第5話 B-END 弾劾裁判:RAXAとXØRの檻
これは、単なる仮想現実に過ぎないのだ――
――気がつくと、何もない空間にいました。
私自身が、立っているのか、座っているのかさえも分からない。ただ一面に広がる白い空間でした。壁も、天井もない不思議な場所で、私は脱力した状態で、仰向けになっているようでした。
本当のところ、仰向けになっているかどうかも、分かりませんでした。地面に背中を押しつけられる感覚、重力というものがなかったのです。
「あれ……」
私は起き上がることにしました。不思議と身体は軽く、痛みも感じませんでした。
ついさっきまで、私は迎賓館の屋上にいて、薬を飲んで、コウさんの手を払いのけて、私はそこから身を投げたはずなのでした。
酷いことになっても不思議ではない私の身体は――いいえ。確かに酷いことになったはずの私の身体は、何事もなかったかのようでした。
真っ白な空間。静寂。音一つ聞こえない空間。まるで音という概念を失ったようでした。
でも確かに、私が動けば、髪の擦れる音、着ている服の擦れる音はするのです。私はあのときと同じ赤い服を着ていましたが、身を投げたときに持っていた三叉の剣は、無くしてしまったようでした。
確かに白い空間で光もあるのに、光源が見当たらないような、不思議な場所でした。
「…………。」
ふと思い出したように、巻き添えになったグレアさんのことを思い出しました。身を投げた先に、どういうわけか彼女がいて、一緒に墜落したのです。
ままならない身体に最後のお願いだと鞭打って、グレアさんを、決して下敷きにしないように、必死にあがいたつもりでした。
彼女の引きつった顔だけは鮮明に覚えています。状況は理解できませんでしたが、彼女を巻き込んでしまったことは確かなようでした。
グレアさんを巻き込むつもりはなかった、と私が弁明して謝罪したところで、私以外、何もないこの空間では意味のないことは理解しました。胸が締め付けられる思いでした。せめて、グレアさんに大きな怪我がないことを祈ることしかできません。
辺りを見渡しても続く一様な白い空間は、私がどこを向いているのか、方向さえ分からなくさせるほどでした。
辺りを探索しようとひとまず立ち上がって前を向くと、中性的な顔立ちの美しい人が目の前にいました。
まるでツタ植物のように垂れる青緑の長い髪、薄い唇。薄い水色の布地に金色の刺繍のような紋様の入った、聖職者のような様相は印象的です。
魅入ってしまいそうなほどに綺麗で一度会えば忘れられないような姿であるのに、前にどこかで会ったことがあるような、ないような、そんな気がしました。
彼と呼べば良いのか、はたまた彼女か、分かりませんでしたが、眼前の華奢なお方は恐らく彼女だと思いました。
彼女は、銀色に煌めく不思議な球体を大切そうに両手で抱えていました。その球体は少し眩しいほどに輝いていて、少し動くだけで見え方が変わるような、この世のものとは思えない異質な感じがしていました。
無表情な彼女と目が合いました。長くて綺麗なまつげ。髪色と同じ透明感のある青緑の目は見ていると、その奥に宇宙があるような、そんな深淵に吸い込まれるような目をしていました。
少し気まずい感じがして私が首を傾げると、彼女は目を合わせたまま、私と同じ方向に首を傾げました。
それで、私が反対に首を傾げると、間髪入れずに彼女もまた、目を合わせたまま同じ方へ首を傾げるのです。
「あの、ここどこ、ですか……?」
愛想笑い混じりに再び反対方向へ大きく首を傾げて尋ねると、彼女は私の目を捉えたまま素早く追従してカクンと首を傾げた、次の瞬間。
白い無機質な空間が震え、青緑の目が急に大きく見開かれて――
「Attempt 857416. 弾劾裁判を始めます。」
「あぁ……」
背筋を悪寒が駆け抜けました。それはまるで、神託のようでした。
目の前のお方に絶対に抗えないという事実。私は感覚で理解させられました。
――私はこのお方を知っている。どこかで、私は彼女と会ったような、そんな気がしました。けれども、彼女といつ、どこで会ったのか分かりませんでした。
「神使RAXA様――」
私の中に知っている誰かがいるかのように、言葉が勝手に飛び出しました。その瞬間、堰を切ったようにあふれ出した記憶が流れ出て……
「罪状:背任行為」
今となってはすっかり忘れていた、繰り返し見たあの不思議な夢のことを思い出しました。
裁判所で私が懺悔をするたびに、青い髪の美しい女性が一人、両肘をついて手を組んで、私に優しく語りかける夢です。
"それでも、あなたはこの世に必要な存在なのです。有象無象のことは、貴女の糧にして忘れてしまいなさい"
おぼろげな彼女の姿の記憶は、今目の前にいる存在で間違いありませんでした。人間離れした、深淵にいるかのような雰囲気の彼女です。
彼女が神使様だと、なぜ思い出せなかったのでしょう。
「通常、我々は死というものに特別な意味を持たせることはありません。それが不慮の死であろうと、自ら命を絶つ行為であろうと、あるいは寿命であろうと、等しく死です」
首を傾げて大きく目を見開いたままの神使様の目は、瞬きひとつしませんでした。
何も答えていないのに、神使様はすべてを見通しているようでした。
「我々は、あなたの死に興味はありません。我々は、あなたが命じられた役割について、遂行を放棄したことを弾劾します」
神使様の言葉に呼応して脈動するように記憶が浮き出てきました。
私はいつかの夢で、宙から落ちてくる一人の青年と関わるよう、彼女に言われたのです。そして、彼が害を成すものであれば、殺してしまいなさい。そうでなければ、彼と共に過ごし、困難があれば彼を救い導きなさい、と。
私は自らの過去に犯した罪ばかりを気にして、その神聖な神託のことを忘れていました。
私は確かに、宙から落ちてきた異界の青年と出会いました。
「我々は無意味な行動を起こすことはありません。我々は、まもなく動乱の時代を経験します」
神使様が抱えていた銀色の球体を少し持ち上げると、白い空間に陰影が広がり、白黒の陰影が立体的に広がりました。眼下に木々が描かれ、陰影に色がついて、やがて深い森になりました。
森は黄昏の光で朱色に染まり、太陽は遠くの森の地平線に隠れ始めていました。
「あの青年は、来たる大動乱の世界を教え導く力を持ちうる貴重な存在であり、同時に儚い存在です」
私と神使様は、深い森の木々の二倍ほどの高さに浮いて立っていました。
私の記憶にない場所。無音の世界。辺りを見渡す限り延々と広がる森。急に音が息吹いたかと思うと、遠くから木の葉の擦れる音が、波のようにこちらへ押し寄せてきました。
「……っ」
「ここは、あなたにとっては未来。私にとってはつい今しがたの過去です」
音の波が私達を通り抜けていくと、ひんやりとした、湿り気のある突風で髪が乱れ、砂埃が目に入りました。神使様のツタのような独特で神秘的な髪も、黄昏の光に黄色く輝いて風に揺れていました。
「あなたの背任により、コウ――アダチ・ミツヒデはその命の灯火を失うでしょう」
予想していなかった言葉が、神使様から告げられます。
背後の遙か遠く、空の高いところから、なにかが破裂する音、唸るような音が聞こえることに気付いた私が振り返ると、何か大きな塊が唸りながら空を浮かんでいました。
「飛行、艇……?」
コウさんがギルドの方達とずっと身を粉にして作っていたという飛行艇。私は飛行艇の計画からは離れたところにいましたが、彼が作ろうとしていた飛行艇の姿とそっくりなように見えました。間違いありません。あの巨大な飛行機械は、飛行艇だと思いました。
神使様は何もおっしゃりませんでした。神使様は黙ってこちらへ向かってくる飛行機械、飛行艇を、首を傾げたまま眺めていました。
徐々に音が上ずりながら近づいてくるその飛行艇は、不自然な非対称の形をしていて、それは片翼であったからでした。
片方しかない翼を時計回りに振り回し、失った翼の付け根から蒸気のような尾を引いて近づいてくる飛行艇。その蒸気は夕日に照らされて朱に染まり、血を流しているようでした。
背後では、ひらひらと舞うように落ちる、もう片方の翼がありました。
あれではもう飛べない。私は直感的に理解しました。
なのに、痛々しい姿の飛行艇は、急に悲鳴のような甲高い音を立てて、不規則な動きをはじめました。なにかに抗おうとしているかのようでした。
近くの木々に止まっていた鳥たちが驚いて空に飛んで逃げ出していきます。
「コウさん!!」
私達の眼前に迫り、森の木々に墜ちようとする飛行艇。私は叫ばずにいられませんでした。
飛行艇の胴体が森の木々に触れ、片翼を持ち上げながら木々の上を滑り、森の木々とも、飛行艇の音とも区別のつかない破滅的な音を立てながら、私達のすぐ目の前を凄まじい速さで駆け抜けます。
飛行艇にまとわりついた突風と砂塵の塊に殴られ、私と神使様の髪を巻き上げます。
高く持ち上げられた翼、取り付けられた二つの高速回転する羽根が外縁に白い螺旋の軌跡を描き、鈍く重たい機械の咆哮を轟かせ、私の身体を、世界を震わせました。
やがて翼が胴体を追い越すように前のめりになって、飛行艇の尾部を空に向けたかと思うと、飛行艇は躓き、木々を薙ぎ倒して大地を揺らします。
その瞬間を、私と神使様はここで眺めるしかありませんでした。
同時に、何か大きな破片が鋭い音を立てて私達の方へ飛び込んできて、神使様の長い髪の端をヒュンと切り裂いていきました。
神使様は微動だにせず、冷たく、観察するように一部始終を見ていました。
残ったのは、高く舞い上がる土煙、傍観していた鳥たちが恐怖に駆られて一斉に空へ逃げていく情景と、空に残された残響だけでした。
「そんな、どうして――これは私のせいじゃない」
「連綿と続く因果律の連鎖は、状況のわずかな違いが、後になるほど大きな結果の差異を生む」
私が思わず瞳を強く瞑って呟くと、神使様が冷たくおっしゃいました。
「ケイオティック・システムおよびコンプレックス・システムにおいて、特定の条件を満たす任意の結末を獲得することは、状況の初期鋭敏性のため未だ難題である。我々はソルバにより、膨大な因果の相関をふるいに掛けた結果、あなたの行動が結末の制御と深く関係している可能性を導き出した」
私は、神使様の言葉を断片的にしか理解できませんでした。それは人間の言葉では表現できない神の言葉なのだと思います。
気がつくと、景色は森の中でした。
黄昏時の森の周囲は木の葉に遮られて暗く、明かりがなければ、なにかに躓いて転んでしまいそうな、視界の悪さでした。
その中でも、ここは森の木々が薙ぎ倒され、ぽっかりと穴があいて、夕暮れの空の光が差し込んでいました。
薙ぎ倒した木々にもたれかかっていたのは、森に吸い込まれて消えた巨大な飛行艇の残骸でした。胴体は中央で二つに割れ、片翼の翼も千切れてなくなり、木製の胴体や金属の部品が、無数の破片となって一直線上に散らばっていました。
あたりには湯気が立ちこめていて熱気が漂い、強い湿気はこの場にいる私の服を濡らすのではないかと思うほどでした。
胴体の前部は大きくひしゃげて上下が反転した状態で横たわっていて、千切れた胴体やいろんな隙間から湯気と液体――熱湯が流れ出していました。
「あぁーー…… あぢぃ……あぁ、あー……」
「コウさんッ!!」
その胴体前部から彼の悲痛なうめき声が聞こえました。
あんな想像を絶する速さで木々の上を滑り、大地を揺るがすほどの大きな衝撃があったにもかかわらず生き残れたのは、木製の胴体が衝撃をある程度防いだからで、それは奇跡だと思いました。
私が駆け寄ろうとすると、神使様に私の腕を強烈な力で掴まれて、引き戻されました。
「わきまえなさい。これは確定した過去であり、未来です。あなたに干渉する力も、権限もありません」
彼女の無表情で吸い込まれるような瞳に見つめられ、淡々とおっしゃいます。
「でも、こんな――RAXA様、お願いです」
「あなたは干渉する権限を放棄しました」
突き放された、言い逃れできないその言葉と、私を掴んだままの神使様の冷たい手。華奢な身体からは想像できない、まるでエルベシアのような――力強さがあって。私はその手を振りほどくことはあまりにも畏れ多く、できませんでした。
どこか違う場所から、泣き声のような、唸るような声が聞こえてきました。
はじめ、その声の主が誰か判然としませんでしたが、すぐにあの声はクラリさんのものだと気付きました。
彼女は少し離れたところで崩壊した、半ば瓦礫となった胴体、切断された尾部から這い出てきて、ぽとりと、瓦礫の散らばった地面に転がり落ちました。
クラリさんは頭から血を流し、右腕を力なく垂れ下げた状態で、ゆらりと立ち上がります。
彼女はなるぅ、なるぅ、とコウさんのことを呼び探すように、湯気の立ち上る機首にゆっくり近づいていきます。
ふと、神使様は強く掴んでいた私の腕を放しました。私は神使様のお顔を窺いましたが、その表情はもの言うことなく、コウさんに近づくクラリさんの様子をじっと見ていました。
「クラリさん!」
私は意を決して駆け寄りました。彼女には私の声が聞こえていないようでした。クラリさんの前に立っても、彼女は私が見えていないかのように――私の中をすり抜けていきました。
「…………、」
振り返り見ると、すり抜けた彼女に、私の存在を認識した様子はありませんでした。まるで私がこの場にいないような――実際、私はその立場に置かれているのだと理解しました。
それでも、できることがあるはず。そう信じることを諦めたくありませんでした。けれども、私の立つ足が瓦礫をすり抜けていることに気付いたとき、私は一切の干渉ができないことを、受け入れるほかありませんでした。
「なるぅ……なるぅ……」
クラリさんは、うめき声を上げているコウさんの声を聞くと、その痛々しい足取りが少しだけ、速くなります。
「クラリ……早くいけ……俺はここまでだ、逃げろ……」
彼女は、コウさんの声を聞くや、湯気の立ち上るひっくり返った飛行艇の横穴から中に入っていきました。
中からクラリさんの甲高い絶叫が聞こえましたが、少しして、その横穴から彼女はずぶ濡れになって出てきて、左腕でコウさんの肩を掴んで、引きずり出しました。
「んぅう、んぅー!」
クラリさんは近くの木立の根元まで彼を引きずると、そこでコウさんの腕を放しました。
息も絶え絶えのクラリさんは、それが少し乱暴に彼を地面に落としたことまで気にかけられない様子でした。
コウさんは、白くなった皮膚が浮いていて、重度のヤケドを負っている様子でした。
クラリさんは護衛組の中で唯一の救護要員でしたが、彼女の今の様子では、コウさんに対して処置できることは、なさそうでした。コウさんは、魔法で怪我を治癒することができず、時間をかけて自然回復していく以外に、手立てがないのです。
「お前の仕事は終わりだ……逃げろ……」
「いや、です――」
クラリさんは、血の混じった濡れた髪を頬に張り付かせて、首を横に振りました。
彼女は周囲を見渡し、瓦礫の中になにかを見つけると、よろよろと歩いて、それを引きずりながら持ってきました。救急用品の入ったカバンのようでした。
「日が沈む前に、できるだけ、遠くへ――」
彼女はカバンから包帯を取り出して、コウさんの腕を巻きはじめましたが、全身を覆う爛れた皮膚を庇うには、長さがまったく足りませんでした。カバンに入っていた薬や道具をひっくり返して、使えそうなもののありったけを彼に施しましたが、そのどれもが中途半端でしかありませんでした。
「ずっと一緒……です」
仰向けに倒れたコウさんの身体は、もはや息をするだけで精一杯の様子でした。
クラリさんは彼の頭を膝に乗せて枕代わりにすると、彼の頭を抱きかかえて、背中を丸めました。彼女の顔は蒼白で、脂汗が滲み出ていました。
夕日の最後の欠片が二人を照らして、森に差し込む長い影を作り出していました。そこに、私の影はなく、私の背後で見守るようにして立つ、おぼろな神使様の影だけがありました。
しばらくして、コウさんは静かに息を引き取りました。その直前まで、口を開けて息をしようとしていた彼が、すっと、徐々に力が抜けていくように、動きを止めたのです。
その頃には、森は薄暮の輝きさえも失い、薄雲混じりの深藍の夜空に圧倒されはじめていました。
周囲の木々や残骸、瓦礫は、影のように暗くなっていきます。
それでも、クラリさんは彼を抱きかかえたまま、その場を動こうとしませんでした。
突然、彼女は振り向いたかと思うと、血の塊の混じった吐瀉物を脇に吐き出しました。
コウさんを抱きかかえ、なでる彼女の手は震え、静かに涙を落としていました。
シャララと、夜の一番風が森を駆け抜け、木々の葉をかき回して通り抜けていきます。彼女は吹き付けた夜風に彼に残された体温が奪われないよう、抵抗するように、彼の亡骸を片腕で強く抱きしめました。
それからまた少しして、彼女はより血の濃くなった吐瀉物を吐き出しました。
彼女の息もだんだん荒く、その表情も虚ろになっているようでした。それでも、彼女はその口からよだれの糸を引いても、それを肩で拭って、コウさんを抱きかかえたその片腕だけは、絶対に放しませんでした。
――――。
機体からあれだけ立ちのぼっていた湯気も見えなくなって、流れ出していた熱湯さえも枯れきって、しずくが滴るだけになったころ。
彼女は力なく吐瀉物を覆うように、草木が風に揺れる音の中に混ざって、鈍く倒れこみました。彼を抱いていた腕がするりと解けて、森の木の根の上に落ちたのです。
クラリさんは、倒れ込んだときにはすでに息絶えていました。彼女がいつ息を引き取ったのか、私にも分からなかったほど、静かに、穏やかに亡くなりました。
「世界は、外界からの異物を排除するよう振る舞う。人を象る人ならざるもの。生物を象る生物ならざるもの――それらを排し滅する力が、この世には備わっています」
――その力から、彼を守り通すことが、あなたの使命でした。
神使様は呆然としていた私の背後に立って、仰います。
いましがた、目の前で命の灯火を消した彼女は、我々が使命を与えるまでもなく、不完全ながらも、あなたがするべきだったその責を全うしようと、最期まで勇敢に戦った、と。
「お願いします。どうか、彼らを――」
「我々は本質的に観測者であるべきであり、結果への過度な直接介入は行動規約に従い、制限されます」
お救いください、そう言おうとした私の言葉を遮って、神使様は仰います。
「我々は間接介入により事態の打開を試みましたが、十分な自由度を得られず失敗しました。特定の条件を満たす結末を獲得するには、時間の長さが足りません」
「ソルバによれば、あなたがこの問題を回避できる唯一の手段である可能性が高く、よって使命を与えました」
あなたの使命の遂行の放棄により、我々の救済は破綻しました。
続けて仰せられる神使様のお言葉、うちに秘めた思し召しのすべてを理解することは、私には到底かないませんでした。
私に弁明も許さないような、神使様の圧倒的なお言葉を、ただ拝聴するしか、できませんでした。
私が分かる唯一のことは、神使様が正しいということでした。
「――来たる大動乱の時代、未曾有の災厄に立ち向かいうる貴重な存在を、我々は失うことになります。ついて、我々はあなたを背任行為により弾劾します」
「…………。」
神使様のお言葉の背後で、どこからか明かりを持った数人の男たちが空から降り立って、墜落した飛行艇の周りを漁りはじめました。
彼らは、木立の隅で息絶えた二人に見向きもしませんでしたが、やがて一人の男が気づき、歩み寄って、息絶えた二人の顔を照らしました。
「手間かけさせやがって」
彼は吐き捨てるようにそう言って、濡れて冷たくなったコウさんの服をまさぐって、その内側から懐中時計を引き出しました。
「ダメ、やめて!!」
私が間近で叫ぶ声も、やはりその男の耳には届きませんでした。
男は細いチェーンを掴んで、明かりで懐中時計の輝きを確認すると、満足そうに自らの懐へ入れて歩き去っていったのです。
「ああ、あぁ……」
私は膝を折って崩れ落ちました。
必死に逃げて生きろと訴えたコウ。けして見捨てることなく、最後まで添い遂げて力尽きたクラリ。二人の死の余韻間もないその空間を、粗暴な男たちが踏み荒らし侮辱していくのを、私は黙って見ていられず、足に力も入りませんでした。
うつむきしゃがみ込んでも、略奪者たちが金目のモノを探すために、飛行艇の瓦礫を放り投げて地面を転がす鈍い音からは逃れられませんでした。
突然、彼らの現場を荒らす不快な音が遠ざかったかと思うと、急に世界が大きく歪み、脈打ったかと思うと、世界は無数の断片に分解されて、空高く舞い上がり、破片の下からあの無機質な白い空間が姿を現しました。
世界を色づかせていた、音も、光も、匂いも、すべて、何もかも消えて、再び上下が分からなくなるような浮遊感と、無音の世界が場を包みます。
神使様は、座り込む私の前に立つと、無言で同じように私の前にしゃがんだかと思うと、私の顎を掴んで、強引に私の視線を神使様に向けさせられました。
神使様の吸い込まれるような青緑の両目。瞬きひとつせず大きく首を傾げてじっと、私のことを見ていました。
「――あなたに裁定を下します。」
私は神使様から目を逸らすことができませんでした。
「あなたは、これからコウ――アダチ・ミツヒデが死にゆくまでの一部始終――あなたは、彼が苦境に立たされ潰えていく様子を、その目で、耳で、意識で、永遠に観測しなければならない。」
「あなたがこれから見る世界は、いま、あなたが見た結末を辿るとは限りません。いつ、どこで、彼が死に絶える運命と遭遇するのか。五分後か、二日後か。半年後かもしれません」
神使様は私に宣告します。
しかしながら、彼らが必ず死ぬとも限らない、そう神使様は仰せになりました。私が使命を放棄したことで彼が死ぬ確率は限りなく高いが、それは必定ではない、と。
「観測は一度ではありません。何度でも過去に戻され、これまでとわずかに異なる未来を見ることになるでしょう」
「リンネ・エルベシアは復活します。しかし、それは所有を放棄したあなたの肉体ではありません」
XØR。彼女がそう呼ぶと、どこからか、太い黒縁の縦に少し潰れた円が神使様の脇から現れて、キリキリと音を立てました。
彼女の目が私からその黒縁の円に向けられます。
その異様な外見と、鳥の鳴き声のようで生き物でもない音が、不気味な処刑装置のように思いました。
「……Jamie? そのエイリアスは、どこで手に入れたのかしら」
XØRと神使様が呼んだその物体が、声に呼応して、キリキリ、シューと答えます。
神使様は、XØRの切り裂くような音と会話しているようでした。
「まあ、よいです。先の通り、あなたにはリンネ・エルベシアとして振る舞ってもらいます――ええ、それは渡します」
この、不気味な怪物が私の代わりになるなんて――そう思った瞬間、潰れた黒縁の円はその両側の縦線部の中央にうっすらと亀裂が入って、まるで獣の瞳孔が横に開くかのように、小さな黒縁の円がコブのように膨らみはじめました。
コブが開ききると、そのコブの両側の線に再び亀裂が走って、また小さいコブが作られます。
その光景が何をしようとしているのかさえ、分かりませんでした。ただ、そのXØRと呼ばれる処刑装置が動きはじめたことだけはハッキリしていました。
コブは分裂と増殖を続け、石鹸の泡のようになっていきます。
泡のように増殖して肥大化したコブは、剥がれ落ちるように分かれていきます。
その無数のコブは、それぞれ小さな黒縁の円になって、私も周りを囲って転がりはじめます。
何かが始まっているのに、何をされているかさえも分からず、私は恐ろしくて声も出せませんでした。
そして、私の両手が無数の粒子となって剥がれて舞い上がっていき得ていく様子を見たとき、私はここで本当に終わるんだと、感じました。
神使様は、いつの間にか、私を取り囲んで回り続ける不気味な円の外側に立って、煌めく銀の球体を大切そうに抱えていました。
あれだけ深かった両目は閉じられ、長く美しい睫毛が私の最後の視界に映ります。
「愛しきこの世に安寧をもたらす光とならん――」
私が最後に聞いた言葉は、神使様の冷酷で慈悲深い、祈りのようでした。
*
――気がつくと、私は迎賓館のベッドの上で、天井を眺めていました。
近くの窓から差し込む陽の光が柔らかく、静かで穏やかな空間。まるで、つい数十秒前まで見ていた裁きが、悪夢のようでした。
どこからが夢だったのか、私が屋上から身を投げたときからなのか、どうして私が助かったのかさえも分かりませんでした。
けれども、私は奇妙な違和感を抱きました。
私は身体の一切を動かすことができなかったのです。声を出すことも、息をすることも、瞬きをすることもできませんでした。
まるでやり方を忘れたかのような、最初からそんな方法など存在しなかったかのような、操る糸がすべて切れてしまったような感覚でした。
私の代わりに、呼吸をし、瞬きをする誰かがいました。そして、その誰か――XØRは、私の上体を起こすと、ふらっと立ち上がって、窓辺に立ち、外の景色を眺めはじめました。
窓にうっすらと反射して映る人の姿は、間違いなく私そのもの――私だったものがそこに立っていました。
私があのとき、身を投げなければ、私は、私の身体のままでいられたのです。
あの悪夢のようで鮮明に覚えている弾劾裁判の記憶は、私にとって現実の延長線上だったことを思い知らされます。
「なんで……」
後ろから震えた声がして、エクソアは振り返りました。
呆然とした表情を浮かべていたのは、コウさんでした。私は飛行艇が墜落して、命も尊厳もズタズタにされた鮮烈なあの情景を思い出しました。
「なんで――」
繰り返し呟く彼の表情はやつれ、目の下のくまが、見たこともないくらい濃くハッキリと滲んでいました。今、コウさんは生きていて、ここが迎賓館だということは、まだ出立していないということで――
「コウさん」
エクソアは、私の声を使って、私を騙って勝手に彼の名を呼びます。それは、私の意思ではありませんでした。
それでも、彼の表情が溶けるように歪みます。
「リン、ごめ、俺――」
彼の頬を流れた一筋が、床に染みとなって消えていきます。
「あんな思いさせちまって……ほんとごめん――」
慎重に紡ぐ彼の言葉は震えていて。
私は、今まで生きてきて見ることのなかった態度でした。
「俺が悪かった――つらかったよな、怖かったよな、最期まで不安だったよな――」
あんなに傷つけたはずの私に対して……コウさんは、私を責め立てるどころか、声を震わせ、涙を流している。私は、誹られることのなかったもう一つの罪――あの夜、身を投げたことの過ちを自覚しました。
私はあの夜の選択がこの過ちを補って余りある選択だったのか、分からなくなってしまいました。神使様から授かった神託をなげうったことを考えに入れなくとも――いま彼が私に向ける感情は、私を貫くように痛く刺さりました。
エクソアは、彼に向かって、控えめに両手を広げました。笑うことも、涙を浮かべることもしませんでした。ただただ、控えめに両手を広げただけでした。
コウさんは歩み寄ろうとして、少し躊躇いを見せましたが、何かに弾かれたかのように私の胸に飛び込んで、私を抱きしめました。
その力はとても強く、生半可な力では振りほどくことができそうにありませんでした。彼の目の下のクマができたのは、飛行艇の計画のためではなく、きっと私のことでずっと思い悩んでいたのではないかと、私が過去に繰り返し夜にうなされていたときと同じ苦痛を味わっていたのではないかと――
「俺バカだからさ――気づいてたはずなのに、お前が死んじまって初めて分かったんだよ。すまない、本当に……」
それでも、彼が私を抱くその力強さと温かさは間違いなく私に伝わりました。けれどもその温かさも力強さも、向けられたのは私ではなく、肉体の持ち主です。
いま、本物のリンはエクソアであって、私はその五感に寄生する意識なのです。そのことを彼は知る由もありません。
「なかないで」
「泣かずにいられるかよ馬鹿野郎!」
発音の一つ一つを確認するように伝えたエクソアの言葉。私がいま、コウさんに伝えたい言葉があるのに。私は見ているだけで、手も足も出ず――身体の一切を乗っ取られ、動かせない私は、彼になにひとつ、伝えられません。
私は、紛い物。
これが、私に課せられた神罰でした。
第5話-B章完結。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
◆クソ(みたいな後)書き
5話完結まで12年以上かかってしまいました。すみません。
これまでSFでありながら、あえてSF要素を薄く描いてきた理由。
それは、主人公の人生の追体験のためで、リアルに描こうとしてる理由でもあります。
物語はきっと、1周目と2周目以降で見え方が違うはずです。
ずっと真剣勝負してるから時間かかるんですけど。バカなんですよね。
ELVESとはなんなのか。
Jamieもとい、XØRの正体は?
神使RAXAは何をしようとしているのか?
次章もまた、続きが読みたくなるような面白い小説を書いていきます。よろしくお願いします。
追伸:10代でこのプロット作ってたってマジ?
いや、未来の私がかなり肉付けとアップグレードしたけどさ。