第6話-10 代理救済プロトコル 2 - 神性有欠の励起機構
「ヤバいと思ったら、あんたなんかさっさと見捨てて脱出してやるわ」
涼しい水辺の風と、少し暑く感じる日射しの交わる桟橋。
グレアさんは、不機嫌そうにコウさんにそう言います。もう、何度聞いたか分からないセリフでした。
「あー! グレアさんひどい! 私はなるぅを見捨てたりなんかしないのです!」
「そんなことをしたら、誰もグレアさんを助けようって思わなくなります!」
「……だってよ、グレア」
コウさんが、少し気怠そうに言います。
「そうよね。クラリちゃんは私が抱えてでも助けてあげるわ。そこの薄情者と違ってね」
グレアさんは、少し暑いとこぼして主翼の下の影に逃げ込みます。
「あーもーやってらんないわー」
グレアさんはそう言って翼下の影に隠れて桟橋に腰掛け、クラリさんも続いて足をブラブラさせます。
グレアさんは知りません。あなたが薄情者と罵ったコウさんが、このあと命に代えてあなたを守ってくれることを。
あなたは、今日を引きずって、ずっと、ずっと後悔するのです。
グレアさんに伝えたい。私の意識に何度も焼き込まれた鮮烈な未来の記憶を、あなたに伝えることができたら、どんなに良かったでしょう。
"別れは突然にやってくるのだ"と。
私の身体を操るエクソアは、グレアさんに近づくと、膝を折ってしゃがみこみます。水辺を眺めていたグレアさんが、私に気付いて顔を上げます。
「なに?」
驚きました。
こんな場面を、私は今までに見たことがありませんでした。
私はこのあとブロウルさんに話しかけられて、「あの夜」について話をするはずなのです。
耳を澄ませば、背後に私に近づこうとした足音がありました――きっとブロウルさんです。
「あの、今日は大事な試験ですし、何があるか分かりませんから――今だけは、コウさんに優しくしてあげられませんか。良い結果が出せるように」
「やるべきことは、言われなくてもちゃんとやるわ」
私に心臓はもうないけれど、心臓が跳ね上がる思いとはこのことだと思います。
これは偶然でしょうか。私が伝えたいと願ったことを、伝え方や形は違えどエクソアが伝えたように思えました。
既視感で埋まった世界。予定調和の、なに一つ目新しさがない、閉塞的だったはずの世界が突然、予測不能な未来の片鱗を見せたのです。
観測は一度ではありません。何度でも過去に戻され、これまでとわずかに異なる未来を見ることになるでしょう――
それともこれは、あのとき神使様が仰った、単なる結末の揺らぎの一つであって、単に揺らぎと私の思いが同じ方向に重なっただけなのでしょうか。
私の静かな混乱と裏腹に、エクソアはこちらを見つめ返してくるグレアに、そうじゃなくってと言わんばかりに苦笑いを浮かべているのでした。
今までいつも同じような動きしかしなかったエクソア。
もし、もしも――エクソアに、私の想いや気持ちが伝わるのならば――
"グレアさんは、動きやすい服装で試験に臨むべきです"
……。
…………。
「――グレアさん、もう少し薄着でも良かったかもしれませんね。暑そうですし、何より川に落ちたら大変です」
「給仕は衆目に晒されながら水着で空を飛べってこと?」
「いえ、そこまでは……」
「あんた面白いこと言うね。アダチも貧相な水着姿で飛ぶべきかしら?」
大袈裟な返しに、エクソアは困った様子で彼女に応えます。
エクソアの言葉は、正確な私の意思とは違っていました。しかしながら、あたらずといえども遠からずな言葉だったのです。
私には、エクソアが何を考えているのか、どんな感情を抱いているのかなんて分かりません。伝わる情報は、身体的な五感だけです。
けれどもエクソアは、私の意思、言葉や願いを、朧気ながら受け取っているように感じました。
……神使様。今からでも、遅くないでしょうか?
私が彼を、コウさんを救おうとすることを、お許しくださるでしょうか?
一度放棄した神託を、再び果たそうとするのは、もはや越権行為でしょうか?
私を演じて、コウさん達の輪の中に混ざって生きているだけの存在と思っていたエクソア。
そうだとしたら。どうして、私の想いを受け取るようなフリをするのでしょうか。
エクソアが、単に自身の檻の中に私を閉じ込め、閉じた世界の悲劇を見せ続ける処刑装置じゃないとしたら。エクソアとは、一体何なのでしょうか。
私がエクソアに何かを伝えることは、禁じ手のように思えました。
私は、観測者として世界の行く末を、コウさんの最期を観測しなければならないのです。世界に干渉する権限を失ったのです。
それでも再び私が神託を果たそうとすれば「観測者としての立ち位置にさえ納まれない愚か者」として、今よりもっと苛烈な苦しみを罰として受けるかもしれません。あるいは、私の意識ごと消されてしまうかもしれません。
この閉じた世界は、誰が――誰を幸せにするでしょうか?
私も、ラーシャ様も、この世界で永遠に悲劇を繰り返すみんなも。誰も幸せになんかならないと思うのです。
淀んだ空気の部屋。その隅に小窓があり、空気を換えられることに気づきながら、どうして、知らぬ振りができるでしょうか。
それに、私は図らずとも禁を犯してしまったのです。
「ほらクラリ、行くよ」
「はーい!」
気がつけば、私が考えに耽っている間、いつの間にかグレアさんとの会話が終わっていました。グレアさんは、クラリさんを呼んで飛行艇に乗り込もうとしていました。
「リンちゃん、行こうぜ」
ブロウルさんが、にこやかな顔を見せながら、手の甲を私に向けて、クイクイ、と手招きします。
"絶対3人で帰ってきてって、飛行艇のみんなに伝えて!"
エクソアは、私の呼びかけに反応しませんでした。
エクソアはブロウルさんに向けて、どこか申し訳なさそうな表情を作りながら、彼の誘いに乗っていくのでした。
――結局、私がグレアさんに話しかけた程度では、結末は変わりませんでした。
コウさんは、亡くなってしまったのです。
ただ。私は聞き逃しませんでした。
グレアさんが――脱出する直前に、コウさんを助けようとした、と。けれども川の流れが壊れた機首を押し流して水流が変わり、コウさんの脱出を阻んでしまった。政務院の調査に、彼女がそう証言したことを。
私の、いいえ。エクソアの言葉で、確かに少しだけ、未来が変わったのです。