?
Despues de conocer a Joe y yo, sin grumos, y lamento.」
突然麗香がジョーに不明な言語を話し出した。
口調、場の流れからするに、スペイン語か?
「は?なんつった?」
ジョーのまぶたは、現在麗香の顔を連写モードで撮影中。
「…………スペイン語、だよ?」
麗香は日本語でジョーに疑問符を投げかける。
「俺、スペイン語わかんねえから」
「でも今、Adiosって……」
はは〜ん、分かった。
彼女はスペイン語で話されたから、スペイン語で返したと。
なるほどなるほど……めんどくさっ!
「じゃあ、アディオスって意味知ってる?」
「《さようなら》の意味だろ?」
「そうだけど、正しく言うなら《再会が絶望的な相手に言うあいさつのさようなら》って言う意味でね……」
「あ……アハハ、そ、そうだったのか
俺知らずに使ってた。
大丈夫、明日また学校で会えるから」
麗香はほほ笑んで
「言葉は適切な場面で適切なものを選んだほうがいいね」
と、さよならの意味を込めて、小さく手を振った。
「じゃあ」
俺、チカ、ジョーは家を出た。
エレベーターの中でジョーが、
「チカ、お前って本当に容赦ないよな……」
とおもむろに抗議を始めた。
「ほんっとにジョーって単純なんだから。
罰ゲーム一番当たってたのは断トツであんただよ?
あんたが負けなければいいだけの話じゃない、ねえコウ!」
「あ?ああ」
ゲームでの場面の内容は各個人の豊かな想像力にお任せする。
ジョーがボロ負けして、ドSモード全開のチカに、
あんなことやこんなことを強要させられ、
それを確実に遂行した事実だけは述べておこう。
中にはその罰ゲームがもし俺に当たってたら、
今すぐベランダから放物線を描いて……というレベルのものもあった。
さすがにジョーも拒否をしたが、チカの命令は絶対的だ。
ジョーは泣く泣く……
チカは、誰にも言わないと言っておきながら、
携帯のカメラでこっそり撮影していたことは、ジョーには秘密だ。
マンションの出入口に来たところで立ち止まったチカは、
俺をジィーっと睨みながら俺に急接近。
顔面と顔面の距離、0cm。
俺とチカの額が接点だ。
「……顔、事故ってるぞ」
俺は言った途端、やらかしたと思った。
「誰の顔が事故ってるのよ?」
最悪の勘違い。
俺は、額と額がぶつかってるぞ、という意味で言ったんだが、
チカは「お前の顔、ブッサイクだな」という意味で取られたようだ。
「俺はただ額同士が衝突してると言いたいだけだ」
主張が事実だとより理解されやすいよう、冷静に弁明しておく。
「そう……」
チカは大人しく俺から離れ、俺の肩をしっかり握った。
チカは一体何がしたかったんだ?
「……せっかく掃除したんだから、汚さないでよね?」
「分かってるさ、それぐらい」
「どうせあんたのことだから、『メンドクセ〜』とか言って、
2日も経てば元通りになりそうで、心配なのよねー
だからさ、定期的に遊びに行くね」
いいえ、
最大限の謙譲をもって遠慮させていただく。
「新しい別荘が出来て良かった〜
こういうのがあるといろんな場面で使えそうだしー」
チカはニカッと笑うと、俺から手を離し、ジョーを引き連れ去っていく。
それにしても、盛大に勘違いしていったな、アイツ。
俺の家は俺の家で、チカの別荘じゃないことぐらい分かるだろって話だ。
次来る時は、きちんと見えるよう、メガネの度を合わせてから来い。
チカは俺が背後から強烈な視線を連射していることに気づかぬまま、
軽い足取りで俺から離れていく。
夏休み、俺の家が冷房の効いた会員制の娯楽施設になる可能性、確定的に100%。
当たる確率は天気予報の比じゃない。
俺は家に戻った。
玄関に入って早々、リビングにいる麗香から呼び出し。
「コウくん、ちょっと貸してほしいものがあるんだけど」
「ちょっと待ってくれ……
……はいはい何だ?」
俺は玄関でパパッと靴を脱ぎ捨て、速足でリビングに入りながら応答。
リビングに入った。
周りを確認。
破壊、分解された俺の持ち物−なし
「コウくん」
麗香は俺愛用のパソコンを指差した。
デスクトップ型のパソコン、砕けた言い方をすれば、
箱とディスプレーが分割されてるタイプのパソコンだ。
「あれちょっと貸して」
「何に使うんだよ?」
「ちょっとね」
ちょっと、ねえ……
そのちょっとが、どれぐらいのスケールなのか、俺には分からん。
「……壊すなよ、大事なやつなんだから」
俺は明日からの約14日間をどうサバイバルするかという現実を、
チカとジョーがいなくなって、少し寂しくなったリビングを見て思い出す。
ピンチにも程がある。
この人生最大にして難関の問題をどう切り抜けるか、この命題からは逃れられない。
親に臨時で送金してもらうか?
しかしそこは俺自身が撒いた種、尻拭いを親にしてもらう訳にはいかん。
最終手段だ。
電気、ガス、水道は親が払ってるから、これは使い放題。
俺が意識しなければならないのは不幸中の幸い、食料のみだ。
キッチンに入る。
そういえば、冷蔵庫は空だが、米の方はどうだ?
……在庫僅少、持って4日で売り切れ(SOLD OUT)。
まだ10日分足りない。
カップラーメンはどうだ?
……ストックは5つ。
まだ足りない。
パンは昨日で使い切ったから、当然ない。
災害など緊急時用の持ち出しバッグには、3日分の食料。
んー、全部使い切ったとしても、6日分足りない。
俺は電卓を持ち出して、一人用のテーブルに座る。
一食分の値段を再計算するとだな……使えるのは最大200円ぐらいか。
恐らくここから諸々の理由で引かれていくはずだ。
するとやはり一食100円台のメニュー……
あああああっ!考えたくもねえ!
「はあ……」
俺はテーブルから逃げた。
麗香がパソコンをいじっているのが俺の視界に入った。
現実逃避には申し分ない材料だ。
「麗香、何をやってるんだ?」
俺は画面を覗く。
何かの設定画面のようだが、普段ネットしかしない俺は普通、全く興味がない。
だが今は違う。
麗香がいじってるとなると、何をしてるのか、俺自身も異様だと感じるほどに気になる。
気持ち、分かるよな?
「えっとね、このパソコンの性能とか、いろいろ見てるの」
「なぜ調べる必要がある?」
「それは……コウくんでも言えない」
俺は辺りを見回す。
あれ、零雨がいない。
「話は変わるが、零雨はどこに?」
「隣の部屋」
麗香は旧修羅場ルームを示す。
「零雨ちゃんが出てくるまで、危ないから開けないでね」
「……分かった」
どうやったら俺がチカとジョーを見送りに行った一瞬の間に、
普通の部屋を立入禁止の危険区域に変換できるのか、
今度2人に解説してもらおう。
俺が想像できるのは、
ガス爆発、粉塵爆発、水蒸気爆発……
爆発系しか思い浮かばない。
あと、硫化水素とか一酸化炭素、塩素、ダイオキシン等の有毒ガス。
これらが部屋の中を充満しているとしか、俺の愚劣な思考回路では予想できない。
ましてや、今は生きるか死ぬかの問題に直面しているわけで、
悠長に部屋の中がどうなっているかなどと考えてる暇なぞ存在しない……はずなのだが、
なぜか俺はそんな疑問によりももっとどうでもいい、
時間つぶしに聞けばいいようなことが、気になっていた。
「ところで麗香」
「何?」
「今気になったんだが、
この世界って無数のコンピュータが連携して進んでるんだよな?」
「え?まあ、そうだけど」
「陳腐な質問で悪いが、
そのコンピュータの塊と、このパソコン、どれぐらいの性能の差がある?」
な?どうでもいいだろ?
ところが意外な反応が。
この質問を言った途端、麗香はギクッと背筋を伸ばして硬直。
「う゛……」
「……何か俺変な事言った?」
心配して尋ねると、麗香は目をぎゅっと閉じ、髪が乱れるぐらい大きく首を振る。
「そんなこと……そんなことは絶対にないよ!」
胸に一物ありげに急に慌てたように答えるのが、
俺には理解できない。
ミステリアスな行動である。
「じゃあ、今のギクリは何?」
「あ……き、聞かないでっ!」
明らかに取り乱している麗香は、俺を左手で突き飛ばした。
「ちょ、ごっ!?」
コイツも油圧級パワーユニットを内蔵してやがる。
俺は昼と同様、スケールは小さいが、約3メートル後方へ「どすこぉい!!」と射出され、本棚に激突。
爆風で吹き飛ばされた感覚だ。
こいつ、華奢な身体の女力士だったのか。
ドスン!
つーか、怪力はこいつらのデフォかよ……
下の階の住人よ、チカの修羅場タイムといい、今の俺の騒音といい、
ドスドスうるさくて申し訳ない。
作用・反作用の法則を完全無視してイスに相変わらずの姿勢で座っている麗香は、
ディスプレーと対面したまま、頭を抱えている。
「制御失敗、次こんなことがあったら……」
麗香が小さく呟き、がくっとうなだれる。
ふいに辺りが暗くなった。
頭上に何かが迫ってきている気がして、倒れ伏せたままで顔を上げた。
「おい、嘘だろ……?」
見なかったことにしておきたかった。
さっき衝突した影響で、超大型の本棚が俺めがけて突撃中。
俺の好きな漫画や小説、料理や節約の How To 本から、親父から譲り受けた六法全書まで、
俺に知識を与えてくれる味方だった彼等は今、
俺という主人に対して大規模な一揆を完遂するべく、
こぞって傾いた本棚から飛び出してきた。
俺はつい3分前まで、大好きな漫画や小説で死ねるなら本望だと大口を叩いただろう。
ところが俺は今、本能的に気がついてしまった。
死んだら読めねーじゃん!
この場合の死因は何だ?圧死?確実に圧死だ!
やばい、でももう間に合わねえ!
視線を麗香にやると、頭を抱えた麗香と目が合った気がした。
気がつけば、時間がゆっくりと流れている気がする。
これが死ぬ間際のスローモーションってやつか……
ゴツン、と頭に何かが当たって、目の前に落ちた。
皮肉にも、最初に落ちてきた本が俺の一番大好きな漫画の第一巻だった。
反乱が始まったか……俺ももう長くなさそうだ。
影はどんどん濃くなる。
背中、足、腕、いろんな所に本が次々当たる。痛い。
最期にデカンと一番デカイもの(=本棚)に当たって死ぬんだよな……
パソコンの前のイスに座っている麗香の足元が、落ちてきた本で見えなくなった時、麗香が言った。
「あっ!」
俺はもうこれ以上目を開けていられなかった。
…………ドスン!!
結果、俺は本の下敷きになった。感覚で分かる。
だが、なぜか「最期の一撃」がなかなか来ない。
ていうか今、ドスンっていったよな?
俺が目を開けると、本で何も見えない。
本棚のミシッという音が頭上から。
「コウくん!」
すぐ近くで麗香の声がする。
……助かったっぽいな。
死ぬと思って散々喚いた揚句、助かる。
分かるよな?この複雑な気持ち。
麗香は本棚を戻し、大量の書物に埋もれた俺を発掘。
雪崩に遭った人が助かるときの気分を味わった気がした。
「コウくん大丈夫!?」
「……バカヤロー。
ぶっ飛ばすならしっかり着弾地点を考えろってんだ」
俺は本に顔を埋めたまま、今思い付いた鮮度抜群の皮肉を忘れないうちにぶつけておく。
麗香は俺の右腕を掴むと、本の山から俺を引きずり出す。
勝手に放置してりゃ、自分で起き上がってたところをわざわざ……
つーか、仮にも女子高生に助け出されるって、どうよ?
引きずられた状態から、俺は今度は麗香に抱き枕にされた。
「ホントにごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
その言葉は真意なのかどうか疑わしいと思っていたところ、急に強く抱かれた。
俗にいう《抱擁》だ。
このシーンだけ切り抜いてみたら、完全なるラブシーンだ。
だが、麗香が俺の耳元で囁く言葉は、ラブシーンとは掛け離れたものだった。