第5話-B75 鎖
待たせたな。
昨日の防衛軍の訪問の後から、俺はずっとリンの部屋にいた。ベッドの横に椅子を置いて、横たわる彼女を、ひとり、一晩中見ていた。
俺はいつの間にか寝てしまっていた。彼女のベッドに突っ伏して寝ていたようだった。
起き上がると、背中から何かが剥がれ落ちた。俺の知らないうちに、誰かが来てくれたのだろう、覚えのない毛布だった。
毛布に茶色の細かい毛。クラリの尻尾の毛のように思えた。わざわざ自分の毛布を持ってきたのかもしれない。
ありがたかったが、彼女の優しさは今の俺には過ぎたものだった。
毛布を畳んでベッドの脇に置いた。
彼女の青白い顔に触れる。冷たい手を握る。過ぎてしまったこと、終わったこと。彼女の横にいたとて、今となっては彼女の救いにはならない。俺の罪滅ぼしにもならない。
「…………。」
リンが身を投げたあの瞬間から、何度もループする後悔と、どうすれば良かったんだという自己弁護のような思い。
"お前さんはリンを頼るべきだった"
昨日のガルが答える。
"自分が必要とされていないことに辛さを感じていたんだろう"
俺は飛行艇を作っていく中で、多くの人に頼っていた。知恵も、力も、技術も。俺一人では到底及ばないものを造る。そう頭では理解していたが、ガルの言う通りだった。彼女を飛行艇の蚊帳の外に置いていたのは、間違いなく俺だ。
窓の外から差し込む日の光。毛布を畳んだ時に巻き上がった埃が当たりきらめく。
また一日、彼女のいない世界の暦が進んだ。
俺には、どういうわけかリンを飛行艇の開発に巻き込むという考えがなかった。彼女が飛行艇作りにおいてどう頼るべきかというのも、いまいち分からなかった。どうすれば彼女を救うことができたのか、ガルの言葉を咀嚼するように思い出していく。
"助けてほしい、話を聞いてほしい、なんでもいい。頼るべきだった。そうすれば、周囲の人間がいくらリンを排斥しようとしたとて、お前さんがリンを必要とする限り、リンはお前さんのために頑張れただろう"
――飛行艇開発に奔走して、くたびれた俺の泣き言でもよかったのだろうか。
リンに、そんな心の内を語る発想さえ、今の今までなかった。キツいぜ、などと軽口を飛ばしつつも、みっともない弱みを誰かにさらけ出すことなど、今まで考えもつかなかった。
みんな、すげぇよ。
リンと一緒にいた時間は俺が一番長いのに、彼女のことを、俺のことさえも、深く、一番よく理解していたのは、最も新参のガルだった。
リンが工業ギルドにいる俺にわざわざお菓子を差し入れてくれたあのとき。いま思えば、彼女は誰かの役に立ちたかった想いの現れだったのだろう。あるいは、彼女自身が最期まで苦しんでいた罪に対する償いのひとつの形だったのかもしれない。
"――私は、私自身の幸せも同じように尊重したい、してほしいと思っています。
コウさんが私を探してくれた。なんでもないことでも、初めて与えられる私にとっては、それはとても、とても大きな幸せなのです――"
"ですからどうか私から、幸せの総和を奪わないでほしいのです。これ以上、幸せの総和を奪いたくないのです。最期に『生きていて幸せだった』と、そう言える一生を私にも、皆にも望んでいるのです"
――怖い思いをさせちまったよな。
リンが最期に語った言葉は、すべてそれまでの彼女自身の行動を否定するような言葉。彼女の、自分自身への詭弁。彼女の様子が次第におかしくなったことは分かっていた。
今なら分かる。リンがエルベシアで、自分では魔力を作れない体質に悩まされていたこと。
誰かから魔力、血をもらわなければ生きていけない。彼女が最初は元気だったのに、次第に出歩かなくなって、顔色が悪くなって、部屋に引きこもってしまったこと。
この世界の人間は、真に魔力がなくなってしまうと死んでしまう。それまでに、疲労感が出たり、体調が悪くなるサインが出る。
それが、リンの身に起きたことだったのだ。誰からも魔力を与えられず、助けを求めることもできず、時間が過ぎていくジリ貧の中で苦しんでいた。
だから、彼女は魔力を求めて俺に毒を入れたのだ。ハッキリ覚えている。彼女が部屋を訪れて真っ青な顔で、開口一番「助けて」と言ったことを。
彼女の体質ではやむを得ない行動だった。だが、俺を傷つけることで、彼女の過去の罪がフラッシュバックしたのかもしれない。あるいは遠慮がちな彼女の性格、元から救済願望と自己嫌悪の絶妙なバランスの上に立っていたのかもしれない。
俺は彼女への中途半端な対応で、やったつもりになっていた。それは彼女のためではなく、俺の「対応しますよ」なんて姿勢を見せるためだけの保身だったんじゃないのか。幾度となくあったチャンスの、一度でも一歩踏み込んでいれば。
「分かんなかったんだよ……」
どうすりゃいいのか。
そう呟いたところで、リンはもう答えることはない。いじめられていたクラリを護衛にと力推しした彼女の温かさも強さも、もはや今の彼女の亡骸には残っていなかった。
そうか――リンがあれほどクラリを強く推して退かなかったのは、クラリがいじめられている様子をみて、自分の過去の迫害と重ねて見てしまったのか。
空気の抜けるようなため息しか出ない。クラリが持ってきたであろう毛布を眺める。日光に当たって、毛布の上の茶色の毛が輝いていた。クラリのだろう。
「俺だけじゃん、なんもできてねぇの」
"俺達を頼ってくれよ――ひとりじゃ重たいだろ"
普段お調子者だったブロウルでさえ、俺がリンを引き留められなかったあの屋上で、あの言葉を紡ぐだけの器の広さがあった。
俺は頭を抱えた。頼ってくれ。それは俺が伝えられなかった、リンに言うべきセリフだった。
「なんであんな簡単に言えるんだ」
あんな熱くて格好いい奴がいてたまるかよ。
予防線ばかり張って及び腰のやつが吐けるセリフじゃない。ブロウルはそんなのお構いなしに俺に言い切ってみせた。俺がいかにちっぽけな奴か思い知らされる。
皮肉にもブロウルに手を差し伸べられることで、ガルに話を聞いてもらうことで、俺は身投げしたリンが必要としていた救済というものを知り、そして他の誰でもない俺が救済を受けることになったのだ。
後でメルから聞いた。グレアがリンと一緒に墜落したのは、お前の身投げを止めるつもりで、下の階の窓から身を乗り出して動いていたからだったそうだ。
あんなに嫌悪感を隠さなかったグレアでさえ、身を挺してお前を止めようとしていたのだ。
同時に思う。リン、現状が最大の幸せだっていうのかよ、と。
こんなに良い奴らに囲まれて、揃いも揃って俺よりデキる暖かい奴ばかりなのに、どうして身を投げる選択が最大の幸せだと思ったのかと。
……分かっている。リンと彼らの間の関係を取り持つことを、最期まで俺が怠ったからだ。彼女の幸せのチケットは、ずっと俺が握ったままだったのだ。
「どうしろと……」
膝を丸める。俺の髪を乱暴に掴む手が震える。涙が溢れる。
言えばいい。やればいい。分かっていても。俺が過去に戻ってやり直すとしても。焦るだけで、また同じ結末にたどり着く。妙な自信だけがあった。
行動できる気がしない俺が窮屈だった。まるで自分がなにかに縛られているだとか、狭い空間に閉じ込められているかのように、身動きがとれない感覚。俺の周りが選んでいく選択に手が届かない。
"お前さんがこの先、リンのような人間に出会ったとして――決して後悔するような選択はできないだろう。それがリンがお前に遺した呪いだ"
歯を食いしばる。奇跡が起きようと。どうあがこうと。俺はリンを助けられない。
誰の問題でもない、俺自身の問題だ。そこに逃げ道はない。
俺自身が変わらなければ、この先も――
「アダチ様」
リンの寝室のドアをノックする音が聞こえた。まだ聞き慣れない声だったが、ドアの向こうの声の主はセイレンなのだろうと思った。
「悪い……まだ、ひとりにさせてくれ」
俺はドア越しに聞こえるように、震える声を上げて答えるのがやっとだった。
二拍、間を空けてドアの向こうから返事が聞こえる。
「本日午後から、お見舞いのために領主ベルゲン様がお見えになるとのことです。アダチ様ともお話がしたいと」
お見舞い。青白いリンの顔を見た。その言葉に、彼女への弔問は含まれているのだろうか――ベルゲンとリンの間に直接の面識はない。おそらくそれは俺と、もっぱら負傷したグレアの様子を気にしたのだろう、と思った。
グレアはベルゲンの庇護の下、迎賓館で身を潜めて生活していたのだ。過去一度ベルゲンと会ったときの心を許したようなグレアの言動を思い出す。それなりに交流はあったはずだ。
白いドアの向こうの声は、如何いたしましょう、とは言わなかった。代わりに、お時間はまだありますので、と付け加える。
断らずに会ってください、と言われているようなものだった。断るといえば動いてくれるのだろうが、そこまで言う気力はなかった。
ベルゲンと顔を合わせて何を言われるのか。飛行艇の計画が遅れていることか、予算を使いすぎたことか。どちらも最善を尽くしての現状とはいえ、何度か催促の手紙を送ってきた張本人と直接顔を合わせるのに乗り気になれるわけがなかった。そのうえこの惨状だ。
合わせる顔もない。こんな時に限って。
――いい加減、ひとりにして欲しかった。
主人公もだんだん整理がついてきたようなので。
そろそろ、話が動きます。




