第5話-B72 空白
いつの間に寝ていたのだろう。窓から差し込む日光で、部屋が明るかった。
昨晩はずっと泣いていた。いつの間にか寝てしまったのだ。
眠った気のしない、ぼんやりとした目覚めの悪さは当然の成り行きだろう。
時間には進まないでいてほしかった。時が止まったままの、朝日を見ることのないあの空間に一生囚われていたかった。
ハッキリとした理由は分からない。しかし、ただ漠然とした後悔の奔流の中に、卑しくも安息の地を見つけてしまったように思えた。
時間の経過とともに、昨晩のことが広く知られてしまうことが嫌だったのかもしれない。
これが単なる一夜の悪夢であってほしかったのは、間違いない事実で。
この心境を言葉にするなら、どう表現するのだろうか。俺自身、全く見当がつかない。誰にも罰せられることなく、ただ自らを罰し続ける時間を求めているようで、それでいて逃げ出したい。
葛藤とは少し違う気がする。
眼に映るのは部屋に広がる明朗快活な日光。鼓膜を震わすのは小鳥の鳴き声。
彼女がいないことを意に介さない平和の来訪。俺の身体を温める陽光は、リンに温もりを与えない。
一晩経った現実は確かにそこにあったが、一度眠りに落ちてからの今この瞬間は、少しだけ現実を受け入れられそうな気がした。
高い日射しに懐中時計を取り出す。針は四時に差しかかろうとして力尽きていた。
日の高さ的に、午前十一時頃だろうか。緩みきったゼンマイを回しながら立ち上がる。長針は再び十二の頂を目指すが、もはやそれに意味などなかった。
日の明るさ的に、いつもなら工業ギルドで飛行艇の進捗やトラブル、あるいは金策について考えている頃だと思う。
今日の予定がどうなっているか、まるで分からなかった。
昨日まではグレアが予定を教えてくれていたが――彼女は今どうなっているだろうか。
ギルドの彼らには申し訳ないが。懐中時計を懐に入れて、部屋のドアに手をかけた。
「……ごめん」
言葉が枯れた俺からは、リンに対してそれ以上の言葉は出せなかった。
どんなに鮮烈な感情も、言葉で綴ればありきたりになって腐り落ちてしまうのなら。
言葉を一方的に投げかけて、そっとドアを閉めた。
誰もいない。静かで明るい廊下の様子は、連日ギルドに入り浸っていた俺にとっては、学校を休んでテレビを見ている感覚を思い出させる。
絨毯のホコリが舞い上がって空中でチラチラ輝くさまは、本当に無情で穏やかだ。
グレアは今どこだろうか。
昨晩それについて何か言われたかもしれないが、記憶には残っていない。覚えているのは、彼女は助かる可能性がある、という話だけだった。
可能性で考えればグレアの部屋だろう。
吹き抜けの階段を、靴音を響かせながら一人登る。
静まりかえった迎賓館に人気はない。誰かと出くわしたくない俺には都合が良い。
俺がこの事態を引き起こしてしまったという罪悪感がある。逃走する犯罪者の苦しみとは、こういうものなのだろうか。
「…………。」
グレアにも悪いことをした。
彼女もまた一時生死が危ぶまれていたはずなのに、俺はリンばかり見ていた。
なぜ俺がそうしたのか言い訳を挙げるとするなら、元々リンが心配になって探していたこと、リンの自殺を唯一止められる立場にいながら止められなかったことに後悔したことで、俺の意識や気持ちがそれでいっぱいになってしまったのだ。
そしてグレアは俺よりも心身ともに強靱な人だという印象があった。そう簡単には死なないという信頼。
重傷とはいえ、リンよりも怪我の程度がマシだったこともあった。
俺がグレアの立場なら、自分を放ってリンに行く"俺"を、どう見るだろうか。
私の見舞いを優先しろ、などと本気で言うことはしない――そういう気持ちが心の中にあったとしても。
(どうすりゃよかったんだ……)
答えの出なさそうな、複雑に絡み合った一塊の問いが意識を駆け巡る。
確実なことがある。グレアにとっての救いは、間違いなくメルだということだ。そして俺にとっての救いでもある。
メルはグレアのことを心から気にかけて、彼女につきっきりだったのだ。
つまるところ、どうあがいたって同時に二人を看ることは物理的にできない。俺の代わりにメルがグレアを心配してくれたと、そう思えば後ろめたい気持ちも多少楽になる。
そこまで考えて、彼女の部屋のドアの前にたどり着く。
おそらく彼女はここで寝ているのだろう。そうでなければ、鉢合わせしたメイドに尋ねるまでだ。
俺一人コソコソ隠れているわけにはいかない。
「ふー……」
深い一呼吸ののち、ドアをノックする――返事はなく、中に人気も感じない。
グレアについては、治療の末に回復の可能性がありそうだ、というところで別れてしまって以降、彼女の容態はもとよりその生死でさえも明らかではない。
悲嘆と懺悔に暮れていた俺を気遣って、今の今まで誰も俺に死を伝えていない可能性もあった。
考えすぎだろうか。いや、でももし死んでいたら。
「グレア……いるか?」
かなり緊張して心臓が嫌な高鳴り方をする。
ドアを少しだけ開けて隙間から問いかけたが、反応はない。そもそも生きていたとしても、こんな問いかけに返事ができるような怪我ではないが……
そっと部屋の中に入った。
彼女のベッドの横で、メルが疲れ果てて寝ていた。さっきまで俺がリンの前でそうしていたように。
天蓋のついた無駄に豪勢なベッドは、誰かが寝ているかのように膨らんでいて、実際そこにはグレアが横になっていた。
メルは、グレアのベッドに倒れこむようにして寝ていた。グレアの左腕を抱きしめて寝ている彼女の姿は、無意識の底からグレアを大切にしていたことを、あたらめて証明した。
メルの寝姿が、さっきまでの抜け殻の俺の寝姿と重なる。今見ているこの光景は幽体離脱した意識が見ているように思えた。
ならばグレアも死んでしまったのでは。そんな推論を荒唐無稽だと打ち返す。
いま。目の錯覚か、グレアの掛け布団が上下したような気がした。
彼女に近づく勇気が出る。
「あったけぇ」
グレアは生きていた。メルに抱かれるグレアの手に触れて感じた温かさ。メルの体温と間違えていないかと疑って手首に触れる――脈動。
「あったけぇじゃん……」
生きてくれていた。呼吸は錯覚なんかではなかった。そのことが俺にとっての救いで――押し寄せる波のような安心感が、涙になってまた溢れてきた。昨晩流しまくって枯れちまったと思うほどに出たというのに。
下唇を噛んで目を閉じて堪える。泣くなとは誰も言わないだろう。
それでもここで声を殺したのは、情けない声で、安らかに寝ているメルやグレアを起こしたくなかったからだ。
グレアは生きていた。
その事実だけで今は十分だった。彼女の負った怪我の状態や、そもそもどうしてグレアまで転落したのかなんてことは、あとで聞くことだ。
そのまま、俺はグレアの部屋を出ることにした。
泣いてばかりではいられない。この結末に対して、やらねばならないことがあるのだ。
涙を拭って隣の自室に入ると、知らないメイドが俺の執務机の背後にある窓から、外の様子を眺めていた。知らないメイドだとは、考えずとも分かった。彼女の後ろ姿は俺の知る誰の姿でもなかったからだ。
ドアの音に気づいた彼女は、その瞬間、身体をひねって見返すように上品に振り返る。絵になりそうな光景。……やはり見覚えのない顔がこちらを窺う。
「……グレアの代わりか」
俺がそう言いながら近づくと、彼女は俺の方に向き直って、その場でそっと頭を下げた。
「短い間ではありますが、アダチ様の身の回りのお世話を担当いたします、セイレンと申します」
「そうか」
「突然のことで。お悔やみ申し上げます」
執務机の前で立ち止まる。分かっているが、なんとも言えない気分だった。
セイレンと名乗った彼女が担う仕事は、言うまでもなく隣の部屋で寝ているグレアの仕事だ。
その仕事は俺の身の回りの世話であって、他人でも可能な仕事である。
「――本日のご予定ですが、事前に設けられた予定はすべて取りやめになっております」
分かっている。迎賓館としても、国の客をもてなすという仕事がある以上、身の回りのことは誰かにさせねばならないのだ。悪い方に考えすぎだ。
しかし丁重で腰の低い言葉遣いが俺の心に無機質に届いて、思わずそう感じてしまうのだ。
「ロイドが気を利かせたのか」
「さようです。今朝、工業ギルドに使いを」
「そうか」
ロイドの計らいは俺の世界では自然に、俺がすべきものだった。不幸があったから今日は行けないと、自ら伝えなくてはならない。
しかし、俺の常識が通用するとも限らない世界で、彼は気を利かせてくれた。この世界でも当然のことだったとしても、それはありがたく思える話だった。
無気力という言葉が一番似合っているだろう。俺はいま、何かしたいとは思えなかったのだ。
そんなワガママを言えるような立場ではない。
セイレンが執務机の椅子を引いて、机に近寄る俺に座るように促した。
その言葉に甘えて腰を下ろす。ついたため息とともに葛藤が広がる。
執務机に座って、俺は何がしたいのか、と。
するべきことを免除された本日において、執務机でやるべきことなど頭に浮かばないし、何もせずぼんやりとしているのも、落ち着かない。
本音を言おう。今すぐベッドに潜り込んで、この現実にアンテナを立てる目も耳も、すべて塞いで、丸まって隠れていたい。
そうしていることがばかばかしく思えてくるまで。
SOSを知っていて、恩人を見殺しにした俺が、ベッドで丸まるなんて許されるわけがない。
俺の人間レベルも、もはや測定限界を割り込んだだろう――死にたい。
「実は、今朝からガル様が隣の応接室でお待ちです」
セイレンの言葉で、両肘をついた腕で隠していた顔を上げて、応接室のドアを見やった。
「『横にさせてほしい』と仰っていたので、おそらく休んでいらっしゃるかと」
「起こしちゃ悪いか……」
昨晩はガルも動いてくれていた。何をしていたのかまでは、まだ把握していない。
しかしガルの落ち着いた性格から考えると、俺のように無駄に慌てふためいていたわけではなかったはずだ。
寝ているということは、昨晩は遅くまで動いてくれていたということなのだろう。
「いや、起こそう」
寝室で気持ちの整理もつけたいが、俺は当事者としてすべきことを、まだしていない。
何がどうあってこの事態が引き起こされたのかを語り、これからの振る舞いを考えねばならないのだ。
そして、どうすべきか分かるほど俺は人生を心得ていない。
座ったばかりだが。おもむろに立ち上がろうとすると、セイレンが声を割りこませた。
「お昼は如何いたしましょう」
あー……そういえばそんな時間か。机に両手をついて立ち上がったまま首をひねる。
しかし隣室でガルを寝かせたまま一人昼食としゃれこめるほど神経は太くない。
そもそも食欲が出るような体調でも気分でもない。
料理人が困るだろうか。そもそも昼前の時分である。既に作ってしまっていてもおかしくない。
「ガルの用が終わった後で考えたい」
「承知いたしました」
罪悪感から、作ってしまったなら誰かに回してくれと付け加えた。
承知いたしました、言葉が繰り返される。
「しかし何も口にしないとなれば、お身体に障ります。少しばかり、お菓子でも口にしては」
グレアはそんなことまでは言ってくれなかったな。気の利いたメイドだと思った。世話焼きの母親のようだ。
だが、それを受け入れるだけの準備を、身体はまだできていない。
「ガルの分も含めて、テーブルに出してくれるとありがたい」
俺にとってあまりに貴重すぎた心遣い。提案を蹴るには忍びなく、それはとっさに出た折衷案だった。
セイレンは昼食の件を伝える必要もある。俺とガルが話している間、ずっといるわけではないはずだ。一つの皿にまとめてしまえばいい。
「承知いたしました」
言ってから気づく。「気持ちだけ頂いておく」と言えば済んだことを。
その言葉が出てこなかったのは、俺がおかしいからだろうか。
ふと、右目から涙が流れた。俺はこんなにも冷静なのに。感情の昂ぶりのない冷たい涙が流れる。散々泣いて泣き腫らして、それでもまだ涙が出るのか。
そもそも、誰が泣いているのかさえも分からない。
涙を流しているのは俺だが、泣いているのは俺ではないのだ。
涙の跡を手で拭って、ガルのいる応接室にノックする。




