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第6話-5 初飛行 / Point of No Return

今回は構成上の都合で連載2回分のスペシャル拡大版。


「コウ。お前、死ぬんじゃねぇぞ」


 ガルはそう言って俺の背中を力強く叩く。俺は言葉を返せず苦笑いを浮かべた。


 俺達はキール造船所のすぐそば、クル川の隅に仮設された、飛行艇TANON(タノン)専用の桟橋に立っていた。

 TANONの主翼の長さは造船所のドックを超える。そのために取り付けできていなかった主翼下の補助フロートの取り付け作業や、整備作業もここで行っている。


 進水式から一週間。息つく間もないといった感じだが、クル川を通る商船が少ないうちにしておきたいことを、俺達はこれから始める。


 離水試験――つまり初飛行だ。


 離水試験の際の操縦は、俺がやることになっている。

 それは飛行艇計画の発起人が俺であること、実際に旅に出て操縦するのは主に俺だということが、その理由である。


 飛行経験のない男子高校生が、この世界で初の航空機を操縦して、川から飛び立つ。一言でいえば狂気だが、飛行機を造って神都に行こうと言い出した過去の俺の発言が実現すれば、至極真っ当な事の運びである。


「ヤバいと思ったら、あんたなんかさっさと見捨てて脱出してやるわ」


 グレアはまだ少し不機嫌そうだった。

 そう、この無謀ともいえるチャレンジに付き合わされる犠牲者に選ばれたのは、グレアとクラリだった。

 グレアには、離水成功時の対気速度計の針の位置を記録する仕事を任せている。離水後は俺の操縦の補佐である。

 クラリには、魔力で光る照明を使った光学通信を担当してもらう。離水後の飛行艇と、地上のナクルとの交信を行うのだ。通信自体は俺達でも最低限のことは学んだが、やはり最も得意とするクラリが適任なのだ。


「あー! グレアさんひどい! 私はなるぅ(コウ)を見捨てたりなんかしないのです!」


 クラリが眉を立ててグレアを指さした。

 今まで垂れていた彼女の黄金色の尻尾がピンと立ちあがった。


「そんなことをしたら、誰もグレアさんを助けようって思わなくなります!」

「……だってよ、グレア」

「そうよね。クラリちゃんは私が抱えてでも助けてあげるわ。そこの薄情者(・・・)と違ってね」


 まだ言ってるし。ブロウルが両手を掴んで背伸びをしながら笑った。


 桟橋の下から、川の水が繰り返し洗う音がする。昼下がりの陽の光がときおり雲の影に隠れながらも、水面をきらめかせる。

 川面で反射した光が、飛行艇TANONの艇体に照らされ、紋様を作っていた。

 緩やかな水流のゆらぎに揺れる飛行艇は、藁で作られた緩衝材越しに桟橋を押して、周期的に橋を小さく軋ませている。


 クル川の川上から川下へ向けて、穏やかな風が間欠的に吹き流れている。急に風向きが変わることもなく、安定している。飛行艇の試験にはかなり良い状況だ。

 なんなら、川遊びにきた子供の笛のような声まで流れてくるほど良い。


 こんな日和に、命の危険を感じて内心穏やかではないのは俺である。

 俺の世界の史実で空を飛ぼうとして失敗し、身体を捨ておいて天高く飛んでってしまった挑戦者達は数知れない。俺もその一度限りのフライトをした人物の一人に名を連ねるかもしれないのだ。

 

 試験を始める時間になれば、クル川に規制が張られ、川遊びに来た親子連れが防衛軍の兵士に説得させられ退散させられるのだろう。

 いま、川を飛んで向こう岸に降り立った兵士が、来たばかりの親子連れに寄って、なにやら話をはじめた。

 兵士がこちらを差しながら、なにかを語りかけ、母親とおぼしき女性がこちらを見ながら会話しているようだった。さしずめ、あの巨大な機械が動きはじめたら、危険なので速やかに川から上がってください、とでも伝えて回っているのだろう。


「少し暑いわ」


 グレアはそう言って桟橋に頭上の主翼の影が落ちるところに逃げこんだ。彼女は飛行艇が桟橋に接している反対側の縁に座り、水面の上に足を投げ出した。


「あーもーやってらんないわー」


 着ているメイド服の胸元を掴んでパタパタさせる。

 確かに風は涼しいが、日射しだけは初夏一日手前のような強さだ。仕事着である暗色の制服を着込んだ彼女がそう言うのも、無理はなさそうに思える。

 それだけに飽き足らず、彼女は背中の黄金色の翼を広げて、背中と翼の間に風を通して涼みはじめた。

 俺には分からないが、翼も多分に蒸れるらしい。リュックを背負って汗ばむような感覚なのだろうか。


 お前も暑そうだよなぁ、とガルがクラリのふわふわの尾を見ながら言う。クラリもそう、ちょっと暑いーと言いながらグレアの横に駆け寄っていく。


「川には入るなよ?」

「入らなーい!」


 ガルの忠告を、彼女はひらりと躱す。

 懐中時計を取り出す。午後二時四十二分。まだ、動きはじめるまでには時間の余裕があった。


 俺はTANONのサイドドアのステップ部に渡し板をかけて登り、施錠されたサイドドアの鍵穴に鍵を入れて解錠する。

 ドアを開けると、初夏の車内を思わせる熱気が、木材の甘い香りとともに、俺の顔を舐めながらむんわりと飛び出した。

 この熱気の中で飛ぶのはさすがに御免だ。

 空を飛ぶと寒いぞ、と工業ギルドに脅されて木の温もりを生かした保温性のある構造になったが、ここではそれが裏目に出ていた。

 換気反対側のサイドドアも開けて風通しを確保。水面で反射する太陽の光が目に刺さるように眩しくて、目を細める。


「あの、コウさん。水の上を滑るときは、少しだけ機首を空に向けると、いい気がします」

「? お、おう……」


 上層の中央通路から天井へ。木製のハシゴに手をかけ、機外に出られる蓋を開けようとしているとき、後を追って乗ってきたらしいリンが、背後から遠慮がちに話しかけてきた。


「空を見ながらゆっくり持ち上げるみたいに飛ぶと、いいかもしれない、と思いました」

「あー……そうだな、確かに」

「前にも言っていたらごめんなさい」


 いつも静かだったリンが、突然そう言い始めるのは珍しい。

 慣れない横引き式の蓋を開けるのに苦戦していたが、つっかえが取れたかのようにガラリと開く。薄雲混じりの青空が見える。


「ありがとな。心配してくれて。やれるだけのことはやる。ダメだったら、骨は拾っといてくれ」

「…………。」

「俺は生き返らせてもらえるほど徳の高い人間じゃないんだ、お前と違って」


 開けておくのはこれくらいでいいか。あまり開けすぎると、閉める必要があるときに忘れてしまいそうだ。

 トン、とハシゴから板張りの床に着地した俺の靴が、木材特有のくぐもった低音を響かせた。


「正直、俺も怖えぇよ――俺だけならまだしも、仲間を乗せるとなれば、その命も預かるのも同じだ」


 試験飛行で俺が操縦する最大の理由は、飛行艇の主機関である魔導モーターの性能が関係していた。

 魔導モーターを動かすときの、魔力の消費量が半端ないのだ。魔力の供給源は人間である。

 ギルドの試算では、普通の人間が操縦すれば、全開飛行で三十分も動かせば、意識を失うレベルで魔力を枯渇させてしまうほどに魔力の消費量が凄まじいという。

 それでも魔導モーターが採用されたのは、それしか手段がないこともあるが、一番は俺の膨大な魔力をアテにしたからだった。


 つまりTANONは、近距離の回送ならともかく、それなりの時間を飛ばすならば俺が乗ることは事実上の必須事項なのだ。


「……なあリン、初飛行に成功したら、みんなで寄ってたかって、ベルゲンにオゴらせて、豪勢にメシ食いたいな」

「そう、ですね――」


 リンは、少し困ったような眉の曲げ方をして、口元だけ笑う。心配に思ってくれるのはありがたいのだが、リンはずっとマイナス思考ばかりしているように思えた。

 そういう性格で染みついたのかもしれない。だがせっかく復活したなら、もっと楽観的になってもいいんじゃないかと。


 こういうことは柄じゃないんだが、と思いつつ、俺はリンの手を取って握った。

 彼女は握られた自分の手に視線を落とした。


「地上組――ガルとブロウルに何が食いたいか、聞いといてくれないか?」

「…………。」

「俺は、そうだな――焼き魚が食いたい。赤身も乙だが、脂の乗った白身が気分だな」


 この乾燥地帯にある都市ナクルでは、岩塩は手に入るが、食料としての魚が手に入らず、極めて貴重だった。

 実際、クル川の周りにはまだ錆びたような荒れ地に水が流れはじめたばかりであり、短い雑草が新しく生え始めたくらいで、水生生物の姿は見えない。

 個人的には、鯖の塩焼きに白米の組み合わせが至高であるが、白米はない。魚料理が食べられればそれだけで極上の贅沢なのだ。


 あまり言うと今生の別れフラグが立ちそうな気がした。もう立ったかもしれん。


「試験中に困ったことがあれば、ブロウルを頼るといい。変態ではあるが、あいつの人柄は間違いない」

「ありがとうございます――コウさん、どうかご無事で」

「そうだな……ここまで来たら最後までやりきるしかないが」


 俺はリンにTANONを点検して回ると伝えて、ハシゴを伝って下層の倉庫エリアに降りる。


 艇体に水漏れがないかどうか、床下を覗いてみたが漏れはなく、完璧に防水されていた。

 あとあと少しずつ染みだしてくるのかもしれないが、間違いなく造船に慣れた工業ギルドの技術力の賜物だった。

 一通り見て回ってさしたる異常もないと思った俺は、上層に戻って、一足先に操縦席に座った。


 ふぅー……


 これから始まるという時に乗り込むより、先に座って落ち着いてからの方が、うまくできそうな気がした。

 座席脇のモノ入れに予め置いておいた、試験飛行の手はずと航路を描いた羊皮紙を眺める。

 クル川の上流を遡るように飛行し、ある程度高度がとれたら市街地を横切って、砂漠方面へ向かう。それが今回の航路だ。


 操作手順は工業ギルドと議論に相談を重ねて検討したもので、大方その内容はすでに俺の頭の中にある。

 しかしこの操縦桿やレバー、ハンドルを見ていると、パッと操作できるか気になって、自然と操作手順のリハーサルを始める。


 さっきは死亡フラグじみたことを言ってしまった手前、出発前に慎重な点検と手順確認でフラグをへし折っておきたい。


 操縦桿のピッチ、ロール、ペダルのヨーは、どれも問題なく、わりと軽い力で動いた。本当に操作に合わせて動翼が動いているのか、操縦席を立って、サイドドアから主翼の動翼を見ると、確かに意図したように動翼が動いていた。


 物入れに入っている金属製の暗緑色の腕輪を手首につける。室温で温まった金属のぬるさが肌に伝わる。

 飛行する際、俺は金属製の腕輪をつけていなければならなかった。

 腕輪は魔力を導通させる特殊な金属で作られ、二股になっているワイヤーとプラグを介して、機体に魔力を流し込むという設計になっている。

 これで、機内の至る所にあるプラグ穴にワイヤーを差しこんでいる間は、俺が操縦席にいなくても、動力を供給できるというわけだ。


 面倒くさいが、じゃあ例えば操縦桿から魔力をとる仕組みならどうかというと、それはそれで困る。ちょっとトイレ行ってくる、と席を外した瞬間に推力喪失、なんてシャレにならない。



 何度か確認してイメージトレーニングを繰り返していると、ブロウルとガルが上がってきて、そろそろ試験の時間だと伝えてきた。

 ガルから激励の言葉をもらい、ブロウルとは拳骨を突き合わせた。


「じゃあ、俺達はわだちに戻る。リンちゃん、一緒に行こうぜ」


 ガルとブロウルがリンを連れて降りていくのと入れ替わりで、桟橋で涼んでいたグレアとクラリが乗りこむ。グレアは筆記具を入れた編みカゴを、クラリは魔力で光る信号灯を持ち込んだ。


「緊張すると、喉が渇くよな」

「水ならそこにあるじゃない」


 グレアにそう言うと、彼女はメイド服のスカートを両手でつまみ上げて、副操縦席に足を差し入れながら、あごで機外を示しながらそう言った。川の水のことを言っているらしい。


「体調不良で試験延期待ったなしだな?」


 渡し板外すぞ。ガルの声が聞こえて、後ろのサイドドアから渡し板が擦れて外れる音がした。


 俺は腕輪のプラグを操縦席の壁に差し込む――寸前で手を止める。


「違う。順番はこれじゃない……」


 俺とグレアの操縦席の間にある制御盤に、魔導モーター駆動用の魔力の減衰器と出力制御の機構が組み込まれている。こっちの操作が先だ。

 制御機構は試験輸送車『わだち』と同一設計である。TANONの構成技術の実証のために、わだちが作られたのだから当然のことだった。


 違いは、わだちは小型の単一モーターだが、TANONは大型の四発モーターだということだ。

 減衰装置が四セットになっていること以外、基本操作はわだちと変わらない。

 減衰率を最大に設定、出力を0に絞る。

 先にこの操作をしてからでなければ、プラグの接続と同時にモーターが起動するところだった。


 二度、制御装置を確認して、俺は腕輪のプラグを操縦席の壁に差し込んだ。コックピットの窓から振り返るようにして主翼のプロペラを確認する。絞りきっているので動かない。手順誤りに気付いて正解だった。


 桟橋に固定していたロープが外される。飛行艇にあまり傷はつけたくないが、艇体そのものは船と同じように扱っても問題ないように作られている。


「マジ緊張する」

「なるぅ頑張れー」


 全プロペラのピッチを十度に設定。離岸のために、桟橋側の主翼外側、一番モーターの出力をそっと上げる。アナログ制御で静かに回り始めるプロペラ。

 歩く速度の半分程度では、ラダーペダルを踏んでも操作はまったく効かないため、モーターの制御で頑張る必要があるのだ。


 プロペラが低い風切り音を立て、大型モーターの回転するゴロゴロとした低音が聞こえる。

 機体が信地旋回の要領でわずかに回頭する。

 あまり回頭しすぎると、桟橋を挟んで向こうにある補助フロートを折るかもしれないので、程々に。


 少しだけ回頭させたら、反対側の四番モーターの出力を上げる。艇体がゆっくり前進しはじめる。

 そしたらすぐ、次は一番モーターの出力を落として、桟橋と並行に進むよう機首を戻す。


「クラリ。桟橋から抜けたら教えてくれ」

「はーい」


 繊細な離岸作業。操作するごとに一息つきたい気分だが、川の流れに対応しながら進めなければならない状況がそれを許さない。


「なるぅ抜けたよー」

「うい」


 主翼両端の一番と四番のモーターを使って、川上に機首を向ける形でクル川の中央に向かう。離岸ほどの繊細な操作が不要でだいぶ気が楽だった。


 とはいえ、川の中央は流速が速くなる。

 操縦手順を作っているとき、操船経験を持つ工業ギルドのメンバーがそう言っていたことを思い出す。


 飛行艇が川に浮かんでいる間は、川船の流儀にならえ。

 この船体の大きさでは、恐らく横断する形で進むと、川幅と流速の違いから機首を川下の方に持っていかれてしまう。横断はゆっくりで良いから、機首は川上を向けておけ、と。


 川の中央に陣取る。

 一番、四番モーターの出力を下げる。二番、三番モーター、始動。

 すべての魔導モーターの出力を揃え、川の流れに逆らってその場に静止する。

 各プロペラとモーターの微妙な回転差が生み出す、周期的な唸りと主翼の共振が機内にビビリ音を響かせ、操縦席を上下に振動させる。


「すげぇ。マジで動いてる……」


 一息つく余裕とともに、自然と今さらな感想が漏れた。

 オォォオ――プロペラが轟かせる、巨大な獣の唸り声のような風切り音。


 最終チェックを始める。

 現在の冷却水の温度計は、摂氏27度。

 水冷回路圧力、約1.0気圧。大気との相対圧力差、ゼロ。


 飛行艇のために新規発明された魔導モーターは、黎明期である。エネルギー効率は測れないが、著しく悪い。これは間違いない。

 エネルギーのほとんどが熱に変わる。

 わだちは小型小出力ゆえに空冷で十分だったが、大型大出力のTANONでは、そうもいかない。

 熱に弱い魔導モーターが自壊しないよう、水冷システムが載せられている。

 魔導モーターは水の熱容量と気化熱により冷却されるというわけだ。


「ちゃんと冷えてくれよ……」


 一応、造船所で負荷試験と冷却試験はしてもらっているが、近隣への騒音対策の関係で、それにも限界があった。


 冷却水は沸点に達すると、水冷回路の圧力が上昇して、自動的に開放弁が開き蒸気が大気に放出される。

 燃料のように消費される水冷回路には、およそ3,000Lの冷却水タンクが接続されている。今回の試験では、万一に備えて満載している。


 飛行中は特に、水冷回路の圧力の監視も必要だ。水冷回路は、暖房を兼ねて機内を血管のように巡っている。配管に異常な高圧がかかれば、どこの配管が破損して高温の蒸気が噴出するか、分かったものではない。


 今のところ、冷却系統に異常はない。

 大気圧、約1.0。対気速度計、およそゼロ。保護ガラスのない、剥き出しの計器の針が伝える。


「なるぅ。地上組から『異常ないか』って聞かれてるよ」

「ああ――問題ないと伝えてくれ」


 飛行艇との交信用に、市街地に複数配置された信号灯と通信要員。クラリはそのうちの一つと交信する。信号灯のシャッター音が響く。

 もし、俺が何かを見落としていたら。判断を誤っていたら。

 問題ないと言い切るために、俺はいくぶんかの勇気を払い出した。


「なるぅ、『前方の誘導指示に従え』だって」

「了解」


 緊張で荒ぶる心音。一気に吸い込んだ空気を、ゆっくりと吐き出す。

 フラップ角20度。全プロペラの角度を20度に設定。低下したモーターの回転数を補うように、わずかに出力を上げる。


「グレア、いいか?」

「空を飛んだら、タイキソクド計に線を引くだけでしょ」


 副操縦席のグレアは、大腿に乗せたカゴから、羽根ペンをインクに浸して、対気速度計の盤に離陸時の速度を記録する準備をしていた。


「間違えて気圧計に引くなよ」

「あんたこそ下手こかないでよね」


 俺は前方を眺める。

 クル川は、大型商船が通るために、橋が架けられない。それは飛行艇にとっては好都合で、長大な滑走水域の限界を決めるのはクル川の屈曲だった。


「クラリ。どこか掴まるところ見つけとけよ」

「はーい」


 直線的な川の両岸に、一定の距離間隔で並んだ防衛軍の兵士が、両手に紅白の大きな旗を持って、遠く視力の先まで配置されていた。

 クル川を滑走するために設定された試験水域。彼らは水域の中で割り当てられた自分の持ち場の安全を確認する役割を担う。


 旗を持つ彼らの表情は見えない。みな、飛行艇に背を向けて持ち場を見ていた。

 通行可能ならば白旗を掲げる。白旗は最奥の兵士から順に、手前へと確認が渡されていく。

 持ち場に障害物や乱入者など異常があれば、赤旗を。また、奥の兵士が一つでも赤旗を揚げていれば自らも赤旗を揚げる。

 単純な仕組みだが、それゆえに異常の伝達は高速かつ確実に、正常の確認は正確かつ慎重に行われる。


 今は紅白そのどちらも上がっていなかった。


 両岸には、多くの見物人が押しかけて人混みを作っていた。岸だけではない。建物の窓から身を乗り出す人々。あるいは、屋根に飛び乗って座る人々。

 みな、翼を持たない者が怪鳥TANONを操り、彼ら有翼人の世界に混ざろうとする挑戦に興味津々なのだ。


 ……。

 …………。

 ………………。


 空気が揺らぎ、屈折し溶けている遙か向こうで、白旗が上がったような気がした。

 遠くから手前へ、順に旗が上がっているように見えるのは、思い込みではなかった。

 次々とウェーブのように上がる白旗。空への道が開かれる。

 手汗を腰で拭って、操縦桿を握り直す。


「なるぅ! また交信きた!」

「なんだって?」

「『神使のご加護のあらんことを』」

「へぇ。そりゃどうも」


 気の利いた交信の発信元が誰なのか分からない。それでも、皆がこの試験の成功に期待していることだけは確からしかった。


 ピイィィ――


 一番手前にいる両岸の兵士の白旗が上がると同時に、試験可能を知らせる鋭い笛の音が響く。


「行くぞ!」


 覚悟を決める。もう後戻りはできない。許されるのは成功、ただ一点。

 魔導モーター、最大出力。

 プロペラの咆哮が、開放されたままのサイドドアから流れこむ。


 徐々に、緩やかに加速していく鈍重な艇体。

 速度を上げるほどに、伸びるように強くなる加速度を、操縦席に押さえつけられる背中で感じる。


 流れる景色が速くなる。前方に集中する視界の端に、川を掻き分ける船底から舞い上がる水しぶきが見える。


 空を見ながらゆっくり持ち上げるみたいに飛ぶと、いいかもしれない、と思いました――リンの言葉が頭に響く。


 操縦桿を引く――重い。

 速度が上がるに従って重くなり、定位置に戻ろうとする操縦桿。まるで溶接されていくようだった。


「こんの!」


 俺は両足を踏ん張って、操縦桿を引く。

 フラップを、離昇、角度へ……設定。


「ッくぅ、上がっ、れ――!」


 コクピットの窓越しに見える人々の顔と歓声。

 力一杯操縦桿を引いたことで、飛行艇は半ば浮き上がって、その巨大な主翼が空を掴もうとする。


「上がれコンニャロォ!」


 ――いける。いってやる。

 設計開発・建造に携わったナクル工業ギルド、構成企業の、誰もが成功させたい一心で、この瞬間を待ちわびたと言っても過言ではない。

 それは俺も同じだ。まだこのまま操縦桿を引き続ければ、離水できそうだ。離水できる。


 ここが踏ん張りどころだ。自らに活を入れる。腕力ではダメだ。腕を伸ばし、背筋で操縦桿を引く。飛行艇は徐々に浮かび上がる。

 船底から響いていた水を切る轟音が小さくなり、そして止む。


「飛んだ! 飛んだよ!!」


 クラリがはしゃぐように叫び、グレアはその声を聞いて対気速度計の針が指し示す位置に線を引く。


「っしゃおらぁ!」


 前方の視界は、確かに少しだけ高くなっていた。離水――空を掴んだのだ。

 だが、戦いはまだ終わっていない。水面を滑るように低空飛行しているだけで、まだ両岸に立つ建物の屋根の方が高いのだ。

 もっと高度を上げろ。


「ぬおおおお――ッ!」


 徐々に上がる高度。言葉にならないうめきを漏らしながら、歯を食いしばる。頭に血がのぼる。操縦桿を握る指先が白み、血管の浮き出た腕が小刻みに震える。

 川の両岸に立つ大きな赤い旗――この先、直線区間は終わり、クル川は右へ屈曲する――回帰不能点の警告位置を、高度十数メートルの低空で駆け抜けた。



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