第6話-8 シュレディンガーの離水
離水試験を中断した俺達は、そのまま試験場から工業ギルド本部に連行された。
TANONを桟橋に接岸しようと近づくと、桟橋にわだち組のガルとリンの他に、それから工業ギルドのザグール、ネルン、ナドの三人が立っていたのだ。
――接岸作業は初めて実践したが、離岸作業よりも面倒くさかった。
主翼にぶら下がる補助フロートを壊さないように気をつける必要があるのは、離岸も一緒だが、接岸作業は後進する必要があった。
バック自体は、何も難しいことはない。プロペラの角度をマイナスの角度に切り替えて、スラストリバーサモードにすれば良いだけだ。
何が面倒だったかといえば、後方の視界が制限されていることだったのだ。
俺がいま操っているのは、費用、時間、数多の努力の結晶でできた超高価な乗り物である。
人生でサイドミラーが欲しいと思った瞬間ランキングに一躍トップへ躍り出て、そのまま独走状態になるのも頷ける。
あるいは、飛行艇の最後尾にあるトイレの着座方向を、後ろ向きにすべきだったかもしれない。後方をガラス張りのパノラマビューにして、第三の操縦装置を据え付ければ、安心して後進できたものを。さすれば、飛行中にトイレとして使うときも、雄大な自然の景色を眺めながら至福のひとときである。
まあ、内側から外の景色がよく見えるということは、当然逆もしかり。この世界では無情にもハーフミラーは存在しないのだ。
何かあっても良いように、一人でもなんとか飛行艇を扱えて、それを普段は複数人で協力して操作する、というコンセプトなのだが、さすがに後退は一人では難しく、今回はクラリに後ろを見てもらいながら進めることになった。
「あーえっとね、もうちょっとそっち行って!」
「そっちってどっちだよ!」
ちょっと動くだけでも、巨大な図体の先端は結構な距離が動くんだぞ。
クラリのバイブスナビゲーションに従って、恐る恐るという表現が適切な接岸を終えると、すぐにザグールとナドが飛び乗ってきて――
「コウちゃ、やったな!! 確かに見たぞ。浮いとった! 飛んどった!」
などと声を上げたナドとザグールの声が機内に響き、肩を掴まれ本部まで連行されたのである。
色々端折ってはいるが、嘘は言っていない。
工業ギルド本部への道中、おめでとう、おめでとうと方々に言われていたのだが、何もめでたいことはない。普通に失敗したというのが俺の認識で、それは俺に限った話ではなく、同乗していたグレアとクラリも同じだった。
それから、俺達は夕方に祝宴をするので、それまでしばし羽を伸ばしてくれとザグールに言われ、見慣れた会議室に放り込まれ、お茶が出された。
そういうわけで、飛行艇組の俺とグレア、クラリに、地上組のガル、ブロウル、リンも合わせて六人一同、雁首を揃えて待たされることになったのだ。
軟禁である。
グレアは俺の隣の席に座って静かに目を閉じていた。
「――メシとか言ってるが、迎賓館側に連絡しなくて良いのか?」
「もう知ってるわ」
「なんだよ、お前もグルかよ」
「聞かれもしないことを、わざわざ言うかしら」
「さいですか」
グレアは、あまり俺に絡まなくなったというか、前は弄んでやろうという魂胆があったのだが、見舞いで揉めた一件以来、距離を取るようになった気がしていた。
前は事あるごとに横から口を挟んで、こっちだと俺を誘導することもあったが、最近は減った。考えすぎかもしれないが。
……それからしばらく。
日は少し傾いてきていたが、まだそれなりの時間があった。
ガルは腕を組んで下を向いたまま寝ているし、他のみんなも何かしらの姿勢をとって寝ていた。起きているのは俺だけだった。
俺は長テーブルに腰かけて、そのまま仰向けに寝そべってぼんやり天井を眺めていた。
「――気持ち悪い終わり方したよなぁ」
口先を動かすようにわずかに呟く。
成功でも完全な失敗でもなく、俺自身が離水寸前のところで中止と判断した。煮え切らない微妙な結果。チャンスを逃したのかもしれない。飛んだ感覚もなかった。
だが周囲は、確かに飛んでいたと口々に主張して、初飛行を祝うのだった。もしや離水していないと思っているのは、TANONに乗っていた俺達三人だけではないのかとさえ思えてくる。
俺が知らないだけで、失敗した人間に対して、あたかも成功したように賞賛を送って、次に切り替えていくことを促す文化でもあるのかと思った。
それにしては、口裏合わせなら賞賛に値するほど周囲の主張は一貫していてブレがなかった。
彼らが言うには、飛行艇が水面から徐々に浮かび上がってきて、艇体が起こしていた波が、ぷつりと途切れたらしい。実際に浮かんだのを見たという人の話を聞くと、3~5シュ、つまり50~80cmくらいの高さだが、多量の水を大雨のように滴らせながら、確かに浮いて飛んでいたという。
実際、俺達は本当に飛んでいたのかもしれなかった。
大柄な飛行艇の下側を、機内から身を乗り出して覗きこんで見ることは難しく、底部が水面に接しているかどうかは、機内の俺達には分からないのだ。
飛んだかもしれないし、飛んでいないかもしれない――シュレディンガーの離水である。何だよそれ。
真面目な話、工業ギルド本部まで同行したネルンの意見によれば、試験項目上は離水までは、極低高度とはいえ手順通りにやって飛んだのでギリ成功扱い。その後に続けて行う予定だった高度の確保や旋回、予定航路に従って操縦する試験は、失敗扱いだろうとのことだった。
機内の中には俺達の認識を照明する物的証拠はなく、多くの観衆や仲間が見ていた事実の方が多数決的に有利だったし、あり得ない話でもなかった。
仰向けになったまま、リンを横目で見る。彼女は椅子に座ってうなだれるようにして寝ていた。
おっさん同士の陽気な話し声が、会議室の外の通路を歩いていく。
"失敗する勇気もまた、成功と同じくらい大切かもしれません"
"失敗しても、生きていればまた――やり直せます"
あのときもし、リンが何も言わなかったとしたら、俺はどうしただろう――
*
「それでは、飛行艇タノン号の初飛行を記念して、乾杯!!」
「乾杯~!」
「ボス、乾杯!!」
「お、おう……」
というわけで結局、「わずかだが飛んだらしい」と、認識を改めることにした俺は、中庭で催された祝賀会で壇上に上がり「無事に試験が終えられたことに感謝」とか適当なコメントを叫んで乾杯することとなった。
壇を降りて、酒を持ったブロウルの杯を鳴らす。
建物で囲まれた狭い空を見上げれば、雲混じりの夕暮れの暗い空が見える。
ナクル工業ギルドの本部は、酒場でも料亭でもない。近くの店に料理を頼んで、年季と手荒なキズの入った作業机を中庭に持ってきて、そこに大皿を乗せて立食パーティーというわけだった。
それも工業ギルドの開発に従事したメンツ、総勢500人近い人数がいるのだが、太っ腹なことに全員を招いてのイベントである。
とはいえ、保安上の理由で参加は従事者本人に限られ、家族や知人は認められなかったようだが。
今回は工業ギルドが予め密かに計画して関係各所と調整してくれていたもので、試験前に俺がリンに言っていた焼き魚が食いたいというオーダーとは全くの別件である。
いま、この場にいる彼ら工業ギルド人間にとって重要なのは――俺達の手で組み上げた飛行艇が、腹を震わせる轟音と水飛沫とともに、異次元の速さで川を駆け抜けた圧巻の光景を目の当たりにしたこと――世界初の機械による飛行を成し遂げたこと――飛行艇が無事着水した事実と栄誉――そして何よりタダ飯の喜びを口に運び共有することだった。
すなわち、試験項目のどれが成功で、どれが失敗かなど、今はどうでも良いのだった。
「コウは酒が苦手なのか?」
乾杯時に俺の杯の中身が茶だと気付いたガルは、怪訝そうに声をかけた。
「俺は茶でいい」
ここで未成年飲酒をしても咎められることはないだろう。
工業ギルド本部から迎賓館に戻る手段はわだちである。その運転手は俺なのだ。飲酒運転で死亡事故でも起こそうものなら、仮に法的にお咎めがなくとも、だからといって、俺は枕を高くして眠れるような人間ではない。
俺がそう言うと、ガルは鼻を鳴らした。
「あの規模の機械で空を飛ぶ試験たぁ、いつ誰が死んでもおかしくねぇとは内心思っていたが。人死にはおろか、ケガ人の一人すら出さずに試験を終えられたのには、お前さんのその用心深さも一役買っているのかもしれんな」
「どうだか。楽観主義と悲観主義を反復横跳びしてる。次は分からん」
俺の袖を下に引っ張る誰かに気づく。クラリだった。
「あっちの食べてきていい?」
彼女は純粋に、試験の成否がどうとか小難しいことはさておいて、仕事のご褒美と言わんばかりの祭りのような雰囲気を楽しむことにしたらしい。
それはそれはもう楽しげに聞いてくるのであった。
「何食ったって怒られやしねぇよ。行ってこい、好きにしろ」
「はーい」
クラリが踵を返す。成り行きで彼女のふさふさの尾が俺の太ももあたりを擦りつけるが、彼女はお構いなしに、そのまま飛びだしていく。
「変なおじさんについて行くなよー!」
「なるぅ!! クラリは見た目はこんなだけど大人です!!」
別のテーブルに向かう途中のクラリが振り返って言い捨てた。
はいはい。わーって言ってますよ。
まあ、ここにいるのは変なおじさん500人だが。クラリに危害は加えまい。
「グレアも、好きなもの食べてきたらいい」
庶民の味にも慣れておいたほうがいい。
俺の隣に立っていたグレアに言って、続けて耳元で一言付け足した。
神都への旅に料理人は付属しない。迎賓館の高品質な料理に慣れた彼女にとって、食べ物が変わる影響がどう出るか分からない。
グレアはそうね、と一言返事をすると、俺の元を離れた。
ブロウルにグレアの様子を見てもらえないかと、さっき乾杯したブロウルの姿を探して辺りを見回した。が――
「イッキ!! イッキ!! イッキ――ッエェェエエイ!!」
……駄目そうだった。
そうだった。ブロウルの性格の良さが際立っていて忘れていたが、元々コイツはああいう性格なのだった。
残念だが彼のことは諦めて、俺は間髪入れず足早にリンへ近づいた。
人が多いところとはいえ、試験後にリンと一対一で話せる場はこの場が初だった。
急いだのは、周囲が俺の様子を窺っているのを視線で理解したからだった。今回の試験の主役でもあるし、ここのメンツとは、飛行艇計画を通じてかなり距離が近くなっている。よく知られた顔である俺が、少しでも一人になる隙を見せれば、捕まって話しかけられて、抜け出せなくなってしまいかねなかった。
「コウさん」
「リン、すまない。五分だけ、時間をくれ」
俺はリンを連れて、人口密度の高い場所から抜けだす。中庭を囲む通路の隅、小さなフライングバットレスの柱の前に連れてきた。
ここでいいか。少し薄暗い場所だが、柱の灯が俺達を照らしている。
「どうされました、か?」
「いや、マジでその、そんな大した話じゃない――」
俺はリンの目を見る。彼女も俺を見つめていた。
「――ただちゃんと礼を言いたかった。いま礼を言わないと、しばらく言える機会がねぇ気がして」
どこから話そうかと一瞬迷った。それも俺はこういうことに慣れていないのだ。
「さっきの試験……俺はあのまま飛ぶつもりだった。結局やめたんだけどな。操縦桿がめちゃくちゃ重くて、全身に力を入れてギリ操縦できるかもしれない感じだった」
「そう、ですか」
「そう。で、頑張れば行けると思った。みんな成功を期待して応援していたし、飛ぶしかない――正直、成功させることしか頭になかった」
あのとき、俺は『成功させることに全力を注ぐ』のが役目だと思っていた。
その上で成功か失敗かは、俺以外の第三者が、あるいは自然の成り行きが決めてくれるものだと思いこんでいたのだった。
「けど、操縦桿は死ぬほど重いし、だんだん『これ俺やれんのか? 下手したら墜落するんじゃね?』――不安と『成功への期待』で板挟みになった。操縦桿に全身の力を入れながら色々見えた。走馬灯みたいなやつ」
「色々励ましとか応援は沢山貰ったが、マジでリンだけだった。『失敗する勇気』なんて言ってくれたのは。そこで俺は初めて『ああ、自分で失敗を選びとる判断をしてもいいのか』って気付いた」
あのとき、俺は最初から成功させることに全霊をかけた。それは間違いない。最初から逃げの姿勢ならば、打ち勝てるものも勝てないだろう。
だが、あのまま重い操縦桿との全力の体力勝負を続けるのは、唯一の正攻法にしてジリ貧の戦いだった。
そこから救ってくれたのが、リンの一言だったのだ。
「よく考えたら、これから頑張ろうとしている奴に『失敗する勇気』なんて普通言わねぇもんな? だから、すげぇ考え抜いて言ってくれたと思って。実際それで助かったって思ってる節もあるし」
柱に据えられた、ガラスの風防に覆われた蝋燭の光――がリンの顔と金色の髪を揺らめきながら照らしている。
リンはずっと、俺の顔を見ていた。一瞬、他所に視線を逸らして、すぐ困惑気味の眉を立てて俺と目が合う。
彼女は何も言わず、ん、といわんばかりに小さく頷いた。
「俺が逃げたことは間違いない。根性無しの俺は、操縦桿との戦いから降りた――勘違いしないでほしい。選んだのは俺の意思だ。リンが選ばせたわけじゃない」
「しかしまぁその、あとあと一人で考えてみりゃ、それも結果的に悪くなかったのかもしれんと思って」
「つまり、逃げ道があったから、中途半端でも飛行艇は空を飛んだ――俺は実感ないけど、飛んだらしい――失敗の中で極上の結果を掴んで戻ってこられたと思ってる」
あのまま飛べば、成功していたかもしれないし、失敗して悲惨なことになっていたかもしれない。正直そこは俺にも分からない。
だが少なくとも、いまの飛行艇は無理をしないと飛べない状態なのは間違いない。
「しかも俺達は何も失っていない。そりゃ、予算も時間ももう少しいるし、これからの予定も考え直さにゃならんことがある。でも『失敗しても、またやり直せる』。全部、リンの言う通りだった」
「結局のとこ、俺達にはみんな役割がある。俺は飛行艇で神都に行く、その計画を主導しないといけない。グレアは俺の世話が仕事だし、護衛組は言わずもがなだ」
「リンは、自分だけ明確な役割がなくて、それを窮屈に感じてるかもしれない。自分だけが当事者じゃない疎外感というか――いや、見当違いだったらマジですまん」
「裏を返せば、俺達はみな当事者で、リンだけがその枠外から俯瞰して物事を見れる。だからこそできる役割があって、今回のはその一つだったんだと思う」
「…………。」
「もっと自分に自信を持ってほしい。この試験で一番活躍したのはリンだ――その、今回はリンの大手柄だったけど、常日頃から手柄を立てられるわけないってのも分かってる」
「とかく一番言いたかったのは、気を使ってくれて助かったこと、それから、肩身が狭いとか思わず、自分の存在に自信を持ってほしいってことだ」
話しかけている間、リンは静かにずっと、まっすぐ俺の目を見ていた。俺の言葉が途切れて少しして、ふと目線が逸れ、それから彼女が口を開く。
「あのとき私は単に、どことなく妙な胸騒ぎを覚えて言った、それだけのことなのです。コウさんが無事に試験を終えられて、安心しました」
「……それに、私のことも気を使ってくれて、ありがとうございます」
冷たい夜の空気が、建物の壁伝いにひんやりと降りてきて、蝋燭の炎が揺れる。
懐から懐中時計を取り出す。
何時何分にリンを連れ出したのかは覚えていない。連れ出す前に懐中時計をそもそも見ていなかったのだから当然だった。
「すまん。たぶんもう五分どころじゃねぇな……だが、こういうことはあっちより、落ち着いた場所でちゃんと話したかった――忘れないうちに。食ったものの感想を語るなら、食った直後が一番いい」
"あっち"の方を見ると、盛り上がる人々の中、遠くからこちらをずっと見ているグレアが見えた。
この距離では、俺達が何を話していたか、グレアには聞こえていないだろう。
彼女は俺の目線に気付いてか、ふいと顔を逸らして――人だかりの奥へ消えていってしまった。