第5話 B-77 奇跡
「あそこまで言われちゃぁ、どうしようもねぇよなぁ――」
ベルゲンがセイレンに連れられて去ったあと、俺とガルが執務室に戻るなり、ガルは葉巻に口を加えてそう言った。
先ほどまでのかしこまった口調はいずこ、葉巻に火をつけ気持ちよさそうに鼻から煙を吐き出して続ける。
「元は民衆の税とはいえ、一度集めりゃベルゲンのカネだ。資本関係で見ても逆らえねぇぜ」
ガルは、俺の決断を、もはや既定路線で逃げようがなかったものだと肯定的に語った。
「『退屈な街だ』と堂々と言い切ったのは、驚いた」
「んあぁ――あれで表情一つ変えなかったろ。デキの悪い為政者なら俺が最後まで語る前に騒いだだろう」
ガルはあの一言で、ベルゲンが一時の場の流れに惑わされない冷静な男だと実演してみせたのか。ベルゲンが俺を説得する際に用意してきたシナリオから外れた出来事を、あの場でわざと起こしてその人物像を試したのだ。
「ちょっち胆力は必要だったがな。この街は扱いが難しすぎる。一挙手一投足、すべてが針に糸を通すようなもんだ。分別つかねぇ小物にゃ手に負えねぇだろうよ」
「……そうかもしれないな」
「まるで別れた女――いや、自分の決断が正しいかなんざ、すぐ分かるなら誰も苦労しねぇよ。どっちを選んでも多少の後味の悪さは残る。それが人生ってもんだ。諦めな」
ガルは飄々と言い切ると、茶でも飲みに行くと俺に言って部屋を後にしようと歩きだす。
老兵の語る言葉は、いつもどこか一段飛ばした抽象的な物言いが多いが、それが難解でもないのが不思議だった。まるで正解から逆算して話をしているような、自然と受け入れられるような言い方をする。
「ああ、そうだ……お前さんに言わなきゃならんことがある。このまえ言うべきだった話だ」
俺に背を向けていたガルが振り返り、葉巻を咥えながらいう。
ガルの目は俺をまっすぐ見ていた。
「リンを死に追いやったのは、別にお前だけじゃない。リンはお前以外の人間とも多少関わってるはずだ。関わった人間も、多少の差はあれど同罪を背負ってんだ……俺も含めてな」
ガルは、リンのことを陰気な大人しい少女くらいにしか思っていなかった、と口にする。
「みな他人事みたいなツラして、流れ弾から逃げてんだ。こらえて向き合ってるお前さんは立派だ――ひとりの人間の見方を変えさせるくらいにはな。とはいえ、お前さんがひとり、ケジメをつけて決着する話でもない。塩梅が重要ってことだ」
「…………。」
「お前さんには人を変える力がある。立ち上がる決心がついたら、胸張って進め」
再び鼻から紫煙を吐き、むせて咳き込み痰が絡むのを気にしながら出ていくガルの後ろ姿。俺はガルにベルゲンとの会話に付き合わせた礼を言いそびれてしまったことを思い出したが、口にしようとする頃には、既に姿は見えなくなっていた。
やることがなくなった俺の足は、自然とリンの部屋に向かった。
俺ができること、すべきことは、うまく言葉で説明するのは難しいが、リンの傍にいることだと感じる――そうだ、結局どこであれ、彼女を墓に納めてしまえば、遠く神都に行く俺は墓前に立つことが難しくなってしまう。そう感覚的に理解しているのだろう。
今しかできない贖罪のようなこの感覚は、それで説明がつく。そうでなければ困る。
ガルの言葉を借りるなら、それが俺のケジメのひとつだろう。
塩梅が重要。彼女の後を追うようなマネはするな、そう言っているように思えた。飛行艇の件、リンの件、命を捨てて解決するならその方が楽だ。脳裏に一瞬でもよぎったことがない、といえば、嘘になる。
リンの部屋にノックをして入る。中から返答があるわけもなかった。
迎賓館の仲間達は、共に働いている馴染みのあるグレアの方の見舞いにはよく顔を出しているようだったが、リンのところに来るものは、俺以外にいなかった。来たとしてもセイレンくらいで、それももっぱら俺に用があって来るだけだった。
静かに部屋に入ってドアを閉める。そこで俺は小さな違和感を抱いた。直感的に、空気が動くような、人の気配を感じたのだ。
「――誰かいるのか?」
呟くような問いかけに当然、空気は答えない。歩みを進める。時折ある気のせいだろうと。
いや――これは時折ではないかもしれない。
足が止まる。背筋を走る悪寒。いよいよ、俺は現実と妄想の区別もつかず、いよいよ気が触れたのかもしれなかった。
窓際の影がゆらりと動く。
俺の目には、ベッドの窓際に――死んだはずの彼女が立って外を眺めているように見えるのだ。
それは確かにリンだった。見慣れた後ろ姿、いつもの佇まい。
「なんで……」
ベルゲンとの会談に行く前には確かにかかっていた、かけ布団。捲れ上がって抜け殻になったベッド。
俺の一言に気づいて振り返る彼女。リンの顔。そんなはずはない。それなのに。
「なんで――」
日に照らされた彼女の顔。光に透け、反射する髪。目の前の幻覚はこうも鮮烈で美しく映るのだろうか。
生々しく見える現実。彼女に一歩近づく。足音が妙に現実的だと思った。
――これはきっと、幻覚だ。俺はいまどこかで倒れていて、それに気づかずこんな奇妙な夢を見ているに違いない。だが――
「コウさん」
俺の名を呼ぶリンの声。あのときの記憶のままの、声。
リンの声が、俺を揺さぶり、現実か虚構かなんて、どうでもよくさせる。
「リン、ごめ、俺――」
どっと噴き出す名もない感情に視界が歪む。これが現実だろうと、夢だろうと。
俺はいま、彼女に伝えなければならない。
「あんな思いさせちまって……ほんとごめん――」
彼女に近づけば、空間ごと消えてしまうような気がした。
目尻から涙が流れる。涙の熱さも分からないほどに。
伝える言葉は、震えて、口からこぼれ落ちる。
「俺が悪かった――つらかったよな、怖かったよな、最期まで不安だったよな――」
リンが身体を俺に向けて、控えめに、ゆっくりと両手を広げる。背後の窓から差し込む陽光。その仕草は、俺を誘っているようにも見えた。
立ちすくむ。
リンの最期。屋上の風景が脳裏をよぎる。深く、暗い夜空に吸い込まれるように消えた彼女。間に合わなかった、あの瞬間と重なる。
歩み寄ろうとすれば、また消えてしまうのではないかと、恐ろしかった。
だが神が俺に与えた最後のチャンスだとも思えた。ここで俺が動かなければ、俺は一生、あの場所、あの時空間に閉じ込められたままだ、と。そう言われている気がしたのだ。
竦む足を打ち破って、彼女に駆け寄り抱擁する。彼女は消えることはなかった。肌で感じる、いままで冷たかったはずの身体の温かもり。夢ではないのだ。
「俺バカだからさ――気づいてたはずなのに、お前が死んじまって初めて分かったんだよ。すまない、本当に……」
「なかないで」
「泣かずにいられるかよ馬鹿野郎!」
リンの、一文字ずつ噛みしめるようにゆっくり発する言葉。間違いない。彼女は、いま、ここに生きているのだ!
これが夢であるなら、どうか、どうか俺を起こさないでくれ――まだしばらく、この夢に身を置かせてほしいのだ。