第6話-14 代理救済プロトコル 6 - 軌道遷移のアクノレッジメント
私は、クラリさんが投げ落としてくれた救命用具――わだちに載せていた、縄のついた浮き具にしがみついて、川辺に引き上げられました。
引き上げられるまでに結構な距離を川下へ――試験場とは反対の方向へ流された私は、コウさんの運転するわだちの荷台に乗って、回収されることになりました。
「まぁ、足ひっかけたのは仕方ねぇけどなぁ……」
荷台にあぐらをかいて座るガルさんがぼやきます。
エクソアは周囲の目に晒されないように、荷台のアオリに隠れて仰向けになっていました。私も、エクソア行動と同じ気分でした。転んで川に落ちて、髪も服も水浸しになっている姿を周囲に見られるなんて。恥ずかしい以外の何でもありません。
「はい……」
ガルさんに申し訳なさそうに返すエクソア。その「はい」は何に対する「はい」なのでしょうか。実際、意図せず川に飛び込んでしまったので間違いではないのですが、それを自分から宣言するのは、またちょっと違うような気がしました。
荷台の上で天日干しになる私。
水を吸った服が非常に重く、全身が重りになったようでした。一挙手一投足に体力を必要とするほど重いのです。
出掛ける前に手入れをした私の翼の羽根も、水を吸ってしまって、寝起きの髪のようにメチャクチャになってしまいました。
私の身体は、重力に負けて、荷台の床に張り付いたようなものでした。
ガタゴトと走る路面の振動が荷台の床から直接伝わり、頭を打ち付けて痛みます。エクソアは、両手を後頭部に回して枕の代わりにして振動を逃しました。
五感を共有する私にとっても、その行動は助かります。
「とりあえず、どうにかして服と髪を乾かさねぇとな――」
運転席からコウさんが言います。
いったん工業ギルドの本部に行って、そこで着替えを持ってきてもらうか――いや本部も準備で忙しいか。そんな話が、コウさんとガルさんとの間で、私の頭越しに相談が始まります。
最終的に、リンはどうしたいかとガルさんに尋ねられたので、私はエクソアに桟橋まで戻る選択をするよう語りかけました。
エクソアは、その語りかけには素直に従ってくれました。
実のところ、私はどうするか一瞬迷いました。今回の時間軸では、期せずして飛行艇からコウさんを引き離すことができたのです。
このまま、どうにかしてコウさんを連れ去って逃げてしまえば、コウさんが離水試験で死ぬことはないのです。
コウさんを連れて逃げるにも、まずエクソアさんが、私に同調してくれるかどうか。いつ、私の意図から逸れた言動をして、台無しにしないとも限りません。
もし、そのまま逃げるように説得できたとして。
コウさんは、私が最初に会ったときのような、身元不明の青年ではもはやありません。レムノア王国の国賓としての扱いを受ける立場にあるのです。
私が国賓の彼を連れて出奔すれば、警邏隊どころか軍隊も総出で、血眼になって探すでしょう。あっという間に捕まってしまいます。
私の気持ちとしては、そうしてしまいたいのです。一緒に逃げたい。けれども、冷静に考えれば勝ち目の薄い戦いなのです。
「この日差しで、飛行艇の中がだいぶ熱気が籠もってた。乾かすならちょうどいいかもしれん」
桟橋前で荷台から降りて、桟橋の上をコウさんの後を歩きます。
桟橋の主翼の下で待っていた三人、ブロウルさん、グレアさん、クラリさんと目が合います。
「お、リンちゃんおかえり」
ブロウルさんは桟橋にあぐらをかいて座って、上げた片手をひらひらさせながら、声を掛けてくれます。エクソアは申し訳なさそうにまた苦笑します。
エクソアは、歩み寄ってきたクラリさんに、浮き具を投げ落としてくれたことにお礼を伝えます。
「転んじゃったのは仕方ないのですよー」
クラリさんは私を見上げてニコリと答えて、私の手を取って、お手々がつめたい、と言います。
優しく微笑んでくれる彼女。雰囲気は柔らかいし可愛らしいのですが、さっき「川に入っちゃダメ」と言われたことを盾にして、一瞬助けるのを渋ったのが引っかかります。
本当に純粋なだけなのかもしれませんが、本当は助けるの嫌だったんじゃないかなとか思ってしまいます。
「川に入るなって話した直後に、あんたが川に落ちたの、正直面白かったわ」
気がつけばグレアさんまで近寄ってきて、ジト目気味のちょっと意地悪な笑みを浮かべます。
そういう意味では、比較的感情をそのまま出してくれるグレアさんの方が、案外分かりやすいのかもしれません。
私はコウさんの後に続いて、いちど飛行艇に乗ることになりました。
コウさんが渡し板に先行して渡って、錠を解いて飛行艇の引き戸を開けます。機内からむわりと熱気が飛び出し、彼の背後にいた私の顔を撫でます。
「どうすっかな……まあとりあえず適当に乾かしてくれ。まだ時間はそれなりにある」
コウさんは私が飛行艇に乗り込むと、引き戸に指二、三本ほどの隙間を残して閉めてしまいます。反対側の戸は完全に閉じられていましたが、同じように少しだけ隙間を空けいきます。
これまで、コウさんは飛行艇の中にいるときは、機内の引き戸は全開にして、空気を入れ換えて機内の熱気を外に追いやっていました。
彼は何も言いませんでしたが、暑くて換気をしたい気持ちがあったはずです。
その気持ちと、私の衣服や髪を乾かすために熱気を残す必要がせめぎ合った結果が、指三本分の隙間なのだと思いました。
「下より上の方が乾きやすいかもしれんな。下でもいいが」
コウさんと二人きりの機内。
飛行艇内部は、上下二層に分かれていて、いま乗り込んできた入口や操縦席は、上層にありました。
コウさんは、窓があって日の当たる上層の方を勧めたのです。
私を演じるエクソアは、彼の誘導に従って、上層を、機体尾部に向けてゆっくり歩きます。通路の両脇には、砂の入った、土色の大きな麻袋が積まれた状態で固定されていました。
以前内覧をした際に、布製の簡易ベッドを設置できると、ネルンさんが説明していた場所にも、砂袋が積まれています。座るにはちょうど良い高さでした。
機体の窓があり、そこから差し込んだ外の光が砂袋に当たって、少しだけ眩しい場所。
エクソアが、濡れた服のまま腰を下ろすと、砂が貯めた熱がお尻や太ももの裏から、麻袋を通じて遅れてじんわり伝わってきます。
「服が濡れて気持ち悪ければ脱いでも構わんが、俺はこれから機内の点検でひと通り見て回る。それまではちょっと我慢してくれ」
「はい」
コウさんは、機体の仕切りに手を掛けながら、コクピットから歩いてきて、私に話しかけます。
エクソアは短く答えると、スカートの裾を片手で丸めて、強く握ります。スカートの繊維から水が滲み出て、ポタポタと床に水跡を作りました。髪からもときおり水が滴る状態で、乾くまで結構時間がかかりそうでした。
コウさんはハシゴを伝って下層に降りて、何やら叩くような小さな物音を響かせています。
その間にエクソアは靴と、濡れて気持ち悪くなった靴下を脱いで、繊維を傷めないように靴下を絞りはじめます。
"エクソアさん。コウさんはああ言ってますけど、脱ぐのは履き物までにしてくださいね"
絞った靴下を脇の砂袋の上に置き並べて、エクソアは水分を砂袋に吸わせようとします。もし靴下が臭かったら恥ずかしいと、観測者の立場ながら思いましたが、幸いにしてそんなことはありません。
太陽が差し込む中、熱くなった砂袋の上で靴下を裏返すその様子は、まるで鉄板の上で肉を焼いているかのようでした。
少しして、コウさんは下層から上がってきて、そのまま周りをキョロキョロと見渡しながら私の前を通り過ぎて、機体尾部へ向かいます。何かゴソゴソと物音を立てて、また戻ってきます。
「点検は終わったから」
彼は私に短く一言だけそう言って、コクピットの方へ歩き去っていきました。
これから彼は、分厚い資料を見ながら、試験手順の確認に集中しはじめるはずです。
"エクソアさん?"
私の手――もといエクソアの手が、まるで服を脱ぎたそうにして腰に手をあてたのを私は理解して、とっさに語りかけます。
"今の「リン」はあなたが演じていますけど。本家本元、元リンの私が言います。脱ぐのはやめてください。私は恥ずかしくて脱ぐなんてことはしません"
エクソアの手が止まります。
確かに、靴下のように脱いで絞って乾かせば、今よりきっと早く乾くに違いありません。家で一人暮らしをしているのならば、きっと私も脱いでいたでしょう。
けれども、ここから直接は見えないし、彼が別のことに集中しているにしても、異性のいる空間で脱ぐのは、さすがにためらいがあります。
"脱、ぐ、の、は、や、め、て、ね"
慎重な手つきで再び服を脱ごうとするエクソアに、釘を刺します。
彼に気づかれないよう、そっとやればいいわけじゃありません。私の手が止まりました。
エクソアはおもむろに立ち上がると、スカートの中に手を入れて――
"エクソアァ!!"
私が怒鳴る勢いで名を呼ぶと、エクソアは渋々履き直します。
コクピットの操縦席に座って、真面目に手順を確認しているだろう彼。その背後で、私は何をしようとしているのでしょう。
エクソアのことがだんだん嫌いになってきました。
しばらく経って、私は予想していなかった事態を経験することになりました。
離水試験の予定が急遽変更になって、私は随伴車ではなく、飛行艇に乗って試験することになったのです。
離水試験のために、クラリさんとグレアさんが乗り込む頃合いになっても、私の服はまだ湿ったままでした。見た目こそ乾きつつありましたが、その内側はまだ濡れていたのです。
私が脱がずに乾かそうとしたことも、乾きが遅くなる原因の一端であったことは間違いありませんが、こればかりは仕方ありません。
エクソアは背の翼を窓の日射しに当てながら、手入れをして過ごしていました。
そろそろ試験の時間。そうコウさんへ伝えに飛行艇に乗り込んできた、ガルさんとブロウルさん。
そこで私がわだちに乗るか、このまま飛行艇に留まって乾き切るのを待つかという話になったのです。
"飛行艇に残りましょう。エクソアさん"
「飛行艇で、もう少し乾かしたいです。試験で、必要なお手伝いがあればします」
私にとって、これはとても怖い決断でした。
これから水切り事故が起こると知っていながら、私は飛行艇に留まろうとしているのです。
もし私――エクソアがこの事故で死んでしまったら、私はどうなるのでしょう?
見当もつきません。私はエクソアと共に消えてしまって、真の意味で意識の深い闇の中に落ちたまま――コウさんを救えないまま、永遠にこの輪廻の世界に戻れなくなるかもしれないのです。
エクソアが誤って川に落ちたことで、偶然私は、飛行艇に留まる口実を得ました。
安全をとってわだちを選ぶより、危険を冒してでも飛行艇の中を観測して、事故で何が起きたのかを見届ける――もしかすると、私がコウさんを救出できるかもしれません。
安全を選んでわだちに乗ってしまうと、手に入らないものがここにあるのです。
それは、コウさんを直接救う千載一遇の機会。二度と手に入らないかもしれない機会なのです。
私は身体を動かすことも、誰かに話しかけることも満足にできません。結局何もできずに終わるかもしれません。
だけど――だからといって、このまま安全で鬱屈した場所から世界を眺めるばかりでは、私も、世界も、何も変えられないのです。
私は、一度死んだのです。もう一度死ぬなら、全てを出し切って死にたい。雑草の一つだろうと、泥だろうと、掴めるものは掴んでやるのです。
私は全知でも、全能でもありません。
コウさんのような知識人ではないどころか、読み書きと簡単な計算が出来る程度の学しかありません。
それでも、これから起こる未来。
その悲劇を、世界を変えるために、私の使える全てを使って、エクソアの檻の中から叫ぶのです。
「そうか、わかった」
船長のコウさんは、額に汗を滲ませながら、このまま飛行艇に乗ることを認めてくれました。
彼は私の決意を知る由はありません。私が飛行艇に残る、その選択だけを認めてくれたのです。