第1話-2 計算式の彼女 黒煙
六月中旬だというのに、フライング気味に始まった初夏の暑さのせいで、学校に着く頃には額にうっすらと汗が滲み出ていた。登校中の他の生徒とともに校門をくぐり、下駄箱で上靴に履き替える。
下駄箱で靴を履き変える度に毎回思うのだが、なぜわざわざ下靴からほぼ学内専用仕様の上履きに履き替えるのか、その意義が分からん。しかもやたらとキュッキュキュッキュうるさいし、足裏は消しゴムのごとく変にグリップ性は高いし。
まあ、グラウンドの砂利とかで校舎を傷めないようにするのが理由かもしれんが。
上履きがハイグリップなのは、メーカーが自社の収益のために、頻繁に買い換えて欲しいから、柔軟でゴムが摩耗しやすいようにしているからかもな。でなけりゃ毎日八割座学な日常で、あんなに摩耗するわけがない。
ハイグリップ、短寿命。レースカーのタイヤかよ。
摩耗したら上履きコーナーにピットイン、ってか。
「廊下を走るな!」と教師陣が廊下で追いかけっこしている男子生徒をよく注意する場面にしばしば出くわすが。有り余る体力と運動神経、アホさ加減。それらがいい感じにミックスされているのが高校生である。
いい歳こいた大人でさえ、公道で高そうなスポーツカーをかっ飛ばして、道路の隅でオイル垂れ流しのスクラップにしているのだ。エネルギーに満ちあふれる高校生にハイグリップシューズを履かせておいて、歩行で満足しろ、なんて土台無理な話である。
まあ、俺は無駄に走ることはしないが。環境性能重視なんでな。
全校生徒に下駄なり草履なりスリッパなりを履かせりゃ、走りにくいから廊下を走る生徒はゼロとはいかないが、かなり減ると思うんだが。下駄はうるさいか。
……巷の主婦ご愛用のモップ一体型スリッパなら、どうだろうか。暴走抑止、静音化に加えて校内清掃も省けて効率的。定期的にスリッパを蹴り飛ばして裏面の汚れ具合から洗濯タイミングも確認できる。
なるほど、ボロボロになれば買い換えればいい。
三方よしのベストソリューション認定である。
そんなどうでもいいような、どうでもよくないようなことを考えながら教室のドアを開けると、冷房の効いた空気が足元を流れ出た。ひんやりとした空気が無駄に逃げないよう、さっと入り、ドアを閉める。
ふう~、生き返る……汗が急速に冷却され、氷漬けにでもされたような感覚になる。オハヨーとか、うーっすとか、まあそこらの適当な挨拶をクラスメイトと交わし、鞄を机の横に置いて、俺の座席に座る。今日もここで何が面白いのか見いだせない授業を延々と聞いて、板書を写すってわけだ。まあ、こんな言い草をしてるが、成績はほぼ平均辺りをさまよっている俺だ。勉強してない訳じゃない。
「はぁー……」
特に意味もなくため息をついて、机に突っ伏す。主要タスク、"登校"完了。
スリープに入ろうとするが、昨晩は停電で散々寝たため頭はすっきり爽快である。
この行動は毎朝同じように続けている流れ作業的な習慣であるから、いつもと違う行動を起こすと、どこか違和感が生じてしまうわけで。
「オッス、コウ!」
そんなこんなでしばらく突っ伏しているとジョーの声が陽気に近づいてきた。なんか応対するのが、けだるい。明確な理由は分からんが、今の不愉快な感情をジョーに八つ当たりしてるのか、なんかイラッとくる。俺の反抗期はとっくの昔に終了したはずなんだがな……
まあ、俺に多少の気分屋気質があるのは否めない。とりあえずここは仮眠中ということで通させてもらおう。
「…………。」
「毎度同じく就寝中……か。おいこらコウ~、起きろ~!」
ジョーが俺の頭を拳でドリルよろしくぐりぐりとしているのだが、無視。けだるさが抜けるまでこのままにしてくれ……
「……痛って!」
ところがそう思った瞬間に頭部に人のものとは思えないような強烈な打撃を受け、思わず声を上げて飛び起きちまった。
「……やっと起きたね、コウ。あんたは学校を寝床か何かと間違えてるじゃんないの? 睡眠ぐらい家でとってきたら?」
そんな女子の声がして見上げると、メガネをかけた木下千賀、通称チカがいた。人物紹介をすると、俺の友達の一人で、性格はやや活発というか、なんというか……うん。完全にワルってわけじゃない。
波打っている彼女の髪、クセ毛なのは生まれつきらしい。本人曰く「私、ストレートの遺伝子を持って生まれたかった」とのこと。本人は納得してないが、俺的視点から言えば、今のヘアスタイルの方が雰囲気的に似合ってると思っている。見慣れてるだけかもしれんが。
過去に一度、俺が金出してパーマかける奴もいるんだから、ストレートになりたいとは贅沢な悩みだな、と言ったことがある。
その瞬間にチカの目の色が変わったね。鬼に。
「あんた、私の悩みなんて分からないでしょ!? 髪の手入れは面倒だし、櫛は髪にすぐ絡まってブチブチになるし、朝は寝癖が直らなくて地獄!分かる!?」
と、チカを慰めるつもりが逆に逆鱗に触れたらしく、結果的に俺はぶっ飛ばされた。髪の質で悩んでるやつに軽率な発言は慎むべきだと学習したよ。そんなどこにでもいそうでいない感じのバイオレンスな女子。
ワルじゃないんだ……ただ元気な女の子だ。
で、どうやら俺はこいつから肘打ちを食らったらしい。彼女の衝撃に適応するため、俺の骨密度は上昇傾向にあることは間違いないだろう。俺は今の衝撃で死滅した脳細胞を弔うように頭を抱えつつ答えた。
「どこで誰が寝ようが勝手だろうが……」
「あ~もう、そーゆー気だるさ満点の態度を見てると、こっちまで気だるくなってくるじゃない!」
「今日に始まったことじゃねえだろ……」
「これから毎日今日みたいに起こしてやってもいいんだけど?」
「……喜んで遠慮させていただく」
仮にトラックにでも轢かれて、俺が骨折もなく無傷でいられたのなら、骨密度を鍛え上げてくれたチカのおかげだろう。お礼にパフェの一つぐらいオゴってやらんこともない。
「チカ。お前のその他人に手を挙げるクセ、卒業までにどうにかしたほうがいい」
今日のような衝撃を毎日食らうようじゃ、そのうちボケてきそうだ。よもや俺の努力に比して凡庸な成績なのは、チカの影響で脳細胞が削られているからではなかろうか。
俺はチカの隣のジョーに視線を合わせる。
「で、俺を起こしてまで言いたかったことって何だ?」
「いや、昨日の停電すごかったな、って」
「それだけ?」
というか、すごい停電って何なんだよ。
まあまあ規模はデカかったけども。
「ん? なんか言った?」
「……いや、何も。昨日のアレは、すごいというか、まあ、災難だったな。携帯は繋がらなくなる、テレビも見れなくなる、挙句の果てには停電だ。しかも携帯とテレビに関しては、どっかのアホが相当強力な電波妨碍を仕掛けてきたらしい。迷惑な話だぜ、まったく」
一時間目の始業のチャイムが鳴った。だが、一時間目の担当の先生はまだ来ていない。生徒はチャイムで動くというより、先生が来てから動くことの方がよっぽど多い。そういうわけでチャイムが鳴っても、席につかず友人とだべったりふざけあったりしている生徒が多く見受けられる。俺たちも例に漏れずその一部なのだが。
「あたしは数学の宿題してたら急に真っ暗になっちゃって。しばらく電気が元に戻るのを待ってたんだけど、なかなか復旧しなかったでしょ? 今日提出の宿題も結局できずじまいで学校に来たのよ」
俺はチカの席に目をやる。机の上には数学の教科書とノートが広げられているのが見えた。俺はこんな面倒なものはさっさと終わらせちまったからあわてる心配はない。俺にとってはチカの宿題なんてどうでもいいことなのだが、一応言っておくことにした。
「宿題ができてねえのに、俺たちとこんなくだらない話してて大丈夫なのか?」
「数学の授業は午後からでしょ? まだ時間があるから大丈夫じゃない?」
「『じゃない?』って聞かれてもだな……俺は知らん。どうせそうやって余裕かましてたら『想定外の出来事が~』って事態になるのは往々にしてある」
「想定外? たとえば?」
「例えばだな……」
俺が例を挙げようとした時、教室のドアを開ける音が聞こえてきた。入ってきたその男性教師――俺のクラスの担任は、教壇の前に立った。
「今日の一時間目の国語が突然の時間割変更で数学になるとか、な」
俺がニヤリと笑ってチカを見上げると同時に、担任はパンパン、と大きく二回手を叩いて生徒の注意を引いて言った。
「よ~し、お前ら席に就け! 今日の一時間目の国語担当の三村先生は急用で遅れてくるとの連絡が入った。そういうわけで、国語と数学の時間を入れ替えることになった」
「ぇ……ええええ!?」
チカは目が点になり、サァーっという効果音が聞こえてきそうな勢いで顔を青くする。ほかの生徒からも一部、不満の声が上がった。不満を上げた生徒もおそらく昨日の停電で宿題ができなかったか何かでまだ未完成なんだろう。
「ま、命運を祈っておく。頑張れ」
チカは慌てて自分の席に戻って宿題を大急ぎでやるという悪足掻きを始める。そんなことしてもすでに手遅れなのは目に見えてるわけだが……本人からすりゃ「やらないよりかはマシ」ってやつだろう。
停電で勉強する環境がなくて途中までしかできなかった、と言われれば、教師も大目に見てくれそうなものではあるが。
「ジョー、お前は宿題、大丈夫なのか?」
「俺は宿題は出された当日に全部仕上げてるから。 もっとも、提出日にそれを持ってくるのを忘れることが多いけどな」
「そりゃかなり惜しいな……で、今日はちゃんと持ってきたのか?」
「ああ、持ってきたさ。……多分」
「こりゃまた自信のない返答だな」
「おっし、牧田、席に就こうか」
担任の注意する声を聞いてジョーはそれじゃまた、と小走りに自分の席へ駆けていく。
そうして始まった一時間目。周囲を見渡せば、授業の板書を写しながら、裏で宿題も仕上げようと企むチカをはじめとする曲芸師が何人かいる。教壇に立って一段高いところから教室を見下ろす担任には、その様子がしっかりと見えているらしい。
「宿題は家でやるもんだろ……」とポツリ呟く。
普段はそんな曲芸師はあまりいないのだが、停電の影響で今日はいつもよりも多いようだ。
そんな中、クラスの一人の男子が声を上げた。
「先生! 昨晩、数学の宿題をやろうとしたら、停電でできませんでしたぁ!」
「正直なのはいいが……他にやりようがあったんじゃないのか?」
「はい! 次からは夜目が利くようにブルーベリー食べます!!」
「やるべきことは余裕もって早めにやれ。トラブルが起きても間に合うように」
「え、先生。じゃあ先生がいまだ独身なのは、間に合わなかったからですか?」
「山口。お前はだまってろ……五分でいい」
山口と呼ばれる彼の言動。四月に顔を合わせてからの二ヶ月ちょっとを通じて、これが彼にとっての通常運転だと理解している。
彼にとっては、この流れで五分も我慢できれば快挙である。
一方、ジョーはというと、さっきから何やらカバンの中をがさごそと探している。どうせ宿題でも忘れたんだろう。俺がそう思ったと同時に、一冊のノート――数学の宿題のノートと思わしきものをカバンの中から引っ張り出し、ジョーは安堵の表情を見せる。
そんな感じで授業は進み、一時間目終了十分前に差し掛かった時だった。
「『(x-a)^2+(y-b)^2<r^2』の表す領域は、この円Cの……」
突然、雷が鳴り響いたような重低音が響き、教室の窓がカタカタカタと鳴った。あまりの不意打ちな音に、公式の解説をしていた担任の声が詰まる。何、何が起こった、と生徒が騒ぎ出して教室の窓に詰め寄る。担任も窓に詰め寄ってその音源を探しだす。俺も気になったので自分の席を立って窓の外を眺める。
ここから見えるはるか遠方で、黒煙と巨大な炎でできたキノコ雲が上がっているのが見えた。
まさか……核戦争か!? ……な訳ないか。それにしちゃ規模が小さすぎる。
粗悪と評される北の将軍様謹製の核ミサイルでもこんな爆発はしないだろう。
いったい何が燃えているのかは分からんが、遠くでキノコ雲が上がった場所から今度は黒煙が連続的に上がっている。教室からでは、「爆発した何か」が一体なんであるのかは特定できない。だが、爆発の衝撃がここまで届いたことを考えると、相当ダイナミックに吹っ飛んだらしいということは分かった。
「はいはい、お前ら、もういいだろ、あとちょっとで授業も終わる。早く席に就け」
担任に催促されて渋々自席に戻って筆記用具を持つ生徒。昨日、今日と二日続けてこんなビッグイベントが開催されるとは、この街も話題的にホットな場所になりそうだ。
悪い意味でな。